見出し画像

掃除婦のための手引き書のこと

*文中""内は本作品集からの引用。『』内は本書収録の作品名。

 "カルマテ(どうどう)、リンド(いい子ね)、カルマテ(どうどう)。デスパシート(ゆっくり)……ゆっくりよ……"。[カタカナ部分はスペイン語]

 ルシア・ベルリン著、岸本佐知子訳-ルシア・ベルリン作品集-『掃除婦のための手引き書』について語らせてください。冒頭に挙げたカルマテ……は、この作品集のなかの『わたしの騎手』中の一節です。書店で本書が平積みされていたコーナーのルシア・ベルリンを紹介する無料の小冊子のなかに「試し読み」と銘打たれてこの『わたしの騎手』の全文が掲載されていました。見開き1ページで収まってしまう程の小品ですが、本作中の言葉を借りれば"ミニチュアのアステカの神様"みたいに凝縮と解放が魅惑的に同居している作品です。わたしはこの『わたしの騎手』を読んで冒頭に挙げた箇所がまるで自分に語りかけられているように感じ、訳者の岸本佐知子さんのように「一読でうちのめされた」のです。わたしも騎手と同じ感覚に陥りました。"彼はわたしの腕のなかで静かになり、ぶるっと小さく鼻から息をはいた"。わたしもしっかりとルシア・ベルリンの腕のなかにいました。
 言わずもがな大変評価の高い作品集で、この本について様々な人々が既に多くの感想や書評を寄せており、とりわけ本書の巻末でアメリカの作家のリディア・デイヴィスさんと訳者の岸本佐知子さんがその素晴らしさについて詳しく語ってくださっています。今更わたしのごときどこの馬の骨ともわからぬ輩が何かを付け足すことは余計に思われました。それでも、岸本佐知子さんが「ずっと彼女を訳すのが夢でした」と仰っているのと同様、わたしも彼女の作品について何かを語ってみるのを夢見てしまい、筆をとった次第です。
 尚、ここから先は本作品集のどれについてもあらすじがわかってしまわないように気をつけたつもりですが、どちらかと言えば既にお読みになった方に向けて書いていますので、もしあらすじがわかってしまったとしてもどうかお許しください。
 まず読んでいて実感したのは、ルシア・ベルリンの作品は女性でないと翻訳できそうもないということです。このことについて確固とした理由を挙げることはできませんが、とにかくそう感じました。でも敢えて次にひとつだけ理由めいたものを挙げてみます。
 『掃除婦のための手引き書』のなかでターという男性がルシアと思われる女性に"マギー、おれが行っちまったら、お前どうする?"と訊ねる場面があります。この"行っちまったら"は様々な意味にとれるのですが、この問いに対してマギーは"レース編みでもするわよ、ばか"と答えます。このマギーの返答を読んだ瞬間、なぜかはわかりませんが訳者の岸本佐知子さんと作者のルシア・ベルリンが同時に声を放ったような気がしました。勿論お二人の声を聴いたことなどありません。しかし読書中に音ではない声が聴こえることはよくあるものです。このケースでは作者と訳者のものが同時に心に響いてきたのです。訳者が作品に表れてはいけない、という意見もあると思いますが、わたしはこの「瞬間」にとても好感をもちました。こんな読書体験は初めてでした。良い体験でした。もしこのルシア・ベルリンの"レース編みでもするわよ、ばか"におじさんの声などが重なっていたら、それはそれで味わい深いのですが、少し違った状況になってしまうと思うのです。訳者が岸本佐知子さんでわたしにはとてもしっくりきました。
 さて、本題のルシア・ベルリンについても語らせてください。彼女は凡ゆる意味でとてもセンスの良い人だと思います。審美眼に優れ、表現力も的確かつ独特でリズムとメロディーに富み、即興性を帯びた躍動感があります。このような抜きんでて垢抜けた落ちてきた星みたいなセンスの良い人が、地上の一番深い底を這い回って、傍観者ではなく当事者として人間の人生を経験し、汗も涙もたくさん流しました。特に職業的には幼少期からの様々なお手伝いをはじめ、高校教師、掃除婦、電話交換手、看護師などとにかく「現場」の人でした。決して机上の人ではありませんでした。時間に追われながら身体を動かし、時には機転をきかせて困難をすり抜け、彼女も『巣に帰る』の中で自らを称して"手が早くて要領がよく"と言っているように「現場」が骨にまで染み入っている人でした。「現場」経験が身に染みている人ならよくわかると思いますが、手の動きの早さと要領のよさは「現場」においてとても重要な要素です。このあたりのことをさらっと言えるルシア・ベルリンはやはり只者ではありません。職場に限らず恋愛や友情、子育て、家事、看病など汗と涙のなかに身をおいているのにからっと笑い、そして香しい人でした。
 そんな「現場」での体験が彼女のセンスによって昇華されたのがこの作品集なのです。当然実体験に色取り取りの脚色がなされているでしょうから、彼女の実像や作品についてこのような機会に勝手に何かを断言することは彼女に対して失礼にあたるかもしれません。しかしわたしはそれに対して"待って。これにはわけがあるんです"といつか別の世界で彼女に言い訳させてもらいます。
 センスの良い人が職場に限らない社会という「現場」に出ると、凡人では見つけ得ないような、聖俗混合の人を惹きつけてやまないものを持ち帰ってきます。彼女は「現場」で拾い集めた"散らばった破片"を言葉に置き換えました。破片は美しいながらも哀しみを放つものや喜びを放つもの、死や生を秘めたものでした。そして汚れすらも汚れたまま拾い集めました。どちらかと言えば"悲しみや後悔や罪悪感"が多かったことでしょう。でも彼女はそのような事ごとをただ"散らばった破片を一から拾いなおす"ように集めたのです。その拾い集め方にセンスの良さが滲み出てしまうのです。彼女が拾い集めると、その破片はそのまま言葉の宝石になってしまいました。センスの良い宝石のよく似合う女性です。
 視点は少し変わりますが、彼女のセンスや在り方を示している箇所をひとつ挙げてみます。同じく『巣に帰る』のなかのエピソードですが、彼女が幼い頃に同級生のウィリーからバレンタインカードを貰いました。そこには"ぼくのスウェット・ハートになって"という言葉がありました。この"スウェット"はもちろんウィリーがスウィートの綴りSWEETをSWEATと間違えたのだと思うのですが、この"スウェット・ハート"が同じ作品のなかで"ウィリーに貰ったハート形の銀"へとイメージがスライドし、昇華されています。これは実際に貰った銀のペンダントか何かのアクセサリーなのかもしれませんが、この一連の流れがルシア・ベルリンの存在感を表現してるいるようで言い得て妙です。スウィート・ハート→スウェット・ハート→ハート形の銀。
 とにかくただツンと澄ましている気取った女性ではなかったのだと思います。一方でこの本の書影の彼女の写真のなんと気高く清々しく美しいことでしょう。それでいて今にも洒落たジョークでもふっと口にしそうな感じが粋な姐御といった風で強い面影を見た人の心に残します。
 わたしも彼女のように生活に追われ、様々な仕事を点々としながら生き永らえているタイプの人間です。ですから彼女が出会ったような人々とどこか似たようなところのある人間たちともたくさん交錯してきました。作中のエピソードの多くを不思議と身近に感じました。彼女のようにコインランドリーにも足繁く通い、酒焼けしてどんよりとしたおじさんたちと幾多の時空を共有しました。仕事に貴賤はありませんが、もしわたしが働いてきたような猥雑な職場で、同じように働いている彼女と出逢えたのなら、あのような作品を書いている女性と出逢えたのならば、結末はともかくきっと強く惹かれていたはずです。もちろん片想いの……。しかしもしかしたら彼女の作品の登場人物にはなれたかもしれません。
 それからわたしも拙いけれど小さな物語を書くことがあります。でも彼女のように現実を題材にすることはできません。彼女のような現実を題材にできるだけの精神的な強さ、身体的な強さ、破片を宝石に変えるセンスがないからです。ここで言う身体的な強さとはアスリート的な強さではありません。身体が受ける不快感や不調、歪みや苦痛を受け入れる強さで、そのまま精神的強さと直結しています。彼女は自身の脊椎湾曲症、それにガンを発症した妹の看護、また看護師としての「現場」経験、そして身近な人々、及び自分自身のアルコール依存症……。こういった身体的な問題にとことん付き合ってきました。それらを受け入れられる度量の大きさがあるからこそ現実を題材にできたのです。自分の身体だけでなく、他人の身体的苦痛とも向き合って寄り添える強さがあったのです。だからこそ他人の精神的苦痛にも向き合えたのです。弱さを強さに変えるセンスに長けた人だったのです。
 ここまで本作品集からの引用が多くなってしまいましたが、訳者の岸本佐知子さんの「ルシア・ベルリンの書くものならどこからでも延々と引用しつづけられる、というリディア・デイヴィスの言葉に全面的に賛成だ。……」という言葉にわたしも全面的に賛成です。引用して語りたくなってしまうのがルシア・ベルリンの作品なのです。
 『あとちょっとだけ』。この作品集のなかでわたしが一番好きなのは『沈黙』です。お互いを思いやること、優しさ、それから弱さとそれを理解すること、沈黙してしまうこと、沈黙せざるを得ないこと、人と人の間の沈黙、戻るべき時に戻れない人の性、そんなことがユーモアとペーソスを交えて綴られています。この作品にはキーパーソンとしてジョン叔父さんという人物が登場します。笑わせてくれる人で、どことなく哀しくて、社会ではまともじゃなさそうだけど、ルシア・ベルリンにとっては素敵にまともな人です。わたしもジョン叔父さんのようになれたらと思います。なぜなら、彼女や彼のようにわたしもかってアルコールで苦しんだのだから……。

いいなと思ったら応援しよう!