推すことと自己分析について
前回NCTのすべてについて書き出してみた。
推すことをやめる前にすべてを書き出したい、そんな気持ちで。
けれども。
私は推すことはやめられません。絶対に。
なぜならNCTがよすぎるから、まあそれもありますが、
単純に私の性格的にすべてを制限してしまうとかならず病むからです。
実際、今完全に病んでいますし、病んでいる期間に次ぎまたやまないようにするためにはどうしたらいいのか考えてみるべきだと思い、ここに書き出しています。
今迄について振り返る
分析
これからに向けて
この三つの段階に分けて、共通テスト一週間が過ぎようとしている今、すべてをベットの上で書き連ねていきます。
今迄について振り返る
小学校まで私は普通の人間だった。
少し頭がよくて、児童会やったり勉強ちょっと頑張ったりして、そうでありながらも毎日校庭で遊んでたし、普通の小学生。
気は強かった。多分母親譲り。
中学生になって学級委員長になり私の生活は一変した気がする。
期待されているのだとすごく感じ、期待に応えようとすごく頑張った。
最初の定期テストで1位をとったとき、その瞬間からこの後の人生に対してのプレッシャーが重くのしかかっていた。
親に褒められるのもそうだし、先生たちからも期待されていた。
俺はお前になりたい、そう先生に言われた日、もっと頑張らないといけないと思った。
春休み、指の皮をむく癖が始まった。この時は一番ひどくて、親指は常に肉が見えていた。
テストに対しての余りのプレッシャーから、スマホにものめりこんでいったし、テストが終わった後の土日はすべてスマホに充てていた。
なんならテストへのプレッシャーがでかすぎるあまり、テスト前もスマホに触る時間は長かった。
学校でも優等生らしく振舞い、先生の目を見て話を聞くということを徹底していた。
スマホによく触っていたにもかかわらず、成績は別に落ちることはなく、県内一の高校に進学できた。
そこで私は気がふっと抜けた。すべてのプレッシャーから解放された気がした。
この中学時代に関して付け加えておくと、親の関係が目に見えて悪くなったのもこのころからだ。
病気したときからっていうのもあるな。中三になったとき、受験へのプレッシャーもでかくなったのに母親が病気になった。
母親はおかしくなった。私がおかしくなったのかもしれない。
少なくとも私から見て母親はおかしかった。メンタルが安定せずつねに病んでいる状態みたいな感じだった。
急に引っ越すといったことも私にはまったく理解できず、なぜこの環境から抜け出そうとしているのか全く理解できなかった。
正直今でもなぜ引っ越したのか理解できないし、少なくとも私のことは考えていなかっただろうなと思う。
今でもそうだ。
結局私が一人でのこって高校に進学するということになったのもそのせいなのだ。
高校から他県へ行く?それとも一人でこの地に残る?そんな選択を迫られたのは私しかいないし、その不安は母親にはもちろん、父親にも想像できなかったと思う。
母親は昔からメンタルが安定しているのかと言えばそうではなかったかもしれない。
皿を投げたところももみたし、私がげろったときものすごい剣幕で怒られたのも覚えている。
ついでに警察が来た時も。
私は寝床に入りながら、親二人が話す声が聞こえてきた。
気づいたら母親は泣いていて、父親の部屋にいて、私は妹を連れて自分の部屋にいた。
警察二人が父親と話していた。
裁縫道具を取り出しに行くといって私はリビングに行った。
なぜか私は取り乱さなかった。
親同士のけんかを何度も見てきた私は、謎に冷静だった。
考えてみれば、私は緊急事態になったたとき、やけに冷静になって笑う癖がある。
この時も謎に冷静だった。
親二人のけんかをなだめるとき、私は冷静だった。
常にけんかしていたからそうでもしないと自分が壊れそうだったのかな、とも思う。
まあ親二人は喧嘩していることが多かった。
母親は不安定だった。
中三のときそれはあまりにも顕著になった。
そしてそれを見てきた私は完全にそれを引き継いだ。
メンタルは常に安定せず、自分が何を考えているのか全く分からない。
結局こうなったのは母親のせいだ、私は不幸だな、そう考えているだけだったらいいのかもしれないが、結局それは「悲劇のヒロインぶっている」ことでしかないと考える自分もいて、自分の感情が全く分からない。
それをぶつけるように私はスマホに熱中したし、親と口論になったとき常に泣いていた。
中三、私はいつも泣いていた。
親のご飯を一週間食べないといった時もあった。
母親の言ったように、悲劇のヒロインぶっているといわれるかもしれないが、私って結局悲劇のヒロインじゃないですかね。
受験期間中にこんな苦労した人間ほかにいる?
片親の人、お金がなくて貧しい人、いじめられている人そういう人に比べたらそら幸福な人間だよ。
生きているだけで結局人は幸せで、結局ご飯が食べられているだけで結局幸せ者ではあると思う。
でもいろんな生活面で、普通の人、少なくとも私の周りの人間よりは不幸ではないですかね。
でもわからない、これも母親の「悲劇のヒロインぶんな」という言葉で片付けられてしまうから。
こういう記事を書いているというのも、たぶん他人から見たら自分に酔っているとかそう思われることもわかっている。
確かに私は悲劇のヒロインの自分に酔っているのかもしれないし、悲劇のヒロインぶっているのかもしれない。
他人から見たらこれは幸せな状況なのかもしれない。
わからない、自分の感情が。
高校生になって、一人暮らしできるようになって、楽しかった。
親をなだめる必要もなくなったし、母親の父親への悪口を聞く必要もなくなった。
そういえば、母親の父親への悪口、まじであの時間が一番嫌いだった。
毒親と言っていいのかわからないけど、とにかく母親は父親への悪口がえぐかった。
すっごい昔のことを持ち出しては私にすべていってくる。
私から見て父親はそんな人ではなかったし、そんなことを母親に言わないでほしかった。
母親の家系はよくわからない家庭だ。
互いに裏で悪口を言い合っている。
おばがどうだかはしらないが、すくなくとも私の父親の悪口を言っている時点で信用できない。嫌いだ。
結局叔母とうちの母親は裏で悪口を言い合っているんだと思う。
わからないが。まあ嫌いだ。どっちも。
そんなこんな、勉強のプレッシャーと親から解放された私はスマホにのめりこんだ。えぐいくらいに。
成績はもちろん落ちたし、1月にはどん底だった。
けれども友人のおかげで図書館に通うようになり、生活は改善していった。
2年生になって生活はある程度改善したが、テスト後数週間は普通にごちゃごちゃした部屋で堕落した生活を送っていた。
気合を入れては、テストが終わって苦しくなり、病みにやんでまた復活してという生活を繰り返していた。
そんなこんなではあったが、高3前の春休み私は一日を除いて毎日図書館に通った。判定も少しづつよくなっていたし、順位も結構よかった。
でもスランプはあった。だがラジオを聴きながら頑張っていた。
だが、文化祭らへんの時、ホームシックになった。
実はその数か月前母親と縁を切る宣言をしていた。
親友ともめた時のことを母親に否定され、私はぷつんと糸が切れた。
そういえば、その一年前も父親の転勤のことでしねとか何とか言われていたのに、普通に仲を取り戻し、生活を送っていたがこの縁を切ったのは、結局母親の性で自分の生活に波が生まれてしまうと思ったからだ。
だが結局、縁を切っても波は生まれてしまい、ついでに友達の弁当を見るのがつらくなり、悲劇のヒロイン状態になり、ホームシックになってしまった。
まあつらかった。学校で泣いてしまうほどにつらかった。
この時は悲劇のヒロインぶってはいなかったと思う。単純につらかった。
担任にも相談に乗ってもらったがきつかった。
結局この人も幸せな家庭のひとだから気持ちはわからないだろうなと思っていた。
まあそん名で冬になり、でもやっぱり波がでかかった。波がでかすぎた。
模試の前には普通に休むし、親には言い訳していたがプレッシャーがでかすぎて逃れていた。
それが共通テストまえにも引きずってしまった。一番だめなのにな。
次回、分析をしていきたいと思う。