
episode0 #5ネクロノミコン【無料】
【目次】
episode0 #4英雄
「私はもうじき死ぬだろう。いや殺されるのであろうな」
1610年。春。
「そこでお前にこれを託す。まさかこのような一大事を、お前に託す事になるとは」
「光栄でございます」
「お前に皮肉は無縁か」
フランスの田舎道に停められた立派な木彫り紋様が目を引く馬車。その車内である男が一冊の本を手にしていた。
「ではあとは頼んだぞ。くれぐれも市民に被害が及ばぬよう」
「もちろんですとも。貴族連中も含め、バチカンさえ気付かぬよう手配致しますよ」
そういうと男は懐からナイフを取り出した。
「何をする!?まさかお前が…」
「全ては神の御意志でございます」
.
.
.
1610年5月、良王アンリとして名高いアンリ四世が暗殺された。
カトリックとプロテスタントによる宗教戦争を終結させるために尽力した、多くの民から愛された王の暗殺に、民は悲しみに暮れた。
翌6月。スペイン・ポルトガル・フランス・オランダからなる大商船団が日本へ向けて出航する。
後の日蘭交通史によると『江戸幕府外交顧問シルフ・エラストマと各国首脳との間に交わされた江戸幕府と欧州の巨大貿易網設立』が目的とされている。
10隻からなる大商船団は度重なる悪天候により、日本に着く頃には3隻になっており乗組員は34名、そのほとんどが重症を負っていた。
その3隻のうちの1隻。
クイーンホープ号の舳先に立つ一人の僧侶。
「貴殿ら、今すぐその荷を捨てよ。さもなくばこの船は沈むであろう」
「それは出来ない。我々は命をかけている。必ずこれを、師父の守人と呼ばれる人物に渡さねばならないのだ」
「そのような者はこの国にはおらぬ」
師父の守人。
キリストの遺言や口伝を伝える13番目の高弟。あらゆる権力や政治に与しない放浪の部族と噂される。
「仮に師父の守人と呼ばれる者がここにおったならば」
僧侶は錫杖を天に掲げる。
「拙僧と同じ事をするであろう」
.
.
.
.
.
.
.
.
「その時、太平洋沖に沈んだクイーンホープ号の積み荷が、ネクロノミコンであると伝わっております」
「はあ、よくわかんねえがつまりその、そん時の僧侶ってのが」
「はい。当家真言龍印寺流魔道党首、初代岡本慈雲でございます」
龍印寺本堂にて。
伊丹は先代住職の墓前に立ち寄り、新しく龍印寺を継いだ龍印寺貴寛禅師、第十七代真言龍印寺流魔道党首と会う。
先代が何者かに殺害され、龍印寺の御本尊が盗まれたという。
「私は遠方で修業をしておりまして。まさかこのような事になるとは」
「それでその、御本尊ってのが」
「はい。ネクロノミコンでございます」
「しかし何でまた。船ごと沈めたんじゃ、つかネクロノミコンってのは結局なんなんですか?」
龍印寺貴寛は静かに目を閉じ、細く深呼吸をした。
「ネクロノミコン、御本尊として封印したモノはあくまで入れ物に過ぎない。その事に初代はお気付きになられた」
「それで、船から盗ん…いや何だ、その」
「いえ、お気遣いなく」
「それがまた盗まれたと……。ん、貴寛さん、入れ物に過ぎないって」
「ネクロノミコンは人間の脳に宿るのです」
「人間の……」
その時。
二人の会話を聞いていた野々村が何かに気付く。
「…あっつ……何だろ」
「どうした?」
「いや、なんか耳鳴りが」
すると貴寛禅師が立ち上がる。
「私とした事がつい話に夢中になり、気付くのが遅れました」
「え?」
「お二人とも、私の後ろにお下がりください」
龍印寺本堂の外。時折季節とは無縁の冷たい風が吹き抜けていた。その風にうっすらと混じる邪悪な薫り。
貴寛禅師は足先で本堂の床に何やら紋様を描く。
「退魔健全」
すると本堂の入り口付近、ゆらゆらと半透明の何かが蠢き始めた。
「なんだありゃあ…あ!ありゃああの時病院で」
「妖魔です。ネクロノミコンの封印が解かれたせいで、ここに集まってきたのでしょう」
妖魔と呼ばれる半透明の塊は、次第に生き物らしい形をとりはじめた。
それは翼があり、人間のようではあるがまるでー
「うわわわわ、悪魔だッ!?」
野々村は腰を抜かしながら後退りする。
まるで悪魔のようなその物体が、三人目掛けて飛び掛かってきた。
しかし。
「退魔絶世。不動縛法!」
貴寛禅師がそう叫ぶと、あたりの空気がキンと張り詰め、まるで時間が止まったかのような感覚になった。
そして同時に悪魔のような物体の動きも止まる。
「ここには何もない。あるべき場所に去るがよい」
するとどうだろう。まるで貴寛禅師の言葉に諭されたかのように、一瞬こちらを振り返りながら、その物体は空中に霧散した。
「な、なんだったんだ」
「あれは妖魔と呼ばれる存在。本来人間に危害はありません」
「そうは見えねえが…。だがこれだよ。俺が病院で会った男。そいつの体にもあれと同じようなもんがくっついていたんだ」
貴寛禅師は振り返り、伊丹の前に正座した。
「全てをお話するには時間があまりないようです。ですからお二人に、単刀直入にお話致します」
野々村は小刻みに首を横に降った。
「盗まれたネクロノミコン、探しだして頂きたい」
.
.
.
.
.
「へっきしょん!」
「えヤダー汚いし。風邪?」
都内。
「あ、うん、そうかな」
「病院行った?」
若いカップルが商店街を歩いている。
平日だが多くの観光客で賑わっていた。
「いや、ま」
「?」
男は急に立ち止まり、鼻のあたりを擦った。
「ま……だ……」
突然歩道に倒れる男。
「え?ちょっと!?何!?大丈夫!?」
男は指先で空中に漂う何かを掴むような素振りを見せ、大量の血を吐いた。
「きゃああ!!」
東京上空。
半透明の小さな小さな綿毛のような物体が、数万数億と舞い飛んでいた。
ーepisode0 #6 青天狗 へ続くー
いいなと思ったら応援しよう!
