大須賀乙字という俳人 10
10月号
妙高の雲動かねど秋の風
大須賀乙字の最後の俳論は「仰臥漫筆」という。これは旅行吟について書いたもので、旅行吟の特色は大観にあることを力説している。「その時その場に適切な感じ、感想で動かし難いという点がありたい」という。振り返って、乙字自身の句について見ても、旅吟に秀句が多いように思える。
大正8年2月、乙字は、門下の争いや愛児の死など、複合的な理由から臼田亜浪の「石楠」から身を引いた。それが関係あるのかどうかは不明だが、この年はいつになく旅行が多かった。長野、日光、箱根、八ヶ岳、松島。そして10月に入って、上旬には出雲から上京してきた太田柿葉を伴って、長瀞へ、そこから足をのばして高崎へ赴いた。
粟たゝけ榛名は曇る雨もよひ 大須賀乙字
高崎では、村上鬼城を訪ねている。何の連絡もなくふらりと立ち寄ったため、その時鬼城は不在だったが、鬼城の娘が案内してくれて、会うことができた。子供達と蝗を捕っていた鬼城は、乙字と柿葉の姿を見て、暫く呆然となるほど驚いていたという。乙字と鬼城が直接顔を合わせるのは初めてではないが、高崎まで出向いて会ったのは初めてのこと。同行の柿葉はもちろん初対面だった。
案内してくれた子供達と別れて、高崎公園の茶亭で、2時間ばかり筆談で話をした。その時酒も出たが、鬼城はもともと酒をやらず、酒好きな乙字も、酒も飲まずに鬼城との筆談に夢中だったという。「乙字書簡集」の名和三幹竹のあとがきによれば、この時の筆談の紙は柿葉が大切に持ち帰ったらしい。
同じ月、柿葉が出雲に帰ってすぐ、今度は音楽学校の生徒と吉田冬葉、大森桐明を伴って、戸隠山へ行っている。
明日も晴れん乗鞍見えて夕蜻蛉
「浅間温泉晩望」の前書がある。
この句は長野駅で、冬葉、桐明と落ち合った時に、前日出来た句だといって見せたものだという。浅間温泉で里人から、乗鞍岳がきれいに見えた夕方は、必ず明日晴れるのだと聞かされて出来た句だということだが、心静かに自然と対峙し、空を仰ぐ乙字の姿が彷彿とする。
妙高の雲動かねど秋の風
「赤倉途上」の前書のある句。
前日の戸隠山登山の折に、同行した生徒の内二人が、夜になっても宿へ戻ってこないという事件があった。村人まで借り出しての捜索で、夜11時過ぎにようやく生徒を無事に宿へ連れ戻したが、その捜索の途中、時雨模様となり、乙字は疲労困憊だったという。翌日になっても、乙字の体調が回復しなかったため、乙字は馬に乗せられた。その時の句であるという。
この戸隠山行が、乙字の最後の旅行となる。大正8年10月の末に高熱を出し、11月の初めには、それが当時猛威を振ったスペイン風邪から腹膜肺炎をおこしたと診断された。
おまけ
冬蜂の死にどころなく歩きけり 村上鬼城
この句がホトトギスに掲載されて、突然鬼城のもとに乙字からこの句を激賞した手紙が届きます。激賞しつつも、中七以下うんぬんという乙字的に気になる箇所についても書かれていて、鬼城は褒めてもらったお礼と、原作の改作するべきではない所以を書き送ったのだとか。それをきっかけに手紙のやり取りが始まって懇意になったのだと鬼城が書き残してます。
──先生が、果して、暴慢無体の人間であつたのならば、御苦労様に、知りもしない人間の所へ、交を求めて来る筈はあるまい。お高く止まつてゐる人が、軽率に、ソンナマネをすれば、自分から、安目を売るやうに当つて、自分の金箔が剥げると、思ひさうなもんだ。然るに、先生はソンナことに、頓着はない。先輩でも後輩でも、一切平等だ。──
村上鬼城による乙字の人物像はそういう感じのようです。