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なぜ人は他人に清貧を求めるのか
プロ雑用です。
今日は短めー
白馬の王子様シンドローム
って知ってます?
これはお姫様系のおとぎ話のように「自分は何もしなくとも、待っているだけで良いことが起こるはず。自分だけがこの世で特別だと思い込み待ち続ける」という思い込みのことです。まぁストレートにこう考えている人は少ないとは思いますが、「自分は変わりたくないから相手が変わってほしい」というのは大勢の人が罹患している症状だと思います。
今回のタイトルにあるように、多くの人が他人、特にその中でも「目立つ他人」に対して、清廉潔白や誠実さ、清貧を求めています。これはそういう指導者を欲しているわけではなくて、その根底には白馬の王子様シンドロームが隠れているんじゃないかなと思うのです。
目立つ他人ってのは芸能人だとかどこかの起業家だったりとか著名人ですけども、身近な中でも自分の居るコミュニティの中で目立っている人に対しても同じような感情を持っている人は多いと思います。
自分の人生を生きる力がない
人間がモチベーションを発揮して日々活動するための要素は、大まかに2つあると言われています。一つが「目的」、そしてそのための「手段」。目的は他者から与えられたものではなく、内発的動機という、自分の中から湧き上がる衝動に基づくものでないといけません。人生のだいたいにおいて活動的ではない状態というのは、この内発的動機からくる目的がないことがほとんどです。
仕事でも人生でも、ただ日々をなぁなぁに過ごしていると、この内発的動機による目的は見つけることができません。そして、だいたいの人は「そのことに無意識的に」気づいています。自分の中の空白を結構自覚している人は多いと感じます。だが、それに自覚をしていたとしても、それう埋めるほどの何かが見つけられないし、生み出せない。これが結構苦しみなんだろうなと思うわけです。
苦しさには贄が必要だ
毎日毎日繰り返しの中にある、自覚のない苦しさは、時折何かで和らぐこともあります。それはペットの癒やしだったり、感動するストーリーかも知れませんが、その中には他人の苦しみも含まれていることを自覚している人は多くはないでしょう。ホラーやサスペンス、悲劇的な物語が娯楽として成立するのだから、当然、現実の他人が堕ちる姿も娯楽として成立します。
日々余裕がなく自分を抑えていきているが、そのストレスを身近なもので発散するのは憚られるのであれば、それはなるべく自分からは遠い他人がその対象になるのは自然なことでしょう。物語の中の悪役を非難するように、知らないなるべく遠い目立つ他人は、格好の悪役になりえます。
自分では目的もなく何もできずその自覚があるからこそ、持っている他人は妬ましい。その妬ましさは、常に生贄を求めます。自分がこんなに苦しいのは、自分以外の何かがダメだからに違いない、その他人に落ち度が無くとも「自分たちはこんなに我慢して苦しい」のだから「何かを持ちうるもの」から奪うことは許されることだ、生贄としてその身を捧げよ。
そうであってほしいという願望への裏切り
清廉潔白を求めるのはその実、本当に清貧で聖人であってほしくないという願望があるのかも知れません。そういう風に考えれば、実に気の毒ではあります。人間を初めとした生物一般、その性質は環境に依存しています。よって、その人自身がそうなっていることは、その人自身に責任がない環境要因も大いにあるでしょう。しかし、その環境の力が強すぎれば、無力感に支配されるのも理解できます。
だからこそ、目立つ他者は聖人であってほしい、それなのに、その願望を裏切った貴様は処断されねばならない、というパラドックスは、実に人間らしいなと思います。
自分がその対象になったら?それは基本的に無視一択ですね!
SNSでも基本的にどうでもよいコメントやDMは無視しています。
反応しない、何もしない、認識をしない、ということが最も有効です。
そんなものは存在していないのです笑
ということで、この話に特にオチはありませんので、今日はこれまで。
それじゃ、また〜👋