大須賀乙字という俳人 8



8月号

山雲を谷に呼ぶなり閑古鳥
 
 
  雲樹寺の木々雫して砂涼し 大須賀乙字
 大正6年7月28日、大須賀乙字は能義郡赤江村に広江八重桜を訪ねている。八重桜は、乙字よりも前から「日本俳句」に投句をしていた河東碧梧桐の弟子の一人である。師である碧梧桐と共に「層雲」「海紅」と移っていったが、この頃から八重桜はほとんど投句をしていない。乙字が会いに行った時も「方角がわからなくなりました」と言っている。明治の末に碧梧桐が出雲地方に訪れた後、この地方でもどっと増えた新傾向派だったが、新奇に進みすぎた為に付いていけなくなってか、この頃は碧梧桐・新傾向派はほとんどいなくなっていたという。中津仏丈、原本神桜などは碧梧桐派から石楠へ移ったが、八重桜はまだ戸惑っていたのかも知れない。余談だが、八重桜が再び作句活動をするようになるのは昭和10年であった。
 さて、八重桜宅から雲樹寺、清水寺、安来というルートは、奇しくも数年前の碧梧桐の出雲での行動と重なる。それは年末で「雲樹寺の芦の枯れけめ四脚門に」という句を残しているが、乙字がこの寺を訪れたのは夏の盛りのことである。青々とした木々と参道の白砂の対比が浮かんできていかにも涼しげである。
 この日、乙字は人力車で一日廻ったという。その車夫は、地元の人から俳車夫と呼ばれる俳句好きな人で、乙字にもあれこれと俳句について話しかけてきたという。「汗を忘れて杉仰ぐ蝉時雨かな」「水筋細る広洲の果や夏の山」この句を見てくれと渡された句を「堂々たる作者といっていいでしょう」と言って、乙字は手紙に書き写している。意外で面白い出会いだったのだろう。面白い出会いといえば、竹内映紫楼とも句会で一緒になっている。映紫楼は、碧梧桐を「迎聖俳」の旗を立てて迎えたという当時碧派の人々の間で話題になった人物である。「炎天や山蝉葛葉を離れ得ず 映紫楼」の句を、乙字は「写生の賜物でしょう」と褒めている。
  山雲を谷に呼ぶなり閑古鳥
 「二十九日大仙寺洞明院に宿る分ノ茶屋附近」と前書のある句。この出雲行のメインイベントであった大山登山の中での一句である。登山に流す汗とそれを吹き飛ばす山の涼気によって、日常のせせこましさが洗い流されるような健やかな乙字の姿が感じられる。後に与謝野晶子はこの句のこころが解ると言い、鉄幹は一向面白くないと言ったという。
  左右の湖かはるがはるに稲妻す
 出雲行を終えて一月ほどして、乙字は伯耆の細田曲村に宛てて手紙を出している。その手紙の中で、「帰京後は数日後初めて句作、風見明成君宅にて試み候。」として、いくつかの稲妻の句を書き添えている。その内の一句が掲句である。左右の湖は宍道湖と中海のことと推測される。印象鮮烈な美しい景である。


おまけ
 この年、大正6年の秋、乙字は勤務していた音楽学校の生徒を引率して箱根に行ってました。ちょうどその頃、歌人の斎藤茂吉も箱根で静養中だったらしいんですが、行き違いで会うことができず、そのまま茂吉は長崎へ行ってしまったのでそれっきり2人が会うことは出来なかったのだと乙字追悼の文に茂吉が書いてます。
ちなみに、その追悼文のタイトルが「酒呑み仲間」
また別の追悼文も書いていて、そちらでは、
「晩秋の雨のふる夜に二人が泥の様に酔つて午前三時ごろ日本橋区の交番に這入り込んでくだを巻いたりしたことなどおもひ出されて、僕には溜まらないのであるが」
という思い出を挙げていたりします。

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