![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/165204255/rectangle_large_type_2_efeb9cbc3eef07a5c2a7c16b3fda95e6.png?width=1200)
読書こそ学びにとって最強の”きっかけ”である
プロ雑用です!
本記事はMOVEDアドベントカレンダー2024・12月12日の記事です!
みなさん本読んでますか?
みなさん、読書してますか?私は毎年コミックや小説や雑誌も含めて、だいたい月20冊ぐらいは読んでいるので、年で200冊ぐらいは読んでるのだろうと思います。うち、一般的な書籍(活字がメインの小説ではない本)は、毎年20冊ぐらいは読んでいます。本好きと言うには少ないし、本を読まないというには多いぐらいの数ですね。
若い頃はもっと読んでいて、定期購読している雑誌だけで月20冊はありました。全くターゲットではないファッション(ELLE、VOGUEなど)、ビジネス(日経系、東洋経済、ダイヤモンドなど)、PCなどの技術系(DOS/Vとかアスキーとか)、アニメやプラモなどのホビー系、果ては全く知らない業界の雑誌など手当たり次第で、インプットの虫というか、とにかく世の中の知らないことを知りたい欲求がすごかった時期です。通勤時間や昼休みの時間、休日は部屋にこもって読書しているという日もありました。電子書籍はまだ無かったので部屋は書籍によって壁ができていました。今は電子書籍に代替できない大版の写真集や画集、図鑑や絶版書籍などを中心に400冊ほど並んでいるだけです。いま床の上に溢れ出た20冊ぐらい転がってるけど…w
ま、それはそれとして若い頃よりも、少なくはなったけど今も読書との縁は切れない生活をしております。
日本人は社会に出ると本を読まなくなるらしい
らしいので、そういった話の出どころを調べてみました。
その中で3件をピックアップします。
まず、文化庁の資料から。2023年度に実施した「国語に関する世論調査」によれば、1カ月に1冊も本を読まない人の割合は62.6%だそうです。
この調査では、さらに読書量が以前より「減っている」と答えた人は69.1%、その主な理由として「情報機器(スマートフォンなど)で時間が取られる」(43.6%)や「仕事や勉強が忙しくて読む時間がない」(38.9%)ということが挙げられています。
次にマイナビが新入社員向けに実施している、マイナビフレッシャーズの記事から。
この調査では、社会人の平均読書量は月に2.2冊であり、1カ月に2冊以上本を読む人を「普段本を読む人」と定義しているようです。また、1カ月に5冊以上本を読む人は「読書家」と定義しています。
「普段本を読む人」に該当しない、つまり1カ月に1冊も本を読まないと回答したのは38%、逆に「読書家」に該当するのは、わずか5%とのこと。
以上のことから、日本人の読書離れが進んでいると結論づけています。
3つ目は、クロス・マーケティング社が実施したインターネットアンケートの結果から。
このアンケートによると、半年間に1冊以上本を読む人は52%で、約半数が半年間に1冊も本を読まないと回答。また、読書量が「多いほうだと思う」と回答した人は6.3%にとどまり、「やや多いほうだと思う」と合わせても14.9%程度という結果になっています。
過去の日本人はそんなに本読んでたのか?
以上のようなデータは、海外と比較すると特異的に低いと指摘されています。では、昔の日本人と比較するとどうなのか?を調べてみました。
文化庁の「国語に関する世論調査」によれば、2008年度の時点で、1カ月に1冊も本を読まない人の割合は約47.3%、2000年度では1カ月に1冊も本を読まない人の割合は約40%となっており、2023年度の62.6%まで年々増加していることは推測できます。
2000年以前のデータは見つかりませんでしたが、別のデータから類推を試みると、例えば、ジャンプなどの週刊少年誌、CDなどのミリオンセラーなどは概ね1990年代にピークを迎え、その後減少に転じています。出版市場全体を見ても売上や販売数のピークは上記と一致しています。
経済的には、日本の人口は1990年をピークとして、その後は減少、特に若年層の減少が顕在化し始めています。
ここからは上記を踏まえた個人的意見になりますが、おそらく日本人は、昔から本を読むという行為を、勉強のためにしている人が元々少なかったのではないかと思われます。では何のために昔の人は本を読んでいたのかと言うと、娯楽です。娯楽・趣味コンテンツとして本を読んでいたので、他の娯楽 の登場によって娯楽・趣味を消費する対象が本から移動したと考えられるのではないでしょうか。
よって社会人が本を読まなくなったのではなく、元々日本人は社会に出ると学習という意味で本を用いていない、言い換えれば多くの日本人は社会人にとして学習する習慣がない、と言えそうです。
学習は子どもがするもの、大人は金を稼ぐもの、というバイアスが強いのかもしれませんし、手に職を、技術は見て盗めという考えが根強いので書籍で学習するというのに抵抗があるのかもしれませんね。であれば「学校の勉強が社会に出ると何の役に立つのか」という話が、いつまでも消えずに残っている理由も理解できます。
娯楽の消費コンテンツとしてのインターネット
娯楽としての消費コンテンツとしてどのメディアを使っているか、その変遷を考えるとしっくり来るという話ですね。そこでインターネットですよ。インターネットに全部持ってかれた理由を考察してみました。
インターネットの最大の特徴は「あらゆるものの民主化」、言い換えるとそれは様々なものの取得コストを下げ、最終的に「タダ(無料)」にしてしまうということなんですね。娯楽も情報も、全て無料になる。そしてそれはスマホの誕生と普及で極まっています。玉石混交ではあるものの、あらゆる情報と娯楽はスマホで完結します。いつでもどこでも身につけているスマホの中に、あらゆるものが無料(に見えるカタチ)で存在しているという時代。
娯楽でないものも、例えばkindleUnlimitedだとかを契約しておけば、1冊分以下でコンテンツが楽しめます。考えてみれば恐ろしい時代です、作るコストは変わらない(下げられない)のに、提供コストはほぼ無料でないといけないとは、作り手からしたら地獄のようですね。
ブランドがあってコンテンツだった時代から、コンテンツのためのブランドの時代へと変化したとも言えそうですが、それは脱線するのでここでは辞めておきます。
読書がなぜ「きっかけ」足り得るのか
と、いうことを踏まえてここからが今日の本題です!
(相変わらず前起きがながくてすまねぇ…)
タダより高いものはない
インターネットはあらゆるものを無料化するのですが、無料化というのは作るための原価コストも著しく減っていくことでもあるので、つまりそれは「安かろう悪かろう」が市場に溢れかえる、ということにもなります。つまり玉石混交の玉と石の差がめっちゃ広くなるってことでもあるんですよ。
(※これは技術革新があった後、市場が拡大するフェーズでは必ず起こる現象なので、何もインターネットだけに限ったことではないのですが)
SNSのフェイクニュース問題ってありますよね。あれは石を玉のように見せるからフェイクなわけですけども、全てがつながって無料になっているからこそ発生するわけで、そこにセーフティーネットを作りづらいということなんですよね。安心安全信頼には多大なコストが必要なのです。
学習という面をクローズアップすると、情報やデータの出どころの信頼性というのはとても大事。偽情報の学習をしても意味がない、どころかやるだけ損になってしまうことにもなる。
書籍にコストを払う意味
娯楽だったら少々損してもまぁ別に許せることもあると思います。しかし、学習しようとしたのに、損(赤字)だったら意味ないですよね。そして、ここで言うコストには金銭だけではなく学習のための労力や時間も含まれます。そういったコストとリターンの関係(収支)を鑑みると、書籍にコストを支払うのはすっごい合理的なんですよ。
なぜかと言うと、たくさんの人、特にその道のプロフェッショナルが関わっている事が多いからで、信頼度は無料のそれとは比較になりません。
SNS隆盛の時代、出版不況だとか言われているのに、本がたくさん出版される理由(年間2万冊以上)、それは信頼に対する合理性という点を見れば納得できる話ではあります。
一冊の書籍は結構時間をかけて作られていることが多いというのはみなさんも想像がつくと思います。マスコミやSNSなどのメディアは即時性などが重要ですが、書籍の場合は全くの逆。時間をかければ良いものができるわけではありませんが、多くの人を介し手間と時間をかけられて作られています。著者の執筆だけでも短くても半年〜1年は一般的にかかるそうですし、著者だけではなく編集、校正、校閲、海外書籍なら翻訳者などの手を介されて時間をかけて作られます。比較的即時性のある雑誌ですら企画内容は何ヶ月も前から準備していますからね。
即時性が重要ではない分、検証・精査する時間も他の媒体に比べると多くあるわけです。著者以上に、編集者や出版社が重要視されること、そのことである程度の水準は確保されているということが、信頼性の高さになります(もちろん例外はありますが)。
つまり玉石混交であっても、玉と石の範囲が、SNSに転がってるコンテンツよりずっと狭い=精査する側のコストはずっと低いわけです。
まぁ、別に自分で買わずとも、図書館とかで借りてもよいのですが、それだって一度全て販売されているということは上記のような工程を経たものであり、信頼度は高いわけです。
SNSのカウンターとしての書籍
SNSは、市井にも賢き者はたくさん居るとわかりました。
ですが、賢き者が必ずしも知恵あるものであるとは限りません。賢さは「正しいことを見つける力」ですが、知恵は「正しいことをどのように使うべきかを理解する力」。
機動戦士Zガンダムの最終回、革命者パプテマス・シロッコは主人公カミーユとの決戦中にこのようなセリフを吐きます。
「賢しいだけの子供が、何を言う!」
これは自分が子ども時代だった時の受け取り方と、今では全く違う受け取り方ができるのですが、そこら辺は端折りまして、結果だけ言うと、賢い子どもであるカミーユは、その決戦の末、心を壊してしまいました。
そして、今の時代、カミーユと同じ用に心を壊す賢しい者が多いのは、富野監督が予見した通り。監督御本人は無力感を感じているという旨の発言をされてますね。(新約Z作ったあたり)
かの有名なインターネット芸人が、かつて呟いた「うそはうそであると見抜ける人でないと難しい」は、まぁほんとにその通りで、ではウソをウソと見抜けるのはどうすれば良いのか、といえば、それは賢さよりも知恵を身に着ける必要があるのです。それでも人間はウソというものを完全に見抜くことはできないわけですけど、無防備よりははるかにマシになります。
書籍は知識の宝庫
書籍を読むことはある意味では、他人を自分の中にインプットすることでもあります。他人が何を考えているのか、書籍には体系的にまとめられています。DIKWモデルに従えば、データ(Data)という原材料に文脈や関連性を加え特定の目的に利用するように加工したものが情報(Information)、それを体系的にまとめて活用できる状態にしたものが知識(Knowledge)です。ここまでが書籍の重要な役割。
最後の知恵(Wisdom)は読者自身が獲得しなくてはなりませんが、知識なくして知恵も無し。知恵を身につけるためにも知識の蓄積は重要です。その最も効率的な方法が、書籍による学習、と言えるのです。
実践の中で知恵を磨く
知恵を身につけるためには、学んだ知識を実践に使うほか有りません。体系化された知識は、すでに誰かが試行錯誤されたもの。数式のような普遍的な法則(原理原則)はなかなか有りませんが、少なくとも試行錯誤した後のものが体系化されているわけですから、これを実践しないのは、読み損、それこそ学習ではありません。実践してこその学習。
これはウラを返せば、すでに先人が体系化した知識を学習すれば、その分ショートカットしたうえで更に先に進めるということなので、全部自分で実践しなくても良くなるということ。学習とは、単に情報の記憶(暗記)、知識の蓄積を超えて、その人自身の成長や変化を促すプロセスのことです。
また、実践した後、振返りとしても体系化された知識としての書籍は多大に貢献してくれます。読みっぱなしでは知恵は磨けません。予習→実践→復習はセットなのですね。
読書は”技術”
さて、ここまで読書がいかに学習にとってすばらしいきっかけかを語ってきましたが、書籍に親しんでこなかった人は何からやれば良いのか、どんな書籍に挑戦すればよいのかわからない人もいるでしょう。
単に書籍、と言っても、その差は幅広いものです。分厚い専門書から絵本まで幅広く揃っているのも特徴なので、本を読まないという人は、まず自分の読書レベルがどれくらいなのかを知ることから初めると良いです。
本を読むコツ、ということについては、こちらのポッドキャストが非常に参考になります。特に読書に苦手意識のある方はぜひ聞いてみてくださいね。
ということで、長くなりましたがここまでお読みいただきありがとうございました。
ちなみにこのnoteは2024年にしたためたnoteとしては95番目。今年中に100本は目指したいなぁ、ということで年末に向けて書き溜めたものを一気に吐き出していきたいと思いますので、よかったら読んでね♥
それじゃ、また👋