
まーくんの自己紹介
まずは経歴から
初めまして!まーくん(20年間サラリーマン継続、40代で起業し、3姉妹のパパ)です。
簡単に経歴を書いてみます。
1979年、地方生まれの長男(妹一人の二人兄妹)、2004年、地方の国立大院卒と至って普通です。就職も故郷からそれほど離れていない地方で就職し、20年間サラリーマンをしています。本業とは別に起業し、古家戸建てをリフォームして楽しんでいます。2011年に結婚し、2023年現在、三姉妹のパパです。
小学校時代
ぼくが覚えているのは小学校ぐらいからです。小学校時代は毎年学級委員をしていました。ときには、誰か別の立候補している人がいても、
「あの人に任せるとクラスがやばくなるから、まーくん立候補してよ、票は私が纏めるから」
と、今考えると恐ろしいことを言われたこともあるぐらい、そこそこ周りからも評判の良い子だったと思います。
小学5年生の冬には塾から中学受験を薦められて、県内トップの私立中学校の受験を決意します。そこから受験勉強を開始します。結果はあえなく失敗。今思えば、その中学を受ける子どもは小学4年生から中学受験の勉強をしているので、まあ普通に考えれば届かないのは当然だと思います。
中学校時代
それでもめげる子ではなかったので、中学校でも毎年学級委員をするほどでした。公立中学校でも30番内をずっとキープしていました。調子がよければ1桁だったと思います。
成績だけをみると順風満帆だと思いますが、中学3年生頃から家庭環境が変わってきます。
それは両親の不仲。
中学生ぐらいから両親の仲が良くないのは感づいていましたが、ぼくが修復しようとか、なんとかしないといけないとかは考えていませんでした。ちょっと他人事というかあまり興味もなかったです。たぶん、修復できないだろうと思っていたんだと思います。
両親が不仲の原因は親父の借金。
かなりギャンブルが好きだったらしく、友人や親にもお金を借りており、そのお金でパチンコをしていたようでした。あげくのはてには、仕事中もパチンコをして、会社に見つかり、クビとなりました。再就職するも、借金グセは治らず、母もこれ以上助けられないとだんだん距離を置くようになり、家でもケンカが絶えず、別居となりました。
ある程度仕方ない結果だと思いました。
高校時代
子どもながらに教育にはお金がかかることは知っていたので、高校からはあまりお金のかからない子どもにならざるを得ませんでした。
高校は塾や予備校に通わなくても、大学に行けるところを選びました。大学だけは行こうと考えていました。
今では両親の離婚なんてそれなりに多いかと思いますが、周囲の友達ではそういう子はいなかったので、バレたくない思いからどんどん付き合う友達も減らしていきました。
将来の夢は銀行員になること
高校時代になりたいものの1位が銀行員でした。理由は単純で母親が銀行員だったから。実は高校も母が受験して失敗した高校を選ぶような、ちょっとマザコンが入っていたのかもしれません。それか単純に比較でき、周囲に自慢できると考えていたのかもしれません。地理的に通いやすかったというのもありますが。
銀行員なら、文系だろうと高校も文系の道を選択しようかと思いましたが、成績を見ると、完全に理系でした。英語は今でも苦手。高校の先生からも理系を勧められて、このタイミングで銀行員はあきらめました。
大学は工学部を選ぶ
当時は大学ぐらい、いかないといい就職がないという不思議なイメージを抱いていました。とりあえず、お金のかからない国立大学を選びました。ただ、県内だとあまりレベルは高くないので、下宿するようなところでもいいかと母親に確認して、OKをもらえたので、ある程度の大学を選び勉強をしました。
もちろん予備校にいくような余裕はないと思っていたので、教科書や参考書程度の独学で勉強していました。今思うと、予備校の授業はめちゃくちゃ分かりやすかったのだろうと思います。塾講師や家庭教師がやっているYouTubeなどを見ると、めちゃくちゃ分かりやすく、当時知っておけばもっと勉強が楽しかっただろうと思います。
(今の子どもらが羨ましい)
これだけでも目指す大学には入れました。ただ、やりたいことや将来の仕事にしたいことを見つけていませんでした。
なりたい職業があるからこの学部という選び方をせず、つぶしが効くと思って工学部を選びました。もうこの辺りが残念で仕方ないですよね。過去の自分に伝えたいことの一つです。
大学時代
大学時代は共同トイレ、共同風呂のワンルームアパートに住んでいました。大学院まで6年間、家賃2万3千円で生活を続けていました。仕送りももらっていましたが、ちょっとシンドイだろうと家庭教師のバイト代を生活の足しにしていました。学費がタダや半額になる制度があったので、それらを利用して、大学2年生からは学費免除で大学に通っていました。大学院では、バイトする時間がもったいないと思い、奨学金を借りて、大学の研究に没頭していました。節約癖やお金に敏感になったのはこの頃からかもしれません。
唯一の趣味はスノーボードでした。毎年何回か長野や新潟に行って、スノーボードを楽しむぐらいしかお金を使っていませんでした。信州にいけないときは、地元でスキー場の近くにログハウスを持っている友人がいたので、頼み込んで何回も通っていました。
初めての海外旅行
スノーボードが好きだったので、大学の卒業旅行もカナダのウィスラーまでスノーボードをしに行きました。これをキッカケに異国の地に触れるのが好きになり、グローバルな仕事がしたいと思い始めました。というか海外に行ってみたいだけ。やりたいことなんてやってみないと分からないと思ったのもこの頃でした。これも若い自分に伝えたいことの一つです。
ちなみに帰りのフライトがダブルブッキングだったので、学生だった僕たちに声がかかり、
「帰りのフライトをビジネスクラスに、さらに1泊分を無料にするので、もう1日カナダに滞在してくれないか」
と相談を受けて、満場一致で了承しました。バンクーバーで1日遊びましたね。人生初のビジネスクラスは学生時代でしかも初フライトでした。
就職活動
ぼくらの時代は、学校推薦枠があり、これを持っていると就職しやすいと言われていました。しかもこの学校推薦は大学院の入試順で決まるというもの。人生が決まると思い、大学4年生の夏に、一心不乱に勉強しました。ここでも学年で一桁をとり、グローバルな仕事ができそうな企業に入社できました。英語が必要であることはすっかり忘れています。面接でも英語の出来はあまり聞かれなかったので、なんとかなるぐらいに考えていましたが、後からめちゃくちゃ苦労します💦これも当時の自分に伝えたい一つです。
入社1年目
入った会社にブラックなイメージはなかったのですが、配属された部署がいけない。完全にブラック部門でした。残業代はつかない。残業は仕事のできない奴がするものということを合言葉に一切残業代を申告することができませんでした。時代は平成なのに、昭和の香りがプンプンします。朝は8時から働き、夜は22時まで働くのが普通。しかも残業代はない。土曜日も普通に出勤して、もちろん残業代はなかったです。唯一、日曜日が休みでした。
一つ上の先輩は年齢が10も離れています。これにも理由があり、誰もが長く続かない部署。すぐにメンタルをやられて、会社に来なくなったり、転職したりするような部署だということがすぐに分かりました。
今年の新入社員は全く仕事ができないと罵倒され、誰からかされる1時間の説教はざらにありました。これをされると、これまで、積み上げていた自信は簡単に崩れ落ちます。何かあると平衡感覚を失ったように頭がグルグル回っていました。倒れることはなかったですが、鬱かなという感覚はありました。それでも周りの同期や大学の友人に支えられてなんとか生き延びました。華金という言葉どおり、飲み会でストレスを発散していたのも有効だったと思います。ただ、新しいことを学んだりする余裕はありませんでしたね。
2011年、結婚
それなりに同期が結婚していく中、街コンではありましたが、嫁さんと出会い、ぼくも結婚しました。けれども結婚してもしばらくは夜の22時まで働いていました。このころからぼくの部署も残業代を付けないと労基署に目を付けられるとお達しがあり、適切な残業を申告するようになりますが、限度が40時間ほどと、残業をしただけ残業代がでるとは限りませんでしたし、残業時間を正しく付けない抜け道などたくさんありました。
結婚資金を全て出すと、貯金が全てなくなったので、ここから貯金を始めます。ぼくはサラリーマン。嫁さんは保母さんです。保母さんもなかなかブラックな環境で働いていることを知りました💦残業代は出ない、仕事は普通に家に持ち帰る。嫁さんも早く辞めたいようでした。嫁さんもぼくも貯金がなかったのですが、結婚すると、会社の古い社宅に入れました。月2万円の家賃なので、かなり貯金できました。
2013年、長女誕生
嫁さんの妊娠が分かってからは嫁さんも仕事をやめて、専業主婦になりました。嫁さんの給料がなくなったのは痛かったですが、会社に労基署が入ったらしく、残業代は適正につけるようになりました。ようやくホワイト部署に変化です。
2014年、自宅を建てる
この頃から株や投資信託を始めていました。母が銀行員であり、投資信託をバンバン売っていたことを聞き、投資に対する自分のハードルが下がっていること、また貯金しても増えないというのが頭にあったからだと思います。貯金はようやく数百万円になりました。
社宅で冬にエアコンを効かせると、壁が結露してカビが生えることが分かりました。1度は夫婦だけで冬を越しましたが、その時は気付かなかったです💦赤ちゃんがいる初めての冬であり、暖房をつけ始めたことで発覚しました。この社宅で子育てはまずいと思い、夫婦で相談して、社宅を出る決意をします。
ぼくは将来転勤が考えられる会社だったので、マンションか賃貸派だったのですが、嫁さんがどうしても一軒家が良い(ぼくも嫁さんも一軒家で育っている)というので、折れて戸建てを探しました。たまたま新しい団地ができるということを聞き、早速見に行き、場所も良さそうだったので、決めました。
古い住宅街に新しく入ると古い慣習を強制されたりするのがイヤだったというのがあります。一度買ったら、簡単に引っ越しできないので、この時ばかりは慎重に検討しました。
自宅の支払いは、貯金していた数百万円を頭金にしようと思いました。当時投資信託や株の売買をしていたので、手元にお金を残したい気持ちになりました。結局、頭金を入れずに、フルローンで戸建てを買いました。これで四千万の借金を抱えます💦借金するたびに人間が大きくなるを合言葉に。
毎月10万円を返済する計画で、35年ローンでした。35歳の時に購入したので、70歳まで払い続ける計算です。70歳まで働ける?と思いましたが、周りのみんなもそれぐらいのローンを組んでいることが分かりました。定年を迎えた時に退職金でローンの残りを支払い、残りは年金で暮らしていくそうです。年金だけでそんな生活できる?将来のお金に対してちょっと不安になりました💦
2017年、次女誕生
長女がそれほど手のかかる子ではなかったので、子育てってそんなに難しくないと思っていましたが、言い方悪いけれど、ガチャですね。手がかかるかかからないかは、運の要素でしかない。次女はまあまあ手がかかりました。夜泣きがスゴイんです💦本当に大変だったと記憶しています。
2018年、三女誕生
嫁さんが三人姉妹ということもあり、ぼくも男の子がいたら楽しいだろうと思い、三人目を考えていました。妊娠が分かると、二人目がまだまだ大変だったので、これは育休を取るしかないと決意していました。
早々に同僚に対して、育休を取りたいことを言うと、背中を押してくれました。上司にも相談した結果、OKをもらえたので、出産前後1か月を目途に申請しました。
育休開始1週間で、育休期間1か月では嫁さんが倒れてしまうと思い、3か月に伸ばしました。考えが甘かったです💦
育休を3か月にしたのは、使える有給が60日ほど残っていたので、これを使うことにしました。男性では会社初の長期育休取得者の称号を頂きました。
この時、有給なので給料はありますが、もちろん残業代はありません。スゴイ勢いで預金残高が減っていき、もし自分が働けなくなったら、生活できないと思いました。会社の給料1本で生活するのがめちゃくちゃ怖くなりましたね。
そんな中、元々、長期保有が前提の株式投資をしていましたが、もう少し稼ぎを作りたいと考え始めました。そこで、貯金や長期株式投資していたお金を元手に、株式の短期売買に手を出します。
株価チャートを読み、株価の動きを予想して、1か月ぐらいを目途に利確するような手法です。空売りにも手を出していたので、調子がいいときもありましたが、ドンドン株価が下がるものがあり、怖くなって損切しました。頭がグルグル回るような感覚があり、入社当時のブラック部署を思い出しました。この時の損失はおよそ二百万円。株式投資からの退場とはなりませんでしたが、短期売買はやめました。株主優待などを期待するのみとして、ほとんど手を引きました。
2020年、親父の事故死
この年、長期海外出張に行っていました。当時はちょうどコロナが始まる前だったので、まだ海外出張もバンバンありました。そんな時に母親からの急な連絡。聞いた内容は親父の訃報。しかも死亡してから数日経過して葬儀も終わっている状態でした。
元々、借金グセがあった親父なので、母も妹も寄り付かないほどの父親でした。小学生の頃に、ぼくのお小遣いを抜き取られていたこともありました。大きくなってから妹が親父に会いに行ったみたいですが、お金を要求されたそうです。誰も会いたいと思わない親父ですね。ぼくも結婚し、子どもが生まれたので、それでも親父に孫ぐらいは見せてあげたいかなという気持ちもあるまま、時が過ぎていきました。
海外出張中に聞いた訃報ですが、翌日には飛行機に乗っていました。間に合わないと分かりつつも、ぼく以外に家を継ぐ人もいないし、ちゃんと片づけないと全員が困ると思いました。こんな状況に陥るとは考えてなかったですけどね💦
先祖を大事にしていないと思われると思いますが、ぼくが決めていいと言われたので、元々あった墓も片づけると宣言しました。墓の管理もできそうになかったからです。結局、親類が面倒を見るという話しになったので、ではあとはそちらでお任せしますと言いました。
親父が住んでいた家が残っており、これをどうにかしないといけなかったのですが、当時は古家再生も知らず、財産を分割するのも難しいので、現金化しました。家を残してもだれも幸せにならないので、処分しました。
2021年、アパート1棟購入
800万円ほど、貯金ができたタイミングでアパートが欲しいと考えるようになりました。きっかけは、「まずはアパート一棟買いなさい」です。
今でも、𝕏でつながりのある、石原先生の書かれている著書です。今はマンガが最新版として出版されてます。この本を読んでサラリーマンをしながらでも、収入を1本増やせると思い、不動産投資の勉強を開始します。
他にも30冊ほど不動産投資関係の書籍を読みました。本の数を目標にしていたのではなく、とにかく不動産投資が怪しくて怖いものであるイメージを払拭し、自分が理解できるまで読みました。戸建て、中古、新築アパート、不動産であれば、ジャンルを問わず追いかけていました。
本の知識だけで考えた結果、このときは新築アパートが一番自分にはあっていると思いました。一番のメリットはサラリーマンをしながらでも、手が掛からずに継続できるということ。メンテナンスもしばらくは考えなくてもいいし、入居者様がいないと、収入がないのですが、新築故に入居者も付きやすいと考えた結果です。土地もなかったので、土地から新築アパート(いわゆるランドセットってやつです)を施工する業者を探していました。
何社か探していましたが、自分の家からそれほど離れていないこと、かつ利益もでるところを選びました。注意しないと利益がないのに、売ろうとする業者もあります。一部上場企業にもあります。そこは騙されないようにしないと危ないです。
今でも毎月の総家賃収入は下がらず、むしろ上がってるぐらいで、ほぼ満室経営ができています。
2022年、起業
不動産投資をしていると、個人事業主となり、確定申告をすることになります。自分の給料と併せて確定申告をするのですが、自分で入力する会計ソフトがあれば、問題なく確定申告までできます。税理士さん要らずです。
今でも個人事業主としては、自分で確定申告しています。ふるさと納税、医療費控除も記入すれば、結果として得になるので、やった方がいいですね。経費が使えると思っていましたが、個人事業主の不動産投資では使える経費は限られます。もし、本気でやるなら初めから法人化して不動産投資した方がいいですね。経費が使える。
法人化したら、なかなかお金を借りられないかと思いましたが、個人の信用も使うので問題なく借りることができるのも後から知りました💦
古家再生事業との出会い
新築アパート1棟目上手く回りだしましたので、2棟目に手を出そうと考えていましたが、世の中それほど甘くないことに気付きます。それは銀行の融資がおりない。もっとサラリーマンの給料が高ければ、違うのかもしれませんが💦
そんななかたまたま1冊の本と出合います。それがコチラ。
いわゆる築古戸建て投資というものです。空き家をリフォームして貸出すという手法です。金額が数百万で始められるので、手軽にできます。古いものが苦手ならおススメしませんが、何度か古家を見ていればそんな抵抗もだんだん薄れてきます。
ただ、古家を買うことはできてもリフォームに困るということも考えていました。ちなみにぼくは家のリフォームはできません。DIYは見るのは好きだけど、自分でやるほど好きではない。そんな状態でしたが、この築古戸建て投資は女性もされているのを知り、もしかして自分でもできるかもと思うようになりました。
できるかもと思ってからは行動が早かったです。本の著者でもある大熊さんがされている協会の古家再生投資プランナーの資格を取得しました。
全国の古家見学ツアーがあるのですが、日帰りできそうな地域を選んで参加し、ツアーに参加している色んな方々とも話をして物件購入に前向きになっていきました。ちなみに40代だと珍しい部類です。ぼくだとどのツアーに参加しても一番若い。一番多い年齢層は50代ぐらいの子育てを終わった世代かと。
1件目の戸建て購入
自宅から日帰りできる距離で物件を探していましたが、安く買えるのが分かりすぐに購入・成約となりました。シロアリ駆除など、リフォームをしていく中で、問題もありましたが、無事、リフォームも終わり、入居者様も決まりました。しっかり家賃も入っているので今でも安心しています。
法人設立
話が前後しますが、古家再生投資をやろうと思ったときから法人設立を考えていました。これ以上、個人で物件を購入しても、経費を使える枠も少ないし、これから何件も買うだろうなと予想できたからです。購入の前に法人を設立して、名義を法人にできるように間に合わせました。税理士さんとかは後で考えることにしていましたね。
初融資
法人初の融資は、日本政策金融公庫様から借りました。いわゆる創業融資ってやつです。
古家再生投資を全額自己資金でできる資金はありましたが、次々といけるほどお金が貯まらないので、リフォーム代は融資に頼りました。これも担当者様が優しくて融資してもらえました。
2023年、法人初決算、𝕏運用開始
2件目の戸建て購入
1件目を購入して、流れが分かると行動が早いことを自己理解しています。融資してもらったおかげで、資金に余裕があると判断できたので、2件目を探しました。理解している同じツアーに参加して、これも無事購入できました。今は、リフォーム中です。
9月決算
9月を決算月としているので、ちょうど今、税理士様と資料を渡したり打ち合わせしている最中です。固定費がかかる会社ではないので、黒字の目途はついています。
𝕏(Twitter)運用開始
これも偶然ですが、1冊の本に出合います。それはコチラ。
ちょうどぼくも40代であり、これからどうやったら幸せになれるのか考えているときでした。この本の著者はどん底を経験して𝕏(当時はTwitter)1本で幸せを手に入れたという話です。
マジか!
と思いましたが、簡単な手法ではなく、鬼努力と継続で成功を手に入れていると知り、信用できると思い、この人についていくことに決めました。当時、法人設立に合わせて、Twitterのアカウントを作ったところです。
本を読んでから、いれぶん塾に入会して、毎朝postを3か月継続できています。
自分らしさを見つけた!
毎日ポストをしていると、ポストを考えるのに、自分軸や自分らしさを知りたくなります。そこで、悩んでいたときに、タイムラインできらさん(@kira_present)を見つけました。それからDMを送って自分らしさを見つけました。その時のポストがこちらです。
「他人軸」で生きる人は「自分らしさ」を失って、「自分軸」で生きる人は「自分らしさ」を持って生きられる。
— まーくん | 40代起業 | 三姉妹のパパ (@Silks_GK) August 29, 2023
ここまでは分かる。… pic.twitter.com/aQyqTtBq7F
自分らしさを見つけると、人生が凄く楽になりました。心地よいやり方や働き方を見つける参考になりますよ。
𝕏を続けて、4か月。これからどうなるのかは楽しみです。みんなで幸せになることが夢ですね♪