”評価”とは一体なんなのか(後編その8)
プロ雑用です!
前回、年功序列(年功主義)と成果主義の対比から、ゆがんだ形で混ざってしまった現在の年功序列と成果主義について語りました。その結びに書いた「それでもなぜ評価したいのか」という点について今回は語っていきます。
基準のない評価がもたらす罪
成果主義は、ジョブディスクリプションが無いとそもそも機能しません。ではそれが無い日本的なゆがんだ成果主義はどんな基準があるのか?と問えば、それは「基準はない」というのが答えです。より具体的に言えば「基準は常に変わっている」のです。
言い方を変えれば、これは「相対評価」だということです。ジョブディスクリプションはその名の通り、職務内容が決まっており、それが成果の基準にもなります。よって、個人の働きとその結果は、職務内容の求める基準が比較されます。
一方で日本的な評価制度は、その結果以上に「同じような(と評価者が考えている)人同士の順位をつける」ことで成り立ちます。つまり人同士の相対評価なのです。こうなるとどうなるか?
単純に考えれば、どんぐりの背比べになります。
どんぐりの種類を勝手に分類するのは、評価する側の都合です。
しかし相対評価なのに、目標はなぜか個々人異なります。つまり基準が違うのです。基準が違うものを横一列になられべて評価するのが日本式です。
相対評価で大活躍するバイアス
さぁ、ここで大活躍するのが、後編3〜5で解説した3つのバイアスです。
脳は、最初に”好き嫌い”で判断している。
→感情ヒューリスティクス、ハロー効果脳は、連想して”好き嫌い”を強化する。
→プライミング効果、確証バイアス脳は、好き嫌いを、良し悪しに変える。
→損失回避バイアス、恣意の一貫性
こういったバイアスに基づいた評価はいくつかの誤りを引き起こします。
評価制度は点数(100点)だったり段階(3、5、10など)だったりいろいろありますが、その際に、全体の評価が真ん中に寄ってしまう「中央化」。あるいは、甘くなって評価を高めによってしまう「寛大化」。
また特定のバイアスが影響を与えるエラーもあります。
たとえば、確証バイアスや恣意の一貫性、ハロー効果が複合的に絡んで引き起こす「論理的エラー」。これは出身大学、出身地、自身の好む人物に対して高評価が与えられてしまったり、以前高評価をだした者をがその後振るわなくても最後にはなぜか高評価になるような現象です。正社員はなぜか契約社員よりも高く評価される現象もこれに含まれるでしょう。
また、損失回避バイアスによって引き起こされるのは「逆算のエラー」。これは評価する前から高評価/低評価が決まっていて、そこから逆算してほかの評価も決まってしまう現象。似たような「対比のエラー」は、評価基準となる者を決めてそこを基準にして評価していくという、プライミング効果によって引き起こされる現象です。
ぶら下げたニンジンを食いたきゃ高評価を狙え
これが単なる評価、成績表であればこれほどまでに嫌われることは無いかもしれません。しかし、この成績表は、ほとんどの組織が報酬と結びついているのです。
そもそも、評価をしたい理由は、分配に差をつけるためです。評価が高まれば「他の人より多くもらえる」というニンジンをぶら下げることで競争心を煽り、より貢献してもらおうという狙いがあります。
評価制度が報酬と結びつける理由はここにあります。評価は限りある(そして多くはない)資金の分配を限りなく抑えようという仕組みなのです。そして同時に競争心を煽るニンジンでもあります。
働かざる者食うべからず
古い経営の考えでは「人は管理しないと無限にサボり続ける」という思い込みがあり、これは現代の多くの経営者も無意識で持っている考えです。実際、人はサボりたいとどこかで考えています。私も可能な限りサボりたいと考えています。
だから、評価によって差をつけること、高評価を得られたものに多くのものを与えることで「おまえたちも欲しかったら高評価だしなよ」と煽るわけです。怠け者がいなくなると信じて。
怠け者を排除しても、怠け者は居なくならない
が、この考えで間違っているのは「管理すればサボる者はいなくなる/排除できる」というところ。こんなことは絶対にあり得ません。サボっていないのでは無く、サボっていないように見えるだけです。
相対評価で差をつけると、なぜ怠け者が居なくなると信じているのか謎ですが、その詳しい話は次回にするとして、そもそも相対評価は、前述のさまざまなエラーを避けることはできません。最悪なのは、怠けていないものに、怠け者だと判定してしまうエラーもありえるのです。
さて、今回はここまでとして、次回は評価が嫌われ荒れる理由をある法則に沿って考えていきます。
それじゃ、また👋