メメント 1 メメント・モリ
何事も考えていることが現成化するのではなく、自身が感じていることが、どのような氣分でいるのかが、ムードとなりモードとなって、現成化するのである。だから出来る限り、氣分よく、私なら、落ち着いた、何事にも囚われていない状態でいるようにしている。
しかし、自分一人だけで生きているわけでない以上、日々、様々な出来事と出会う。自分や他者に囚われ、氣分がモヤモヤしたり、イラついたり、おさまりがつかなくなることもあるだろう。
そういうときは、とにかく深呼吸をして、一人になることを心がけている。そして自分の感情を抑えつけるのではなく、よくするのは、ジャーナリングをして、ともかく一旦吐き出すことにしている。ほとんど殴り書きのようなものだが、これが一番スッキリするのでそうしている。とにかく、吐き出してスッキリすれば、どんな方法でもいいと思うが、他人を巻き込まない方法を選んだほうがいい。
そうして、自分を落ち着かせることができたら、今の自分を基準に、断捨離をしていく。不快で不適切で不要なことを捨て断ち、そしてそれらから離れ、快で適切で必要なことは何なのかとイメージしていく。その映像を体感し、まるで映画予告を観ているかのように知覚していく。一連の流れが見え体感できたら、そのプラスの氣に従って行動する。解釈したり判断したり、考えるのは後だ。考えるのは、行動した後に、その結果を考えればいい。何もしていないのに、何の結果もないまま、あたかもそうであるかのように想い悩むのは決して賢明ではない。憶測や予感だけで、それをそのように決めつけても、妄想でしかない。それこそが自分自身に囚われている「囚人」である。
人は何事に対しても、ともかく知って覚えて行動して、それから考えていく。これを一文字ずつならべると「知覚動考」となり、「ともかくうごこう」と読む。今の自分を基準に、断捨離をして、プラスの氣に乗って、ともかく動く。その結果に対して、私の場合は、三行日記的に、悪かったこと、良かったことを踏まえ、次はこうしようと考えていく。この繰り返しである。ともかく、まずは自身のモヤモヤを払拭する手段を持つことで、運動かジャーナリングを私はおすすめしている。なぜなら一人で手軽にできることだから。
ジャーナリングでとにかく、自身を落ち着かせ、それから今の自分を基準に、断捨離して、プラスの氣のモードにのって、「知覚動考」(ともかくうごこう)で、行為していく。その結果に対して三行日記的に考える。これを繰り返すことで、行動形式が迷うことなく、シンプルになって、自分の基準が見えても来るようになる。そうすると、一つのことがダメになると、他のことも全部ダメになってしまうこともなくなり、先送りもしなくなる。つまり、切り替えが上手くなっていくのだ。
しかし、問題は、「今の自分」である。この「今の自分」をどう捉えればいいのだろうか。へたに今の自分を基準にしてしまうと、単なる氣分だけで動くことになり、身勝手で我儘な感じだけになってしまう場合がある。そうすると他人に悪い印象をも与えることになるだろう。別に良い人になる必要はないが、害のある存在になる必要もない。別に自己肯定をし続ける必要はないが、自己否定をする必要もないことと同じである。
では、どう「今の自分」を捉えればいいのか。
今の自分の分母に、今こうして生きながらも死に行く自分を据えることである。生まれ出るということは同時に、死に行くことなのだから。
死に行くことが生きることである。私たちはみな、決して後戻りできない流れに生きている。この不可逆性こそが、存在の仕方の原理である。私たちの不安や恐怖は、この不可逆性によって生起している。もしこのままいったら、取り返しのつかないことになるかもしれない。この不安は誰でも危機に直面したときに思い起こすものではないだろうか。それは意識的にも無意識的にも自身が後戻りできない今を生きていることを知っているからである。私たちは生まれ育ち、成長し、老い、病み、死んでいく。この自然史的プロセスを辿らない人は一人もいない。すべての存在は、この自然史的プロセスにおける現れとして有るので在る。
それと同時に、死における不安の要因に、自身が死ぬことは分かっているのだが、いったい「いつ・どこで・どのように」死ぬのか、一番肝心な点が分からないことにある。だが、これは裏返していえば、「いつ」や「どこで」や「どのように」というものに囚われていないということでもある。つまり、死は今ここで、決して現状に囚われることなく、一つの自由を有して在る、ということだ。
コーチングで一番重要なファクターは、「現状の外にゴールを設定する」ことである。これが難しいと思う人が多いのだが、決して難しくはない。自分の死に際して、どのような存在でいたいのかを考えればいい。なぜなら、死は常に今ここで現状に一切とらわれることなく存在しているからである。
スティーブ・ジョブズは、常に、自分の死を想い、今自分がしていることは本当に自分がしたいことなのだろうか、と自問しながら生きていたという。「7つの習慣」においても、このことを考えることを推奨している。この「死の自分」こそが、人生の道になるからだ。その道をどう歩けばいいのか。それは歩いてみなければ、ともかく動いてみなければ、その「歩き方」は身につかない。しかし、道なき道を歩くわけではない。自分を見失うわけでもない。その「死」の道の過程において私たちは様々なことに出会い、別れ、時に再会したりして、そのような様々な変化に出会うことで、人生の糧を得ていく。それが経験の記憶となって、生き方を、その歩き方を身につけていくのである。
だから、「生き方」とは、決して現状に即した生き方のことではない。現状の外に、現状に囚われていない道をどう生きるのかにある。それが死に行く自分を生きることである。いつ何処で、どのように死ぬのか未知であるが故に、それは最も自由な、現状に囚われていない場でもあるとも言えるだろう。
この生き方は、「万事を尽くして、天命を待つ」生き方に似ている。自分が死に際してどのような存在でいたいのか。そのような姿にベストを尽くして生きていく。あとはいつ何処でどのように死ぬのかは、天命に任せる。その大いなる力に従う。つまり、いつ死んでも大丈夫なようにしておくということだ。生に執着するのではなく、生きていることを活かしていくこと。今こうして生きていることを大事にすることである。
誰もが決して後戻りできない生滅変化の、つまり「無常」を生きている。誰もが「いつかどこかで、様々な死に方」をしていく。この想いに自身を位置付けたとき、自分にどのような想いが現れるだろうか。大切な人を前に、この人もいつかどこかで必ず死ぬんだと想うとき、自分にどのような想いが現れるだろうか。この社会に生きている人々みなが決して後戻りできない一回限りの人生を歩んでいると想うとき、自分にどのような想いが現れるだろうか。このとき私たちは現状の外に生きている、誰にも還元できない、他の誰かに翻訳もしえない、「この私」と出会っているのである。
この生き方こそが、己自身を知り、今に生き、今を生きる、「生き方」である。これは誰にでも出来ることだ。
メメント・モリ。この「死の自覚」こそが、生き方を教えてくれる唯一の場であると、私は考えている。