【感想】FGO関連Ⅳ(白天の城、黒夜の城)
「冒険」コラボと名高いFGOの期間限定イベント「白天の城、黒夜の城」。色々と語りたいネタは多くありますが、今回は「FGO」ではこれまで断片的に語られるだけに留まっていた東洋の魔術、思想魔術に焦点を絞って語っていきたいと思います。
大陸東方の魔術組織と思想魔術
螺旋館とは
「Fate/stay night」然り。「魔法使いの夜」然り。型月伝奇作品は物語の舞台こそ日本であることが多いが、その物語の中心として扱われるのは西洋の魔術師たちであることが多い。
時計塔を中心とした魔術協会。その魔術協会に比肩する聖堂教会。作品によってこれらのパワーバランスこそ異なるが、どちらも西欧の魔術世界を勢力圏として活動する魔術組織だ。だが、魔術や魔術組織は西欧のみに限定されないことは古い設定資料からもたびたび示唆されていた。日本の古神道や陰陽道。中東の呪術。南米の秘宝。西欧圏を除いた世界各地にも魔術や神秘は今なお残り続けており、それらを扱う独自の魔術組織もまた存在している。だが神代から遠く離れ、神秘が薄れていくばかりの現代において時計塔に匹敵する規模の魔術組織の数は少ない。その数少ない一例が螺旋館。アジアから中東までに広がった思想魔術を扱う魔術組織だ。
螺旋館は思想魔術を扱う二つの魔術組織の片割れとして魔術世界では知られている。組織としての規模では時計塔に匹敵し、構成員の数だけなら時計塔すら上回るようだ。日々衰退していく神秘を扱う魔術組織の中でも、現代に順応し、国際的な影響力を持つ組織は時計塔を除くと螺旋館ぐらいだ。と言ってもこれは魔術協会が魔術世界の主体である「Fate」世界での話。聖堂教会が魔術世界の主体となる「月姫」の世界では、少し話が違ってくるのかもしれない。西欧以外での教会の影響力については「Fate/strange Fake」や「月姫」リメイクを参照のこと。
螺旋館についての情報は少ないが、時計塔に比肩する組織であるためか、その組織構造も時計塔と相似している箇所がいくつか見受けられる。螺旋館には十の「桜」とその主である十人の「桜主」が存在している。おそらく、「桜」が時計塔での十二学科に、「楼主」が十二の君主に相当するものなのだろう。真に螺旋館が時計塔に匹敵する組織であるのなら、他にも相似している箇所もあるかもしれない。時計塔の十二の君主の上に位置する院長ブリシサン。時計塔が持つ膨大な魔術資産たる『霊墓アルビオン』。螺旋館にもこれらに匹敵する魔術師や魔術資源が存在しているのかどうか。もし存在するのならば、それは仙人や仙境の類なのだろうか……未だ謎多き東洋の神秘。さらなる続報、設定開示が待たれるばかりである。
山嶺法廷はどうして思想盤を作ったか?
先に触れたように大陸の思想魔術を主に扱う組織は二つ存在する。一つは螺旋館。もう一つが山嶺法廷……思想盤の特権領域にまで接続できる思想魔術師たち……いわゆる仙人の集まり。山嶺法廷には『十官』と呼ばれる十人の仙人が存在し、思想魔術の根底である思想盤を作り上げたのもこの十官だと言われている。
太公望は語る。山嶺法廷とは「思想盤に特化した、よりテクスチャに依存しない組織」だと。これが何を意味するか言及する前に、神代と現代の魔術の違いをおさらいしておこう。
文明が未熟な神代において神秘とそれを扱う魔術の力は現代のソレを凌駕していた。神代における魔術とは神との契約によって、権能の欠片で世界を書き換える奇蹟だ。神とは根源に繋がるモノ。つまり神代の魔術師は神を中継点として根源に繋がっていたと言えるだろう。だが、それは神とその神によって最適化されたルール、神代の地球表層に貼り付けられたテクスチャに依存した魔術形式であることを意味している。
神代の神秘が完全に消失した西暦開始以降では、一部の例外を除いて神代の魔術形式も失われてしまった。この神代と神代の魔術形式の終わりを予見した当時の魔術師たちは、様々な形で魔術を残そうとした。山嶺法廷が思想盤を作り出したのもその試みの一つであると推測される。
思想盤とは地球と融合した超巨大礼装である。人工根源、人工神性とも言える規格外の礼装。地球の表層環境は常に一定ではない。霊長となった知的生命体の知性の認識、方向性に応じて変化する。そして、この変化は神秘や魔術にも大きな影響をもたらす。だが、この変化もあくまで地球という表層に貼り付けられたテクスチャ上での話に限定される。時計塔の地下深くにある霊墓アルビオンがそうであるように、地下は地上に比べて現代の星の理、いわゆる『人理』の影響力が低い。神代から生きる仙人たち、山嶺法廷が思想盤を地球と融合する形で作り上げたのもこの性質を利用したものだろう。彼らは表層環境の影響を受けにくい場所、地下深くに思想盤という地球と融合する超巨大礼装を配置し、その礼装を介することで自然(神)に依存しないより洗練された魔術体系を生み出したのである。
思想鍵紋と魔術刻印の差異
思想魔術には思想鍵紋というモノがある。思想盤へのアクセス権の名称。思想魔術の使い手であれば誰でも思想盤へアクセスは出来るが、扱える術式は基礎的な物に限定される。高度な術式を扱うために思想盤により深くアクセスするために必要なのが思想鍵紋である。
思想鍵紋は西洋魔術における魔術刻印に相当する仕組みだが、大きな違いが存在する。それは魔術刻印の継承が基本的に家系や血脈に限定されるのに対して、思想鍵紋は血族ではない弟子にも引き継がせることが出来る。この差異は西洋と東洋での魔術、根源に対するスタンスの違いが現れているのではないだろうか?
どうして魔術刻印は血族以外に移植できないのか。これは魔術を次代へ継承させるという発想の根底に「冠位指定」が存在しているからでは、と考えてみたい。冠位指定とは神代に興った魔術師の家系が『神』から与えられた命題である。冠位指定はその家系が成長するための指標であり、同時に実現困難な試練でもある。魔術師たちが根源への到達を目指すのも、冠位指定の達成するためには根源に到達するしか実現不可能だからでもある(あるいは根源へ至るための指標として冠位指定があるか)。魔術師の中には独自のアプローチ以外での根源到達を頑なに認めないモノもいるのが、これも根源を目指す理由……冠位指定が家系ごとに異なっているからだと考えられる。
「魔法使いの夜」等で既に示唆されている通り、西暦が開始し、神代が完全に終了するまでの期間であれば根源への到達は必ずしも不可能ではなかった。だが、単純に根源に到達するだけでは命題はクリア出来ない。なぜなら人間程度の魂では根源に接触すると、根源に取り込まれてしまうからだ。
根源に触れて帰還したモノは存在しない。これは魔術の長い歴史が証明している。命題をクリアするためには根源に到達した上で、さらに根源に触れて解析する必要があったのだ。
自分自身では根源を解析し、命題をクリア出来ないことを悟った魔術師たちは次代へ、より強力な後継者に悲願を託すことを選んだ。自分自身では解決出来ない問題も、次代ならば解決出来るかもしれない。自分では到達出来なかった地点に次代なら到達出来るかもしれない。魔術と共にその悲願を託す仕組み、それが魔術刻印の始まりであると推測される。
つまり冠位指定は一族に課せられた命題であり、その命題の解決という悲願を継承するために魔術刻印という仕組みは必要とされた。だが、各家系ごとに冠位指定は異なっているため、一族以外の人間の手に魔術刻印が渡ればその悲願の路が閉ざされてしまう可能性がある。故にそれを回避する安全装置として魔術刻印は血族以外に適合しないという性質を持つのではないだろうか。
また神秘とは秘匿されてこそ神秘である。この宇宙においてあらゆるモノが有限だ。これは物質的な物に限らない。『神秘』などの形而上の物にもまた「果て」や「底」などの限界は存在する。多くに知れ渡り、一般化するほど神秘は力を失う。これは根源到達のためにより強力な後継者を求める西洋の魔術師たちにとって都合が悪い。だからこそ彼らは神秘を学ぶ者を限定する。時計塔においての派閥争いも結局はその線引が異なるだけの話に過ぎない。魔術刻印に刻まれた術式の多くはその一族の秘奥である。それらを秘匿し、神秘としての純度を残す意味合いでも魔術刻印は限られたモノにしか継承出来ない仕組みである必要があったのかもしれない。
一方で東洋の魔術は少し話が変わってくる。東洋の魔術、思想魔術の根底にある思想盤は現代科学における「加速器」にも似た性質を持つ。この盤は、盤に繋がる魔術師の使い切れていない思考を蓄積し、その思考を常に加速させることで盤を発展させ続けている。その発展の先に思想盤の精度が「根源」へ届くと夢見ながら。つまり思想魔術とは多くの人間で神秘をシェアして利用する事を前提とした魔術体系なのである。故に魔術刻印と異なって思想鍵紋の継承を血族に限定するのはあまり意味が無いのだと推測される。
個人が根源へ至るためにより強力な個を求める西洋魔術師。魔術社会全体で協力して根源を作り上げようとする東洋魔術師。このような根源へのスタンスの違いが、魔術刻印と思想鍵紋の違いにも現れているのではないだろうか。
空間転移の原理が違う?
純粋な空間転移は魔法の域の魔術だと西洋の魔術では扱われる。現代の魔術世界において空間転移を魔術の範疇で扱えるのは、未だに神代の魔術形式を残す彷徨海ぐらいであると考えられている。
本イベントのシナリオ中にも言及されているが、冬木の聖杯戦争の令呪なら、この魔法に匹敵する神秘の行使も不可能ではない。またサーヴァントの中でもキャスター、特に神代の魔術を扱うモノならば令呪の助けがなくとも空間転移を行使可能だろう。そして、太公望が扱う思想魔術はある意味では「神代の思想魔術」であるため、彼が空間転移を行使出来てもおかしくはない。だが、彼が扱う空間転移と西洋魔術における空間転移では原理に違いがあるように見受けられる。
ギリシャ神話の魔女であるメディアなどが扱う西洋における空間転移は、多次元を経由することで三次元世界の距離をショートカットする空間跳躍方法だ。一方で太公望が成した空間転移は大雑把にいうとスタートとゴールを同じものと扱うことで成されているでのはないだろうか。これについて太公望の詠唱を噛み砕きながら、説明していこうと思う。
太極とは全ての属性を含む相、言い換えれば「根源」である。そこから両儀が生まれ、更に四象に分かれ、さらに八卦へと多くの属性へと枝分かれしていく。太公望の最初の詠唱はこの流出現象を逆転化させることで、今いる場所を擬似的に「太極」であると定義している。太極は全ての属性を含む相であり、これが真であるならば『此方』と『彼方』もまた太極に含まれる。太極の中においてそれらは『同じ物』として扱われる、つまり合一であるならば『此方』と『彼方』の物理的な距離をショートカット、いや『存在しない』として無視される形で処理される。結果、空間転移の対象は最初からそこにいたように転移先に移動出来る、と。
西洋の空間転移が、空間の次元階層による視点の違いを利用することで物理的な距離を限りなくゼロに近づけるのなら、東洋の空間転移は三次元空間を擬似的な『太極』と定義することで、スタート(此方)とゴール(彼方)を同じ座標として扱い物理的な距離を無視するといったところだろうか。根源を目指す(利用する)西洋と、根源を作り上げる東洋のスタンスの違いが空間転移の原理の違いにも表れているのではなかろうか?