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エッセイ|ほんとうに悲しいことは

家までの道を、トボトボ歩く。
途中には1階と2階のそれぞれに分厚いシャンデリアのさがっている店があり、大きな窓から煌々こうこうと路上に光を投げかけてくる。
すこし先の町中華には長蛇の列ができていて、こちらもわたしを寄せつけてくれそうにない。

トボトボと歩きながら考える。
この商店街は、店の入れ替わりが速いな、と。
何十年も変わらず続いている店もあるけれど、多くの店舗が2,3年で変わってしまう。
うちからいちばん近いセブンイレブンも近ごろ閉じた。建物がじきに取り壊しになるらしい。

振りだしてきた小雨の中を、トボトボ歩く。

そういえば、以前よく通っていた洋食屋があった。
勤務先の最寄り駅近くにあった、昔ながらの洋食屋。ここのスペシャルセットとワインには、しんどさを忘れさせてくれる力があった。
もともと少し距離をおいたところに同じ店がもう一店舗あったのだが、マスターの体調がすぐれず駅近くの店だけに。そしてその残ったほうもコロナのあいだに閉ざされた。
いまでも、あの味が食べたくて堪らなくなることがある。

まだトボトボと歩いている。歩き続けている。

そうだ。会社の最寄り駅近くには、あのお好み焼き屋がまだあるはずだ。むかし同僚と一緒にしょっちゅう食べに行った店。行くたびに“焼き奉行”として鉄板をとりしきった思い出がある。



あれから何年になるだろう。同じ会社でありながら、いまは別会社で働いているかのようだ。10年、20年以上と経つうちに、いろんなことが変わってしまったものだから。

わたしは一人でお好み焼き屋へ向かう。
元気をだして歩いていく。

到着すると、そこにあったのは焼き肉屋

場所を間違えたと思って周りを見回すが、やっぱりそこで間違いはない。よく見ると外観はあんまり変わっていないようである。

お好み焼き屋はなくなっていた。
コロナを乗りきったのは知っているから、その後のことだろう。

わたしはまた、トボトボ歩く。
家までの道を帰っていく。


でも、これはほんとうの悲しさではない。
むしろ幸せなことなのだ。
懐かしい、未練の残るものがあるということは。

自分が失くした物、失くしたこと、失くした人。
自ら手放す場合もある。むこうから離れていく場合もある。
しんみりと悲しめるのは、それが大切だったということにほかならない。


ほんとうの悲しさとは、
離れていく物・こと・人が、
もう、どうでもよくなってしまうこと。

懐かしさや、悲しみや、人としての優しい感情を
失くしてしまうこと。

なにも残らない人生のこと。



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