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耳が忘れていたこと

「AIに仕事や役割を奪われてしまうのではないか」「AIは無機質に人間をリプレースするのではないか」といった声を、ここ2~3年よく耳にしてきました。ロボットが工場のライン作業を担ったり、自動運転によってより安全な交通網が整備されたりと、人間の仕事がAIに代替されるメリットもある一方で、人間の役割がなくなるのではないかという危機感もあります。同時に、そうした「奪い合い」の視点だけでAIを捉えるのはあまりに表面的だとして、自分自身の内面や身体感覚といった“人間ならではの感性”をより深く見つめ直す好機だという意見のほうが、最近は盛んになってきました。

たとえば、言語モデルが生み出す文章を読んでいると、その「どこか機械的」な言い回しや、パターン化された論理展開に気づくことがあります。人間が紡ぎ出す言葉には、感情の起伏や身体感覚に基づく微妙なニュアンスが宿りやすいですが、AIが生成する文章からは、そうした“ぬくもり”や“ざわつき”を感じ取りにくい場合もあります。その結果、「あぁ、やはり人間の言葉には何か特別なものがある」と気づかされると同時に、「生成された文章ばかり読んでいると、自分が書く文章とは違う気がして、どうしても自分独特の味を入れたくなる」という思いが湧いてくることもあるでしょう。このように、AIによる文章を読む体験そのものが、私たちにとって自分自身の言葉を見つめ直すきっかけになるのです。

同じことは音声についても言えます。音声合成技術が進歩した結果、AIが生成するナレーションやアナウンスは流暢かつ多様化し、人間の声に近づきつつあります。さらに、AI技術の発展によって、人が発する音声から感情や精神状態を把握することができるようにもなってきました。声のトーンや抑揚、話すスピードなどを解析することで、怒りや悲しみ、緊張といった感情を精度高く推定できるシステムも出現しています。それでも、ふとした呼吸のタイミングや声のうわずり、言葉と言葉のあいだに生まれる「間」など、人間が実際に声を出すからこそ立ち上る要素は、AI音声では模倣しにくい部分として残りがちです。そうした微妙なズレを感じとると、あらためて「自分の声」に意識が向かう瞬間があるでしょう。

さらに声に関して言えば、私たちは日常生活のなかで自分の声を客観的に聴く機会が少ないことも注意すべきことです。会議の録音や動画コンテンツ、SNSの音声投稿などで自分の声を後から聴くと、「これが本当に自分の声なのか」と違和感を覚える方は多いですよね。ここに“自分”を多角的に見つめるヒントがあると思っています。自分の声を客観的に把握すると、話し方の癖や声のトーンの特徴など、普段は意識していなかった内面の変化に気づけるようになるのです。

AI音声との比較を通じて、あらためて「人間の声には何が宿っているのか」を問い直す場面もあります。たとえ不完全であっても、生身の身体が発する振動や感情の揺れが微妙に織り込まれ、聴き手の心を揺さぶるのが人間の声。それはAIでは代替しきれない「身体性」を内包しているように思います。こうした“身体から立ち上る声”と“機械が生み出す声”を比べることで、テキストだけでは表現しきれないほどの違いを実感し、「より注意深い観察」を通じて自分自身を深く知るきっかけが生まれるはずです。

技術が進化すればするほど、人間は自分たちの“本質”を改めて探求せざるを得なくなると思います。言葉の使い方ひとつ、声のトーンひとつをとっても、それが機械による模倣とどう違うのかを意識するプロセスのなかで、「自分という存在は何によって形づくられているのか」を見つめ直せるでしょう。技術の進歩は、まさに“人間の可能性を再発見し、創造性を高める糸口”を切り開くものだと思います。自分の声や言葉を客観的に見つめ、それをさらに魅力的に育んでいく――こうした内面探求の道は、これからますます広がっていくと信じています。

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