大須賀乙字という俳人 11



11月号

火遊びの我れ一人ゐしは枯野かな
 
「乙字の乙は一であって孤立の気象がある」
 大阪で初対面の人にこう言われて、大須賀乙字は
「何かしら骨身にこたへました」
と、大正六年の臼田亜浪への手紙に書いている。
 実際、乙字は俳句の信念において、孤立の道を歩んだ人物である。
  火遊びの我れ一人ゐしは枯野かな
 乙字の俳句の中でも代表的なものの一つである。
「こういう叙景ではない抒情的の句は多く作るものではない」
といいつつ、乙字自身もこの句が気に入っていて、この句の染筆を多く残しているという。
 大正3年、この頃はまだ、はっきりと師である河東碧梧桐と訣別してはいないが、大学時代からの親友荻原井泉水と袂を分かち、他の碧門の仲間とも、距離が出来ていた時代である。
 少年時代、友人と集まって火遊びをしていた姿からふっと我に返り、たった一人枯野に立ち尽くす現在の自分にすり替わる瞬間を想像する。圧倒的な淋しさの中に、どこか芯の強さを感じさせる句である。
 また、乙字は家族の死にも多く接することとなった人だった。明治42年に母を、大正元年に父を、大正4年に弟と妻を、大正8年にまだ幼い次男を亡くしている。
  中有の旅まゐらする足袋と思ひきや
 大正3年の句。これは、明治42年の母死去の折の感懐を詠んだものである。
「帰省すれば母既に他界し給ふ土産さながら徒らなりき」という前書がある。
「中有」は「ちゅうう」と読む。人の死後、次の生を受けるまでの間のことだという。
  寒雁の声岬風に消えにけり
 大正4年の句。冬の岬に立って、寒風を受けながら海原を見ていると、沖を渡る雁の声が聞こえた。聞こえたと思う間もなく、その声は吹き渡る風によって掻き消えてしまった。
 カ行の音で構成された、淋しく厳しい句である。この年、乙字は長く患っていた妻千代を亡くしている。
 大正8年には、次の3句を発表した。
    幼兒英二を喪ふ三句
  父母の顔を追ふ眼も夜冴えたり(臨終)
  亡骸だいて寢よとする母よ夜の雪(亡き跡)
  雪掃きて玩具出て來る吾兒の顔(同)


おまけ

大須賀乙字と荻原井泉水が出会ったのは、東京帝国大学一年の時。明治37年、この年入学した中に、三井甲之や金田一京助などがいました。金田一とは高校が同じで、高校時代は顔見知り程度だったのだけど、大学時代はお互いの下宿を訪ねたりして、まあまあ親交があったみたい。三井とは終生の親友となったのだけど、最初の頃、三井は乙字をなんだか威張ったやつだと思ったのだとか。
 井泉水は麻布中学、一高時代、荻原愛桜というペンネームで雑誌に投稿していて、顔写真が載っていたこともあったらしいです。その顔を覚えていた金田一が、「君は荻原愛桜か」と声をかけ、井泉水がそうだと答えた、というようなエピソードを金田一が覚えていたみたい。金田一は井泉水が乙字と構内を語り合いながら歩いているのをよく目撃したと書いてますが、井泉水も、ほとんど毎日のように下宿を行き来していたと、乙字と親密だった頃のことを回想してます。
 明治44年の井泉水の「層雲」あたりから、2人の距離が離れていったようです。結構激しくお互い誌面上でやりあってるんだけど、意外にも井泉水の最初の妻とのお見合いをセッティングしたのは乙字。結婚の時の集合写真にも乙字が並んでます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?