大須賀乙字という俳人 12



12月号

寒雷忌
 
 
 大正8年10月20日、戸隠山から帰った乙字は、風邪気味ですこし熱があった。その一週間後、大阪から春山武松が上京するというので、文人仲間らと歓迎会を行っている。この会に参加した文人仲間は、岩野泡鳴、織田一磨、室生犀星、岡本かの子など、当時岩野泡鳴が主宰していた十日会のメンバーが主だった。よほど楽しかったのだろう。その晩乙字は誰よりもはしゃいで、最後まで残っていたという。自宅に戻った時には深夜3時になっていた。改めて風邪を引きなおしたということだろうか。翌日高熱を出し、学校を休んだ。当時、巷で猛威を振るっていたスペイン風邪だったようだが、医者は普通の感冒と診断した。まだ熱が下がらないのに、30日には学校の式典に参加し、翌31日には、友人のドイツへの留学の見送りに横浜港まで出かけている。これらがダメ押しになって、翌日から高熱を発し、だんだんと喀血が続くようになる。
 スペイン風邪の大流行の折である。家族で寝ついている友人もいた。それだけに、見舞客が来ると乙字は喜んだという。
   三幹竹桐明君余が枕頭を守りて語無し
  黙しをれば時雨の音のつのりけり 大須賀乙字
というのは、その頃の句である。
12月に入ると、乙字はたびたび夢想の句を詠んでいる。
   夢に柿葉君と歩く
  大山颪津波の如き落葉かな
 12月の半ばから翌年の大正9年1月の最初の頃は、体は衰弱しているが、熱もそこまで高くなく、どんどん快方に向かっていると、周囲の者も乙字本人も思っていた。1月4日、乙字宅で句会が開かれた。当日集まったのは、大森桐明、吉田冬葉、伊東月草、内藤吐天など八人。席題は「寒さ」、乙字は横になったままの句会だった。
  鬚剃れば我腮尖る寒さかな 乙字
  道遥か荒海に沿ふ寒さかな 乙字
  魚棚を磨き上げたる寒さかな 乙字
  干足袋の日南に氷る寒さかな 乙字
など、この句会に乙字は七句を出した。本人としては1番の出来だと思っていた干足袋の句に点が入らなかったことを、乙字が不満がっていたという。乙字の絶句をこの干足袋の句と弟子達が決めたのは、そのエピソードからである。
 この句会の後、乙字の病状は急速に悪化し、大正9年1月20日午前10時、家族に看取られて永眠した。この正月で数えで40歳になったばかり、満年齢でいえば38歳だった。その日、寒雷が鳴ったという。乙字の忌を寒雷忌というのは、そこから来ているともいわれる。葬儀は1月24日。昼から冷たい雨が降っていたが、会葬者は500人を越えた。葬儀の翌日、雑司ヶ谷霊園に乙字は葬られた。また、遺髪の一部が、最初の妻千代の墓に入れられたと言うことである。

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