大須賀乙字という俳人 9




9月号

雁鳴いて大粒な雨落しけり
 
 
  雁鳴いて大粒な雨落しけり 大須賀乙字
 明治37年、乙字24歳の句である。晩秋北から渡ってきた雁の声を聞いて、思わず頭をあげると、一、二滴の雨が落ちたという景を詠んだもの。
「雁其物よりも雁来る頃の気象に包まれた気分を詠んだ」と乙字本人は言っているが、折から降り始めた雨の「大粒な」という把握に実景が浮かんで来る。
  西ゆ北へ雲の長さや夕蜻蛉
 大正4年の作。
「西ゆ北へ」の「ゆ」は「より」「から」という意味の古語である。つまり「西から北へ」という意味になる。西から北へかけて細長く伸びた雲と、夕空を群れ飛ぶ蜻蛉。秋の夕焼空が詩情豊かに描かれた秀句だと思う。
  奥牧の廣さはかられず天の川
 大正4年、東北吟行での作。「十和田」という題がある。
 この年の3月、長く病に臥していた妻千代が死去した。明治42年に母を、大正元年に父を亡くし、4年に弟を亡くしたばかりだった。
 妻千代と結婚したのは明治43年で、翌年に長男をもうけたが、その後の千代はほぼ病気で臥せっていた。大正3年の6月からは、とうとう茨城の千代の実家へ帰して、そこで療養をさせていた。乙字は千代に細々と手紙を書き、妻と子の身を案じ、また自身の淋しさを切々と訴えている。
 乙字と千代との夫婦としての日々は、また、乙字と新傾向俳句へ傾いて行く碧梧桐との戦いの日々と重なる。42年の末に碧梧桐から「思想上の老人」と断じられた乙字は、43年から激烈な碧梧桐批判を始める。乙字と碧梧桐の仲は、時に緊迫したり、また比較的親密になったりして続いていた。が、大正4年、完全にその関係は絶たれてしまう。碧梧桐宅で行われた「海紅」の会合の席で、同席していた二十歳の若者に暴行を受けるという事件が起ったのだ。
 妻の死、碧梧桐との断絶と立て続けに起った悲劇に乙字の身を案じて、同郷の友人相沢暁村が、東北旅行に誘ってくれた。掲句はこの折の一句である。「奥牧」は山の奥深い高原地の牧場のことで、多分乙字の造語だろうと思われるが、意味は充分に通じる語だといえる。「奥牧の廣さはかられず」という措辞の、やや字余り気味に一気に詠んだところに、乙字調といわれる調べがあるように思う。
  鶏頭の丈け見ても旅長かりし
 この句も、その東北旅行の折の句である。「旅の帰途、亡妻の墓参り」という前書がある。まず妻千代の墓に立ち寄ってから始まったこの旅も、二十日以上経っていた。
 

おまけ

碧梧桐宅で起こった事件について、これは当時まあまあ人の話題にのぼったらしく、歌人土屋文明が芥川龍之介に出会った際、芥川はこの事件のことを知っていて、「俳人はすごいことをやるよ」と語ったのだとか。

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