【与太雑記】魔法はどうして生まれた?(後編)
魔法はいつ、どうして生まれた?(後編)
エーテルは何故必要だったか
ソロモンが没し、西暦が始まるまでの期間、多くの研鑽によって魔法は地上から消え去った。西暦の始まりに前後して、神代は完全に終了した。真エーテルは消失し、魔術は滅びる筈だった。だが、魔術は終わりを迎えず、カタチを変えて西暦以降も存続することとなった。これは一つに第五真説要素(真エーテル)と入れ替わるように、人工的な魔力たる第五架空要素(エーテル)が証明されたためだと考えられる。
どうして西暦以降にエーテルが証明されたのか、について考える前に『どうして神代が終わることで真エーテルが消失したのか』について考えていこうと思う。
真エーテルとは神代に実在した神を成立させていたモノだと魔術世界では考察されている。神代とは文字通り、神が霊長としてこの星の支配者として君臨していた時代だ。惑星の表層環境も神である彼らに最適化された法則、星の理で運営されていた。ある仮説では真エーテルとは星の光であると同時に根源から差し込む光ではないかと考えられている。これは神代では星の表層環境が現代と比べて根源に近かったと言えるだろう。つまり神が霊長として君臨した神代の星の理では、神にとって最適な法則として根源から真エーテルが世界に満ちていたと推測出来る。精霊などの自然の触覚が世界にマナが満ちる限り寿命がないように、神々も世界に満ちる真エーテルで存在を維持していたのだ。だが、この理は霊長の座が人間へと移り変わることで徐々に変化していった。
人間は自然から離れることで弱体化したが、同時に星を滅ぼしても自分たちは滅びないという独立性、完全な自由を手にした。つまり、神や精霊のように自然環境に依存せずとも生存可能な強さを手にしたと言える。存在維持に真エーテルが必要だった神が霊長から転落したから真エーテルが消失したのか、真エーテルがなくとも生存可能な(むしろ真エーテルが毒となる)人間が霊長に君臨したので真エーテルが消失したのか、このどちらかであるかは定かではないが、どちらにしても西暦以降の人の世に真エーテルは不要だったため、消失したのだろう。
人間は自然の力、マナを必要せずとも生存が出来る。エーテルと呼ばれる第五架空要素は人間の生存だけに限定すると無用な長物だろう。だが、事実として西暦以降の人の世の理においても第五架空要素は容認されている。つまり、人間はたとえそれが無意識下であっても第五架空要素なるモノを必要なモノとした扱った。これには、人間という生命原理に何が根付いているのかが関わってくるのだと考える。
ただ幸福でありたいなら霊長になどならくても良かった。幸福以上のものを求めたから、人間は人類史という苦しみを積みあげる巡礼を継続してきてた。現代まで続く魔術師たちが真理を求め、根源へ至ることを夢見るように、人類の無意識、その総意は幸福以上ものとは何であるか、という答えを出すことを人間の種全体の生命としての方向性、存在意義として定めたのだ。
自然から独立した人間は星が滅びても生存可能な強さを手にした。しかし、それは物理的、物質的な話に限定される。そも生存のみを前提とするなら人間よりも確かな『永遠』を実現した生命体は既に存在している。だが、それは知性という余分な機能を持たないが故の永遠だ。
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