見出し画像

慈悲

慈悲の意味は、南方アジアの上座仏教では、「慈」は、「(人々に)利益と安楽をもたらそうと望むこと」であり、「悲」は「(人々から)不利益と苦を除去しようと欲すること」であると理解されている。これを漢字で表記すれば、「抜苦与楽」になる。この「抜苦与楽」こそが、慈悲の基本的な精神である。

この慈悲は、生きとし生けるものすべてに対して抱く純粋な愛情のことである。

『究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和で、思い上がることのない者であらねばならぬ。
 足るを知り、わずかの食物で暮らし、雑務少なく、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の〔ひとの〕家で貪ることがない。
 他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。
 いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも、悉く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、
 目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。
 何びとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。
 あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものものどもに対しても、無料の〔慈しみの〕こころを起こすべし。
 また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき〔慈しみを行うべし〕。
 立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この〔慈しみの〕心づかいをしっかりとたもて。この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。
 諸々の邪まな見解にとらわれず、戒めを保ち、見るはたらきを具えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう』

『スッタニパータ』「慈しみの経」


 私はこれこそが、well-being の基本的な精神だと思う。そしてこれがアドラー心理学の他者貢献の精神でもあるだろう。そして、この純粋な愛である慈悲の念は、世俗の愛憎とは全く異質なものである。何故なら世俗の愛憎は条件が変わればすぐに変わってしまう相対的な愛憎だからである。純粋な絶対的な愛情は、不変・清らかな愛情の謂いである。

いいなと思ったら応援しよう!