大須賀乙字という俳人 7



今回と、あらかじめ言っておきますが次の回は、大須賀乙字が出雲旅行をした際の話で、この連載が掲載された俳句誌「出雲」用という感じなので、もしかしたらあまり興味がないかも。
なのでちょっとおまけの乙字関連のエピソードをつけておきます。

乙字は俳壇の人だけではなく、文壇、歌壇の人とも親交がありました。例えば小説家の岩野泡鳴。泡鳴は当時十日会という集まりを主催していて、乙字もこの会のメンバーでした。芥川龍之介が歌人の秀しげ子と出会ったのもこの会だったとか。
そして、この会に関連する小宴会でお酒を過ごし、そこからスペイン風邪(ではないかと言われてる)にかかってしまった乙字。その乙字の見舞いに行った時のことを泡鳴が書き残しています。
その文の最後の方に、酒のために苦労する時間を割愛して新体詩の著述に傾けて貰いたかった、と書きつつも、泡鳴が見舞いに持参したのは葡萄酒2本。
「君は酒で元気もあったが、今回その酒で失敗もしたのだから、今度癒ったら少し嗜好を変えて葡萄酒にして見給え」とか言って。



7月号

松疊む山たゝむ空の出雲かな
 
 
  松疊む山たゝむ空の出雲かな 大須賀乙字
 大正6年7月25日から31日までの七日間、大須賀乙字は山陰に遊んでいる。掲句は初日の作である。
「出雲といふ語は夏季の氣象なるべし 大社社頭にて」
の前書がある。
 成る程たしかに「出雲」という語を単純に地名として読んだ場合、季語がない。しかし、この句は無季俳句ではない。乙字は「出雲」を季語としてこの句を詠んだというのである。出雲大社の社頭からぐるりを見渡して、「松畳む山たゝむ空」に夏の雲が湧いてきているという事であろう。爽やかな夏の出雲への挨拶句である。出雲の旅の思い出を語る時、乙字はこの句をよく口にしたという。
  凌霄花汐見の松に照り霞む
 玉造温泉にて行われた句会に出された句。題「照り霞む」(夏霞のこと)で詠んだものである。後年、太田柿葉は特にこの句について「何という壮快かつ清新な気に溢れた句風であろう。私は唯々胸がすく思いであった」と書いている。「乙字句集」の前書には「二十六日、玉造温泉にて句会」とあるが、実際に玉造で句会が行われたのは25日の夜のようだ。ちなみにこの旅の日程は、25日に米子に着き、大社を廻って句会をし玉造温泉に一泊し句会、翌日は松江城周辺に遊び、27日に広瀬町にて句会、28日は大山を遠望しつつ河東碧梧桐門下の俳人の広江八重桜宅、雲樹寺、清水寺などを巡り、29日から中津仏丈、細田曲村、柿葉、原本神桜らと共に大山登山をして、31日に伯耆大山駅で一同と別れて近畿へ向かったというものだった。
 そもそも、乙字が出雲行に出たのは、石楠の同人だった仏丈、神桜らのたっての要望だったという。これについて、柿葉は、「乙字選があまりにも厳しかったのと、その俳論が理路整然として寸毫の遅疑も妥協もなく、厳正痛快をきわめたので、窃かに其人柄を思慕したからである」と書いている。当の柿葉は、この年の2月から石楠に投句を始めたばかりで、まだ乙字選に一句も抜かれた事が無かったという。彼らはこの旅にずっと同行し吟行を重ねた。その上達ぶりに、八月には乙字は「柿葉君は是非同人に推薦したい」と臼田亜浪に出雲の旅行記と共に書き送っている。この旅をきっかけに柿葉をはじめとした出雲の俳人たちと親しくなり、乙字を選者に迎えて機関誌を出したいという話も出ていたのだか、乙字の死によってそれは叶わなかった。この旅の2年半のことだった。
 米子駅で初めて彼らが乙字と出会った折の話である。敬慕する乙字を出迎えようとホームで待っていた彼らだが、実は誰も乙字と面識がなかった。日頃の俳論などでのイメージから、堅苦しい洋装の紳士が来ると思った柿葉らが、それらしい人を捜してウロウロしていると、列車の窓からきさくな声がかかった。それは浴衣がけに団扇を手にした髭面の乙字だった。飄々としたその姿に驚いて、とっさに声が出なかったという。しかしその後の出雲大社に於いては、持参した風呂敷包みから羽織袴を取り出してきちんと正装した上で参拝したと、「俳人太田柿葉私観」桑原視草著にある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?