大須賀乙字という俳人 4


4月号

野遊や肱つく草の日の匂ひ 大須賀乙字


  野遊や肱つく草の日の匂ひ
 明治四十年の作。乙字は二十五歳で、東京帝国大学に在学中だった。大学進学の為に東京へ出て来てすぐに河東碧梧桐に師事し、小澤碧堂、喜谷六花と共に碧門の三羽烏と呼ばれる程に碧梧桐に陶酔していた頃の句である。掲句の情景も、碧門の仲間と出かけた野遊びだろうか。草の上に寝そべって、ついた肱の辺りの草に日の匂いがしたという。衒いの無い若々しさが眩しい程である。
  杏咲く里々や鳥雲に入る
 この句は、その一年前、明治三十九年の句である。「杏咲く里々や」のゆったりとした詠み出しに春の陽気が感じられる。後半の「鳥雲に入る」で視点がぐるっと空に向って広々とした景が心地良い。
 ところで、この句は、乙字句集の分類では季語が「鳥雲に入る」である。現代俳句の感覚で言えば、「杏咲く」と「鳥雲に入る」はどちらも春の季語であり、これは所謂季重なりと言われるものになる。3月号で紹介した乙字の句もそうだったが、こういった季重なりの句は、乙字句集に時々見られる。乙字だけではなく、明治大正時代の俳句には、やはり時々見られる現象である。昭和以降の季語と明治大正の頃の季語ではそもそもの数が違うということもあるが、それ以前に、明治大正の頃は、季重なりは排すべきという風潮ではなかった。明治三十一年に出された高浜虚子の「俳句入門」にも一概に排斥するというものではないと書かれているし、日本派の内藤鳴雪も、季の事物は幾個あるを問わずと書いている。ちなみに「日本派」というのは、正岡子規を中心とした、新聞「日本」で活躍した俳句の派閥である。明治中期、俳句のメインステージは新聞だったらしい。また、余談であるが、当時は「季題」といい、「季語」という言葉は、乙字が初めて使ったと言われている。
  春月や幕取り殘す山遊び
  踊子の負はれて戻る朧月
 どちらも明治三十七年の句である。この年の七月に乙字は仙台第二高等学校を卒業した。ということで、この二句は仙台時代に詠まれたと思われる。春月の句は幕を張り巡らした大掛かりな山遊びの後、朧月の句は祭か何かの後の様子だろうか。どちらも、昼間の火照りの名残と、少し下がった気温、どこかしみじみと物悲しい雰囲気が漂う。
 高校時代の乙字は、奥羽百文会という学生を中心とした俳句の会に参加していた。後に俳壇を騒がせた歯に衣を着せぬ、時には独善とも思われる批評ぶりはこの頃から発揮されていたらしい。同時に、非常によく世話を焼いて会の運営や後輩の指導にあたっていたという。上京後も、帰省の折々に句会を開いて、東京での俳壇の様子などを語って聞かせたと、同郷の俳人、廣田寒山は後に書いている。

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