”評価”とは一体なんなのか(後編その12)
プロ雑用です!
今回からは組織構造が評価にどのような影響をあたえているかを解説していきます。大抵の場合、評価というのは上司が下すものです。なので上司とは一体何なのかから解説していきます。
評価者である上司とは一体なにものか
評価が比較を前提にしていることを考えれば、評価において良い・高い評価とは、つまり別の誰かと比較して良い・高いということです。これは、評価というものは、されるもの同士にとって勝負である、ということを示しています。好む好まずにかかわらず、そういう性質がある、ということです。
そこから考えると、敗者が出世することはないのですから、組織のいける上司というのは勝者です。勝者だけが上がっていける構造を持っています。そう考えれば組織図は、トーナメント表にも見えてきます。
評価は誰が行うものか、といえば多くの組織は、そういった勝ち上がった上司・上長が行います。逆はありません。360度評価などがあったとしても、最終的な決定権は勝者が持っていることが一般的です。
評価は「常にトーナメントの勝者が行う」ものなのです。
これには以下のような3つの異常性が伴っています。
勝者が審判(評価)する異常性
評価基準は勝者が決定する異常性
勝者が居座り続けられる異常性
勝者が審判(評価)する異常性
また競技スポーツのトーナメントにおいて、勝者が名声や金銭など得られるものが集中するのが普通ですが、それと同様、組織トーナメントでも勝ち上がったものが分配を多く得られます。
しかし、競技スポーツのトーナメントでは、審判はトーナメントの参加者と独立した存在です。なぜかといえば、公平性の担保するためであり、参加者が審判に特別な配慮を求めることは通常禁止されています。
ここに組織トーナメント特有の異常性が現れます。組織トーナメントでは分配を多くもらうことのできる勝者こそが審判なのです。常に高い評価を得た勝者のみが審判を行う、つまり先に勝ち取って上がったものが、下の人間(あるいは敗者)を評価するという異常性があります。
評価基準は勝者が決定する異常性
後編その7で指摘したとおり、日本にはジョブディスクリプションがありません。そのため、評価の基準は常に他者との比較が優位に働きます。がんばったとしても「もっとがんばった」人がいたら、その頑張りは無意味になります。そして、その「がんばった」の正当性と基準値は、常にトーナメントの勝者が恣意的に決定できます。勝者はバイアスにより最初から評価したい人しか評価できません(後編その6参照)。よって、がんばったかどうかは、事実ではなく、比較によって決定する相対評価です。
勝者が居座り続けられる異常性
例えばスポーツにおいて、競技人口が少ないときにトーナメントで勝ち上がれた人も、競技人口が増えたことで勝ち上がれなくなることはよくあります。ところが、組織トーナメントでは、元々下層に居た人々が、競技トーナメント同様の現象に見舞われる一方、元々上層に居る人はこの現象から逃れられてしまうという異常性があります。
特に組織が急拡大したとき、創業者に近ければ近いほど居続けることができます。当たり前といえば当たり前なのですが、トーナメントの下層には勝負を強制しているということを鑑みれば、異常な状態と言わざるを得ません。
もちろん、上司は上司同士でまた競争しているわけですが、これもまた上がった人が勝者です。
評価会議が必要な理由
評価制度がある組織は、多くの場合評価会議があります。同じクラスのマネージャーが集まって各チームの評価の「すり合わせ」を行います。しかし、そもそも評価基準が明確であれば、すり合わせなど必要ないのですから、評価のすり合わせのために議論していることが異常です。すり合わせの議論によって設定される基準は、その時だけの基準です。永続的な基準値ではありません。
ここでもこれまで解説してきたようなバイアスがとても良く働きます。
よく知らない人間は評価しようがないのです。つまりここでも「評価したい人」だけが評価されることになります。勝者たちが行う人気投票と言い換えても大げさとは言えないでしょう。
次回は「評価したい人」を評価者はどのようにして周囲に受け入れさせるのか、と言うことについて解説していきます。
それじゃ、また👋