大須賀乙字という俳人 6
6月号
嵐気動く奥は蝉声晴れてあり
蛇逃げて我を見し眼の草に残る 高浜虚子
これは大正六年五月十三日、発行所例会にて出句された虚子の句である。後に句集「五百句」に収録され、その詞書に「十六日、坂本四方太、中川四明、日を同じうして逝く」とあると、稲畑汀子著「虚子百句」に書かれている。この虚子の句、実は乙字に関する面白いエピソードが残っている。それは翌月五日、ホトトギスで当時行われていた月並研究の会での事である。その日たまたま坂本四方太の遺族のことでホトトギス発行所を訪れた乙字は、誘われるままこの会に参加した。その席上で乙字の論難に遭ったのが、この蛇の句だったのだ。虚子は弟子たちの前で句をくさされただけでなく、「蛇逃げて」は「蛇逃げつ」にした方がいいなどと添削までされてしまう。その時の虚子の心情が一枚の絵に残されている。「虚子の墓」と書かれた石塔から両手を突き出した幽霊が飛び出している絵で、その幽霊は「乙字サーン」と言っている。絵の上には「蛇逃げて」の句が書かれているというものである。六月五日と日付があることから、その日の憤懣をそのまま絵にしたというところだろうか。
当時、乙字は碧梧桐や井泉水の新傾向俳句を斬り、返す刀で虚子のホトトギスを攻撃するというスタンスで、この年の三月にも読売紙上にこの三人の名を挙げた俳壇批判を書いている。それでいて、完全にホトトギスと没交渉ではないところが面白い。大正五年に乙字は「碧梧桐句集」を編纂したが、それを当時ホトトギス発行所で使い走りをしていた原石鼎に手伝わせ稿料を石鼎に与えているし、翌年四月にはホトトギスの俳人である村上鬼城の句集を上梓し、その稿料は全て鬼城に贈っている。
さて、六月の月並研究会でそんなことがあったにも係らず、八月になって、乙字は再びこの研究会に招かれている。その席上で乙字は、「乙字君の議論が雄大であればある程、聞くものの頭には一種の疑惑の雲が漲つて来て、乙字君はどれ程の点まで得たところがあつてこれだけの議論をされるのであるかを疑はねばならぬやうになつて来る」と反撃を食らっている。
嵐気動く奥は蝉声晴れてあり
虚子らに自分の句はどれ程のものだというのだと誹られた乙字だが、これは同じ大正六年に発表された句である。「嵐山にて」の前書きがある。「嵐気動く」の力強さと「蝉声晴れて」の明るさが、嵐山の雄渾な風景を描き出している。昭和七年に嵐山にこの句碑が建立されている。
追記
高浜虚子と月並研究会について
大正5年7月から大正6年9月にかけて、「ホトトギス」誌上で連載されていたのが「月並研究」という座談会形式のレポート。その座談会を月並研究会としていたようです。
本文にあるように、直接、目の前で俳句をくさされるのはさすがに気分を害した虚子ですが、新聞や雑誌の中でしきりにホトトギスについて攻撃的な文章を書いていた乙字のことは、その事実は知ってはいるけれど、特に気にして読んでみたことはないと本人が書いてます。その乙字について、自分を訪ねてきた乙字が語ったというエピソードを虚子が紹介しています。
ある時、乙字の勤める音楽学校に能楽の用事で池内信嘉がやってきてその相手を乙字がする役回りだった。池内信嘉は高浜虚子の実兄なので、初対面の挨拶をしようとして「俳句の方では令弟とは知り合いで……」と言うつもりで「令弟の虚子」まで口にしたところで、そのあとどう続けようか、「虚子さん」と言おうか「虚子先生」と言おうか躊躇して、「虚子君」と言ってしまって脇汗がタラタラ出た、と。
虚子は、そんな乙字について「稚気と云ふか、正直なところがある」と締めてました。