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フリーター、家を出る。#2
こんにちは、ころもです(^^) 明けましておめでとうございます。どうでもいい話ですが、コインランドリーって結構高いんですね。お布団を洗いたいのですが…
今回もお読みいただきありがとうございます。さて、こんな感じのテーマです↓↓↓
1.コロナ渦における家庭環境格差
しばらく前置き・隙自語です。お急ぎの方は小見出し(1)まで飛ばしてください(^_^)
前回、「私が実家を出ようと決意したのはコロナ渦の影響だ」と書きました。私が大学に入学したのは2020年4月、ちょうどコロナ渦が始まった頃であり、大学生活でコロナ渦の影響を最も受けた年代でもありました。コロナ渦前も親から離れたいという気持ちはあったが内心びびっており、片道2時間くらいの中途半端に遠い大学を第1志望にして落ちました(笑)このくらいの遠さだと実家から通わされる可能性はあったし、結果的に早稲田で友人や先輩後輩にとっても恵まれたので早稲田で本当によかったです。しかしもし私がコロナ渦以降に大学受験をしていたら、絶対に意地でも思いっきり遠方の大学を受けて自分で生活費賄えと言われても初っ端から一人暮らしをしていました。京大阪大に行ける頭はないですが…でも京大の頭良いのになんか狂ってる校風はすごく惹かれます。行ってみたい。
そう断言できるくらい、コロナ渦というのは私の家族観を大きく変えるものでした。私はコロナ渦が大嫌いでした。(皆そうだと思いますが)しかし理由はおそらく大多数の人と少し違ったものだと思います。前置き長くてごめんなさい。本題に移ります(*^-^*)
(1)ソーシャルディスタンスにマスク…でも家族は特別?
ソーシャルディスタンス、3密、家族以外との食事を控えろ、おうちで過ごそう…今思えば少し懐かしい響きかもしれませんが、コロナ渦が始まった2020年以降耳にタコができるほどこれらの言葉があちこちから聞こえました。
私の親については前回詳しく書いています。そんなこんなの理由で私にとって家族(一人っ子なので=親)は距離を置きたい人間で、学校で友人と会ったり、遊びに行ったりすることで鬱々とした気持ちを昇華させていました。しかしコロナ渦では家に閉じ込められ、家族以外と距離を置け、家族と一緒に過ごせと強制される。社会が当たり前のように家庭を居心地の良い場所として語り、家族仲が良い前提でのうのうと「家族と家で過ごそう」と呼びかける風潮に私はひどく苛立っていたし自尊心を傷つけられました。他人をバイ菌扱いしろって言うくせに、家族は特別なの?家族だけコロナ渦前と何も変わらないの?これがなぜなのか全く理解できませんでした。虐待されてる子供にも言えるの?それ。本当にソーシャルディスタンスしたいのは他人より親です。2mどころか10kmくらい離れてて欲しい。
おまけに、金銭面だけ自立させて他は支配しようとしてくるうちの親です。コロナを気にせず遊びに行けるという友人も結構いましたが、うちは外出するなとうるさく、バイトに行くときですら文句を言われました。(だったらその分お金を与えてくれって話なのですが、そんなのありません)
そんなコロナ渦でとうとう嫌気がさし、やっぱりお金を貯めて一人暮らししよう、と思い立って今に至ります。入っていたオーケストラは費用が結構かかるのでかなりの期間休団しないといけなかったし、就活の時期も思いっきりバイトしてました。そしたら浪人しました。予備校代もかかりました。大学在学中の一人暮らしは叶わなかったのですが、今もフリーターで大学生みたいなもんなのでよしとしましょう☆
(2)虐待の潜在化
コロナ渦は虐待が潜在化しやすい時期だったと言われています。家に閉じ込められることで、地域の人々や学校による監視の目が働かなくなるからでしょう。学校の上履きが白いのは汚れからネグレクトを発見しやすくするためという説もあるくらいですし、教員と生徒の関わりの減少が特に潜在化に強く影響していると言われています。子供を虐待やネグレクトから守るためには地域や学校の協力が必要不可欠であるといえます。
こういった潜在化のリスクがあった上に、家に閉じ込められる親側のストレスが子供に向きやすかったという背景もあります。家庭内で弱い立場に立たされ、学校や地域を居場所としていた子供からそれを奪い呑気にステイホームなどと唱えることは社会全体による虐待と言わざるを得ません。
誰もが家庭を居心地の良い場所とは思っていないという前提とともに、そういう人々、特に子供の逃げ場になる場所や適切な相談窓口を用意する制度をもっと整えないといけません。次年度公務員になったら、そういった家庭福祉的な観点でも仕事をしてみたいです。
2.「親ガチャ」と努力・環境論
このエッセイ(?)2作目にして、家庭環境と人生・社会を語る上での最大の目玉トピックです。
またまた例によって以下しばらく前置き及び隙自語なので、急いでる方は小見出し(1)まで飛ばしてもらって構いません。
「親ガチャ」という言葉をネット上で見かけるようになったのはいつからか覚えていませんが、私はこの言葉を大学入学当時の2020年から使っていました。
大学1年生の頃受けていたあるオンライン授業で親子関係、毒親で悩む人の話題になり、リアペ(授業の感想とか提出するやつです)に
『親とはガチャガチャのようなものです。親ガチャです。親は自分で選べず、産まれもったもので人生の大事な部分が決まる。だから人種や性別による差別が許されないように遺伝的なものや家庭環境による差別はあるべきではないし、親が毒親だからといって彼らは自分の人生にランダムに割り当てられただけの他人と思えば良い。本人が悪く思ったり気に病む必要は全くない』
的な、あくまでこんな感じの感想を提出しました。(もう卒業しているので授業記録が見れず正確にはわかりません。残念)
この次の授業で私の感想が取り上げられまた議論になりました。『親ガチャわかります、結局環境が全て』という人もいれば、『親ガチャなんて親に失礼だ、努力でどうにでもなる』という人もいて様々でした。その後Twitter(今はXだっけ)でも同じような論争が何度も繰り広げられていました。もしかしたら親ガチャという語を世に広めたのは自分かもしれません。
(1)親ガチャとは過程の問題である
親ガチャ問題において私が1番主張したいのは、「親・家庭による格差とは結果ではなく、過程の格差である」ということです。家庭だけにね。
これを読んでくれている方の中にも、『親ガチャなんて甘えだ、努力すれば何とでもなるのだ』と思っている方もいるでしょう。
そういう方を真っ向から否定する意図は一切ありません。もちろん色々な考えの方がいることはよくわかっています。しかし、そう主張する方は、親ガチャを結果のみで語りがちな傾向があると感じています。
例えば、AさんとBさんが同じ「大学卒業」という結果を手に入れられたとします。Aさんはお金持ちの家庭で、学費は全部親負担、仕送りをたっぷりもらってアルバイトもせず勉強と遊びに全ての時間を使った。一方Bさんは、週5でアルバイトをし、学費を負担しつつ生活費も自分でまかなっていた。サークル活動も出来ず、単位を取るので精一杯だった。
この2人が「大学卒業」という結果を手に入れるまでの過程に、時間的・金銭的格差が無いといえるでしょうか?以下の画像をご覧ください。
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親ガチャの風刺画として有名なものです。見たことがある方も多いかもしれません。この2人が「頂上に到達する」という同じ結果を得られたとしても、それまでの過程に大きな格差がある。親ガチャとは結果ではなく過程の格差であるということを、この風刺画も伝えたかったのではないかと思います。
「大学卒業」はあくまで大層でわかりやすい例ですが、親ガチャの格差とはもっと日常的な部分にも存在しています。あるものを親に買ってもらえるか、自分で負担しないといけないか。親に許してもらえるか、許されないか。こういった面から、時間・お金・経験の格差は生まれています。親ガチャに同感する人はよく「親ガチャを批判する人は恵まれているんだ」と言っています。批判するのは自由ですが、自分の家庭環境が恵まれている部類なのではないかということ、世の中には恵まれない環境から想像を絶する努力をして結果を手に入れている人もいるということについて考えて欲しいなと思います。
たしかに、苦境に立たされても死に物狂いの努力で環境をひっくり返すこともできます。しかし、必要な努力量には親や生まれ持った環境が大きく影響すること、得た結果のみを見て『親ガチャは甘えだ』と言うべきではないということを、改めてここで伝えておきたいです。
(2)種族値・個体値・努力値とルッキズム
突然ですが、ここでポケモンのゲームの話をします。
ポケモンには攻撃・防御・素早さなどの能力ごとに種族値・個体値・努力値という3つの数値があり、これらの合計で能力の数値が決まります。
ざっくり説明すると、種族値とはポケモンの種類ごとに固定された値(例えばピカチュウはピカチュウの数値、イーブイはイーブイの数値)、個体値は親から遺伝する各個体ごとの生まれ持った値、そして努力値はバトルで相手を倒したり、薬を飲んだりして後天的に得られる値です。
これを人間にも当てはめて、ここでは主に個体値と努力値の話をします。さっき学歴を例に用いたので、今度は昨今話題のルッキズムを例に取ってみます。
髪型とか、ファッション、清潔感は割と頑張って変えられる部分ではあります。でも顔の造形、スタイル、肌質、髪質は…これらは正直ほとんど遺伝で決まり、後天的に努力しても限度があると思います。私も硬く剛毛すぎる髪質とか、ニキビが出来やすい肌質には結構悩んでいます。大抵の人は橋本環奈の顔にはなれないし、菜々緒みたいな8頭身?9頭身?にもなれません。また容姿においても、先ほど話したように遺伝によって必要な努力量(容姿においては金銭面も)が変わります。
性別や人種は100%先天的に決まり、それらで差別をすれば当然批判されます。しかし容姿は…?大学の陽キャサークルや就職活動では「顔選」というものが当たり前のように行われています。顔のパーツの位置や形で人を選別するのって、人種や性別による差別とどう違うんだろう?とずっと疑問です。「誰が1番かっこいいか、可愛いか」という話をする人も多いと思いますが、私はそういう話もあまり好きではありません。
まあ恋愛とか結婚において容姿の好みとかは人によって色々ありますが、表に出して条件を設けたり、あからさまに選別する態度を見せるべきではないと思うんですね。「人の見た目で30秒以内に直せない部分は指摘しない」という言葉は非常に的を射ています。例え本人がいない場所であってもそうであるべきだと思います。
先ほど例に挙げたポケモンも、1匹あたりに割り振れる努力値には上限があり一定の数値を超えることは出来ません。弱い種族のポケモンの攻撃力にMAXまで努力値を振っても、実数値は強い種族のポケモンの種族値にも及びません。
最終的に何を言いたいのかというと、努力で変えられる部分には限界がある、というのをもっと受け入れてくれる人が増えてくれたらなと思います。家庭環境含め、本人ではどうにでもならないようなことによる差別がない社会になって欲しいです。
3.あとがき
あとがき、と言いながらこれ普通に作成途中で書いています(笑)
私にしてはまあまあ真面目な話をした方だと思います。3000字くらいに収めようと思いつつ思いっきりオーバーしてます。ごめんなさい。下手すりゃ大学の時の期末レポートより文量あります、これ。
次回は、犯罪者の家庭環境に見るパーソナリティと家庭の関係・親権免許制の是非をテーマにしようと思っていますが、わかんない、変わるかも。研究論文みたいなテーマですね。どちらにせよよろしくお願いいたします!
長文にも関わらず最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!