-平凡な人間-として生きる大切さ アフターコロナの哲学
コロナが来た。そして、それまでとそのあとは決定的に世界は変わってしまった。僕はコロナが起こる前、自信のない、だが平和な生活を送っていた。そして些末な個人的問題を、世界が終わるかのように考えていた。
そして「世界は終わった」。人間は合理的に計算と建築により自分に都合のいい世界を築いてきた。しかし、環境は、そういう神話を崩れさすに足る、僕らの都合など全く計算に入れない不条理を思い知らしめた。震災の時もそうだった。
これから、真剣に世界を持続可能なものにしないと、コロナのような危機はさらに醜悪な姿をして、人類に襲いかかり続けるだろう。いや、もう遅いかもしれない。でもなにも抵抗しないよりはましだ。
コロナはコウモリから発生していて、それは自然破壊によりコウモリを居場所から追い出したためだという指摘がある。そしてグローバル経済の人の流れが、一気にそれを加速させた。
コロナの前に戻るのが復興なのか、とよく言われるが、また言おう。コロナの前と後では私たちは「無邪気さ」が違う。
「虚像」を追い求めてきたのだ。「優秀」と思わせてくれる、酔わせてくれるものにしがみついて、泡のような経済のなかで、現実感をすり減らすことで痛みを紛らわせていたのだ。喪失や孤独の。
これから、私たちがすべきことは、巨大なわけのわからない虚像のなかで疲弊することではなく、もっと地に足のついた、現実感のある、人間的な労働と生活にチェンジすることだ。
私の頭には自分の生き方がー地図ーになっている。それはまず、一つの直線をなす。その名前は「平凡な人間」。僕は「平凡な人間」なのだ。それ以上でもそれ以下でもない。それを見つめることから始めよう。自分は優秀で、無限大だと勘違いすることをやめる。もういいかげん無邪気な生き方はやめよう。
まずは、自分を救済する。田舎で翻訳をする。「新しい働き方」をする。現時点ではもっともベターな選択。国家も大企業も信じない、身は捧げない、いくら生活を保証しようと。そして、国家や大企業が「人生」を保証するのは、神話にすぎない。もちろん、企業のなかで居場所とやりがいを見つけられる人はいるだろう、だが、多くはないはずだ。
そして、「平凡な人間」である生き方ができたら、身近な他者を助けよう。僕はNPOで精神病者の支援をコロナ中に始めた。本当に餓死するからだ。そして犠牲になるのは外国人という「調整弁」である。そしてその補給機関である学校に行けなかった不登校児ら。僕はNPOとボランティアで彼ら、彼女らを救済する。法務翻訳もグローバル経済の片棒を担いでいる、その罪滅ぼしとして。
そして、一瞬で世界を破滅させる、核兵器や原発を、「平凡な人間」の力で一掃させよう。まだ世界は終わっていない。核爆弾のボタンが押され、キノコ雲が立ち、核戦争は始まっていない。世界は終わっていないのだ。第三のチェルノブイリ、第二のフクシマはまだ来ていない。メルトダウンで世界は終わっていないのだ。核は環境の最後だ。
私はこの外国人(例えば中国人や韓国人)への虐殺が起きても不思議ではない雰囲気の日本で、コロナ中に戦争体験の聞き書きを完成させた。そして田舎の静かな川の辺りで、優しい父と母の元で、素朴な生活をしている。
私は散歩をしながら、短歌を歌ったり、詩を作ったりする。桜はまだ早いが、梅が咲いた。母がミツバチを集めてハチミツを作り始めた。精神病の人たちは餓死はしていないし、なにごともジョークに変えて笑い合っている。幸福とは、人を助けることである。金ではなく平和である。あの風が吹けば飛んでいってしまうような小屋にあるNPOのなかで起こる「物語」である。
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