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おちゃのじかんにきたとらのこと

"考えられるかぎり与え、そして受けてください。もっともっと。勇気をもって与えてください!与えて貧しくなった人はいません!"
-アンネ・フランク著 中川李枝子訳 『アンネの童話』所収のエッセイ"与えよ"より-

 ジュディス・カー作、晴海耕平訳の『おちゃのじかんにきたとら』について語らせてください。1968年にイギリスで出版された絵本です。絵本ですから基本的に子ども向けですが、大人が読んでも充分に鑑賞に耐え得るものですし、寧ろ大人が鑑賞することで、子どもとはまた違った視点での発見があると思います。
 今回のご紹介にあたって最初にお断りしておかなければならないのですが、この絵本の素晴らしさをお伝えするためには、どうしてもあらすじの細部を明かしていかなければなりません。ですから事前にストーリー展開をお知りになりたくない方は、まず絵本をご覧になったうえで、気が向いたらこちらの紹介文をお読みいただけましたら幸いです。その点についてあまり気にならない方はどうぞこのままお読みください。いずれにしましても絶対お薦めの絵本です。たとえストーリーがわかってしまったとしても、絵を鑑賞するという絶大なる楽しみと価値が残されています。何度でも開ける絵本です。それからもう一言だけ付け加えさせてください。この紹介文は少し長文になってしまいましたので、文章を読むことが苦手な方や時間のない方はここでやめていただいて結構です。この後展開される或る一個人の感想のような余計な知識を入れずに、素直な気持ちのままでこの絵本を楽しんでください。その方があなたのためになると思うのです。
 では早速ですが、まずこの絵本について強調しておきたいのは、ここで展開される無償の愛の尊さです。少女ソフィーと彼女のおかあさんがおちゃのじかんを過ごしていると、そこへお腹をすかせたとらの突然の訪問があります。ソフィーとおかあさんは快くとらを迎え入れておちゃやお菓子でもてなします。とらは基本的に礼儀正しく、獰猛さや横柄な様子などありません。ただよっぽどお腹がすいていたのか、おちゃやお菓子以外にもソフィーの家にあるすべての食べ物や飲み物をたいらげてしまいます。
 ところがソフィーとおかあさんはそれを迷惑に思うどころか、驚きながらも楽しそうに様々な物を差しだし、おまけにとらが帰った後で、次回またとらが来たときのためにトラ用の食べ物すら用意します。喜んで与えて、与えて、与え続けて、それについて何の犠牲心や消耗、憤りを見せません。とらの訪問を喜んでさえいるのです。ジュディス・カーの描き方には不自然さがないので、本当にこのような温かい普通の人々がいるのだと思わせてくれます。とらもどことなく品があって何とも言えずお茶目な雰囲気です。
 このように寛大なソフィーやおかあさんとは違い、わたしたち生身の人間はいつからか他者への行為に対して見返りを求めるようになりました。見返りや自分にゆとりがなければ、他者を助け、受け入れようとはしません。わたしはここで、身を擦り減らしてでも助け、与え続けなければいけない、と言いたいのではありません。もし手を差し伸べたいという感覚が微かにでも心に芽生えたのなら、その感覚が消えてしまわないうちに手を差し伸べれば奇跡が生まれると言いたいのです。ところが手を差し伸べたいという感覚は流れ星のように儚いのです。一瞬煌めいてすぐに消えてしまいます。頭で考えていては間に合いません。直感と良心に従って体が反応するのに任せるのです。思考で邪魔しては機会を失います。流れ星に願いごとをするように、躊躇せず、さっと行動に移すのです。そうすればソフィーたちのように奇跡を体験できます。何しろとらと一緒におちゃができたのですから。
 とらをもてなすソフィーとおかあさんは実に自然に振る舞っています。それでいて彼女たちの何と嬉々としていることか。こんなにチャーミングな人たちが、たとえ絵本のなかとは言え存在してくれていることを微笑ましく思います。難しく考えず、彼女たちのように扉を開けてただ一緒におちゃをすればよいのです。おちゃをしていれば楽しくて自分自身も救われるはずです。自分自身と他者の救済が同じテーブルで同時に為されるのです。どちらか一方とかどちらかが先といった二者択一ではなく、二者同一なのです。物が無くなっても、見えないものを得ます。それに自分自身の状態に拘らず、おちゃのじかんに誰かが来れば玄関のベルは鳴ります。心の扉を開けてみましょう。でもそうできないことの方が多いのは当たり前です。人生で一度でもできれば成功です。次のようなユダヤの格言があります。"ひとつの命を救うものは、全世界をも救う"。この"全世界"には自分自身も含まれているのです。わたしにもあなたにもまだチャンスはあります。
 ところで、ソフィーには素敵なおとうさんもいました。とらがすべて食べ尽くして帰ってしまってからおとうさんが帰宅します。おかあさんとソフィーが事の顛末を話します。流石に食べ物もお風呂用の水も無くなってしまうと生活に支障をきたします。でもソフィーにもおかあさんにも恨みがましい感じはなく、事実をただ新鮮な驚きで報告します。するとおとうさんが言います。「おとうさんにまかせなさい。いいかんがえがあるよ。コートをきて、レストランへいこう。」
 そんな訳で家族三人で楽しそうにレストランへ向かい、ご馳走を食べたのでした。何もなくなってしまったところから、まるで曲が華麗に転調したかのように、思ってもみなかった、けれども最も合理的で最高な解決策を展開させたのです。わたしたちもこれからどんなことが起こっても「いいかんがえがあるよ」のひと言でより明るく楽しい現実へと一歩を踏みだしてゆきたいものです。「いいかんがえがあるよ」や「いいことを思いついた」を口癖にできたとしたらそれはとても素敵なことです。
 さて、ここでとらのことにもふれておきましょう。絵本の最後のページでとらが「さようなら」と楽しげにラッパを吹いています。そしてとらはそれを最期にソフィーたちの元を訪れることはありませんでした。
 作者のジュディス・カーは1930〜1940年代に多感な少女時代を過ごしました。この時代は、ジュディス・カーの母国ドイツでナチスが台頭し、猛威を奮った時期と重なります。ナチスドイツはユダヤ人迫害という人種差別主義を掲げてヨーロッパ中にウィルスのような非寛容の恐怖と不安を巻き散らしました(ロマ民族をはじめとしたユダヤ系以外の"非アーリア人種"や障害者、同性愛者も迫害対象になりました)。ナチス隊員は突然ユダヤ系の人々の家に押入り、その人々を連れ去ってユダヤ人だからという不条理な理由だけで街頭や広場で銃殺したり、貨物列車にぎゅうぎゅう詰めにして何日も飲食や排泄もままならないまま移送し、収容所に送り込んで強制労働をさせ、挙げ句の果てにはガス室に閉じ込めてガス殺しました。また家に押し入った際にはユダヤ系の人々の家財道具や財産もすべて没収しました。こうして書くのも悍ましい出来事がジュディス・カーの少女時代にヨーロッパで繰り広げられていたのです。
 ジュディス・カーはユダヤ系の人でした。そのため彼女の家族はこのような迫害から逃れてドイツからスイス、フランス、イギリスと渡り歩きました。言わばスイス、フランス、イギリスという大きな家のおちゃのじかんにおじゃましたのです。そうやって各地を逃げ続けながら様々な人々に助けられてこの暗黒時代を生き延びることができたのです。これらのことについての経緯は彼女の自伝的著書『ヒトラーにぬすまれたももいろうさぎ』に詳しいです。彼女のこの経験を絵本の内容と重ね、突然ソフィーの家に現れてすべてを食べ尽くしたトラはナチスの象徴ではないか、と捉える意見もあったようです。ただジュディス・カー自身は、彼女の娘さんと動物園でとらを見た後でこの物語を思いついただけで、とらにはとら以上の意味はなく、とらはナチスとは関係ない、といったようなことを述べていたようです。*
 では、ここから先はこの点についてのわたしの推論を展開したいと思います。結論から言えば、とらはナチスではなく寧ろ逆で、ユダヤ系の人々だったのではないかと思うのです。
 わたしは個人的な関心からこれまでナチス迫害時代のユダヤ系の人々の体験記等の書籍を幾つも読み、またそういった映画なども比較的多く鑑賞してきました。そこで得た知見を秘めて初めてこの絵本を読んだ際に直感的に、とらはユダヤ系の人々だ、と感じたのです。そして同時に、この絵本の作者はユダヤ系の人であるに違いない、との思いにも強く捉われました。実のところわたしは、この絵本を一切の予備知識や先入観なく、図書館で殆ど偶然手に取って開いたのですがそのように感じたのです。読了後すぐに作者のジュディス・カーについて調べてみました。やはり思った通りでした。とらに漂う貴族的とも言える気品とそのとらに愛おしげに寄り添うソフィーに、ジュディス・カーの密かな同胞愛が垣間見えるような気がしました。愛する人々を思わず象徴的にそのように描いてしまったのです。
 先に述べたように、当時多くのユダヤ系の人々は家を追われて着の身着のままで逃げ続けました。その間に様々な非ユダヤ系の人々の助けを得ました。逃げ落ちた先で、納屋や屋根裏や床下等凡ゆる隠れられそうな場所に何日も匿ってもらい、そこへ食糧等を運んでもらったりして生き永らえました。こういった非ユダヤ系の支援者は自らの危険を賭して、自分たちの分の食糧等を削ってまで何日もユダヤ系の人々を匿い続けてくれました。ところが時には隣人等が気配を感じ取ってナチス当局に密告し、ユダヤ系の人々は勿論、匿ってくれていた支援者も逮捕、連行されて命を失ってしまうこともありました。また、ひとつの家や場所に長く居続けると周囲に気づかれやすくなり危険も増すため、多くのユダヤ系の人々はこのような支援者の家を何軒も渡り歩かなければなりませんでした。こうしてどうにか生き延びることができたのです。もちろんユダヤ系の人の数だけ多種多様な避難行があったと思いますが、とにかく比喩的に言って様々な家のおちゃのじかんにおじゃましたのです。勿論助かった人ばかりではなく、助からなかった人々の方が圧倒的に多かったということもここで付け加えておきましょう。このようにして助かった人々はほんの一部なのです。殆どのユダヤ系の人々はベルを鳴らしても扉を開けてもらえなかったのです。開けてもらえた扉は、最期の扉であるガス室のものだけでした。而もガス室へ入ると、今度は息絶えるまで扉を開けてもらえなかったのです。
 ここで支援者についての次のようなことも紹介しておきましょう。ナチス迫害時代のユダヤ系の人々の体験記等の書籍や映画などでよく見受けられることなのですが、支援者に「なぜあなたは自分の身を危険に晒してまでユダヤ系の人々を救ったのですか?」といったような質問をすると、多くの支援者が口を揃えたかのように「当然のことをしただけです」と答えています。
 もうひとつ、違った視点から、参考までに次のようなことも紹介させていただきます。ユダヤ教を信仰している人々から親しみを込めて大変崇敬されている旧約聖書に登場するエリヤという預言者がいます。結婚式等の際にも、エリヤ様が来てくれるかもしれないから、ということでエリヤ用の椅子が用意されたりもするほど身近な預言者です。そのエリヤに纏わる次のような民間伝承があるそうです。"もし戸口に施しを求める人が現れたら、たとえその人が薄汚れたボロを纏った人であったとしても招き入れなさい。もしかしたらその人はエリヤ様かもしれないから"。この伝承を元に、とらはエリヤ様かもしれない、と考えることもできます。そしてエリヤと言えばまさにユダヤの象徴なのです。ジュディス・カーがどの程度ユダヤ教を信仰していたのかはわたしには到底わかりません。『ヒトラーにぬすまれたももいろうさぎ』を読む限りは、彼女の一家はユダヤ教の慣習からは殆ど離れていたようです。もしかしたらこの伝承を知っていたかもしれませんし、知らなかったかもしれません。知っていたとしてもとらとは全く関係がないかもしれません。結局のところ事実はわかりませんが、わたし個人の印象として、とらの少しユーモラスとも言える威厳と風格が、ユダヤ庶民に愛されていた預言者エリヤにどうしても重なってしまうのです。つまり、とらはエリヤでありエリヤはユダヤであるから、とらはやはりユダヤであると言えるのです。ただ、こんなことばかり言っているとジュディス・カーに「とらは誰だっていいわよ!ごちゃごちゃ言ってないでとにかく入れてあげなさい!」とお叱りを受けてしまいそうです。ここではっと気がつきます。そうです。この伝承の狙いは、この人だから入れる、あの人は入れない、といったことではなく、誰であろうと招き入れなさい、ということなのです。ですからエリヤに纏わるこの伝承は、この絵本を考察するうえで見過ごすことのできないものにわたしには思われます。
 こういったことを意識して改めて『おちゃのじかんにきたとら』を鑑賞すると、諄いようですがとらが様々な支援者の家を渡り歩いたユダヤ系の人々に、そしてソフィーの家族は、見返りを求めずに自らを危険に晒してユダヤ系の人々を助けた支援者に思えてくるのです。更には、二度とソフィーの家を訪れなかったとらは、ナチスからの逃走の途中で捕らえられ、収容所送りになり、ガス室へと消えていったユダヤ系の人々とも思えてきます。もしとらがソフィーの家を訪れた後で近所の誰かに「とらが人間の家でおちゃをしてたよ。ぜんぶ食べちゃったみたい……」と密告され、どこかで捕らえられてしまったと想像したら……。だとしたらとらの最期の「さようなら」には笑い泣きのような底知れぬ哀しみがあります。
 ジュディス・カーは、表向きはともかく潜在的に、当時彼女たちに手を差し伸べて助けてくれた人々にお礼が言いたくて、そして消えてしまった同胞への哀惜の念からこの絵本を生みだしたようにわたしには思われます。それと同時に自分はいつでもオープンで明るい心でいたいという彼女の願望もここに反映されているように感じます。更に言えば彼女の潜在意識がおかあさんとソフィーとなって、ゲットーや収容所で否定と拒絶と飢えと渇きに追いつめられたユダヤの同胞たちを、もう二度とは戻ってこない同胞たちを、扉を開いておちゃに招き、お腹いっぱいにしてあげて、とらを心からもてなすことでユダヤというグループソウルを、あの時代に消えていったすべての同胞を深い癒しへと誘ったのです。言わば同胞の鎮魂作品でもあるのです。そして究極的には、ジュディス・カーがあの時代に翻弄された敵味方、勝者敗者問わず、凡ゆる人種や国籍のすべての魂を、そして今を生きる人々、未来を生きる人々に対して扉を開き、おちゃでもてなしたとも言えるのです。
 このような見解はこじつけや深読みのしすぎとも言えますが、ひとつの解釈としての存在価値はあると信じます。勿論様々な解釈が可能ですし、それを受け入れるだけの器の大きさがこの絵本にはあります。ただ、ひと言付け加えておけば、ジュディス・カーは教訓めいたことを意図的に絵本に反映させるような、そんな野暮な人ではなかったような気がします。そのような意図や意識がないのにもかかわらず、絵本のなかに善き想いのようなものがエレガントに表出してしまったのだと思います。
 ここまであれこれ述べてしまいましたが、まずは何も考えずに、登場人物やとらにメタファーをあてがわず、シンプルにソフィー、おかあさん、とら、おとうさんとして捉えてピュアな心でページを捲るのが楽しい鑑賞の仕方で、この作品との一番相応しい出会い方だと感じます。子どもたちはこれができます。だからこそこの絵本は子どもたちにも人気があるのです。
 ジュディス・カーは2019年5月に95歳の天寿を全うしました。わたしがこの絵本と出会えた時には彼女は既に地球を離れていました。一緒におちゃのじかんを過ごしてみたかったものです。
 これらすべてを踏まえたうえで更にもう一度この絵本を眺めてみると、なぜこんなにも色彩や描線が鮮やかでチャーミングなのか考え込んでしまいます。特にとらも含めた登場人物たちの目の表情が実に豊かです。またちょっとした仕草やシチュエーションの描き方、色遣いは眺めているだけで希望や善意が湧いてきます。凡ゆる苦悩や辛酸を乗り越えて、何か途轍もなく良心的なものが生みだされたのです。波動の高い人とはソフィーの家族のような人たちで、この絵本に描かれているのは、そのような人々の存在する世界なのです。

*=https://en.wikipedia.org/wiki/The_Tiger_Who_Came_to_Tea

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