エッジを効かせたかった短編
「カット」
起床。時計を見ると午後1時。一分かけて導き出した計算結果によれば、十二時間も寝てしまった。こんなことなら起きなくてもよかったよ、と心の中で呟く。心の中で言っているんだから私はまだ狂っていない。とはいえこの時間に起きてしまった日の怠惰感たるや、目を見張るものがある。なんなら寝ている間に何日も経っていて何日目かのこの時間に起きているのではないかと期待したが、手元のスマートフォンを見るにどうやら違うらしい。バイト先なんてどのみち怒られることには変わりないしすぐにクビを切られるんだから、八十四時間くらいは寝たいものだ。
さて、一度スマートフォンという悪魔の板を手に持ってしまうとなかなか動き出せないのが人間の性で、気づけば一刻、これまた一刻と時は過ぎていく。動画配信アプリを開いたかと思えば、SNSを徘徊し、溜まり過ぎているメッセージに返信していく。私生活はウジ同然の私だが、人間関係は勿体無いほど充実している。女性からは言い寄られ続けているし、男友達にも困ったことがない。あってはいけない自信が有り余っているのもこれに起因するのか、はたまた危機感が欠如している現実逃避野郎なのか、未だに答えは定まっていない。ただ、私がもし危機感が欠如している現実逃避野郎だとすれば、答えは一生定まらないので考えるのをやめた。
人生を舐め過ぎだと私にそう言ってくる老人がいたとすれば、私を舐め過ぎだと、そう即答できるだろう。
「そうだ!女の子とご飯が食べたい!」これは心の中で呟かず思いっきり叫んでやったが、女性と食事がしたいというのは正常な感覚なので私はまだまだ狂っていない。最近、会社の経営をしている友達に紹介してもらったばかりの超可愛い里穂さんにメッセージを送った。
「里穂さんはさ、その、なんて呼んだらいい?」べつに緊張はしていない。
「別になんでもいいんだけど、さん付けとかちゃん付けとかあんまり好きじゃないかも。」 里穂は思った以上に明るい人で、大人しい人として接していた私としては少し拍子抜けしたが、馬は合うようで話していて楽しかった。ジェントルマンがスマートに予約しておいたレストランに案内すると、露骨に彼女の顔が歪んだ。
「ねえ、なんで初デートでステーキガストなの?」
「え、その、近いし…。」
「絶対私のことなめてるよね?」里穂はその言葉を半笑いで言った。そう、半笑いで言ったのだ。彼女は軽い笑いのノリとして、怒っているだけなのだ。そう思うと焦りは全て安堵に変わり、このノリを存分に楽しもうという気持ちにさえなった。
「うん、めちゃくちゃなめてる。」そう言って零点数秒、彼女の表情を確かめようとしたその瞬間、頬に尋常じゃない衝撃と痛みが走った。渾身の平手打ちは一瞬にして、近くにいた家族全員の視線と、愚かすぎる数秒前の発言への後悔を呼び起こした。彼女の目には美しい涙が見えた。泣きたいのはこっちだ。
結局粘ったものの里穂さんには帰られてしまい、せっかく予約をしたので肉を食って帰ることにした。注文して十数分ほど、一人で来たことを後悔し始めた頃に、料理が運ばれてきた。メニュー表の写真と違い肉が切られていなかったので文句を言おうとすると、運んでから店員がカットするシステムらしく、余計に恥をかいた。
「それではカットさせていただきます。」上品な顔立ちをした店員がそう言った時、大粒の水飛沫が、まだひりひりしている頬に飛んできた。何かと思い右手の掌で頬を拭くと、掌は赤黒く汚れた。血液だ。今度こそ文句を言える、とそう思って視線をテーブルに戻すと、私は愕然とした。私の視界には、血が滴るナイフとフォーク、それを持って静かに笑っている店員の顔、そして指が全て切り離された私の左手が映っていた。気づいた瞬間、左手が燃え盛るように痛み、悶絶した。私がいくら泣き叫んでも、店員は静かに笑うのみだった。私は目を瞑り、頭が真っ白になっていく中、これが悪夢であることだけを祈った。
シュー、と激しい音が聞こえ目を開けると、周りの壁は焦げたような色に変色し、湯気を出していた。その様子はまるでさっきまで食べようとしていたステーキのようだった。どうやら巨大なステーキはゆっくりとこの部屋に倒れかかろうとしているようだった。私はとうとう狂ったらしい。もう一度目を閉じた。
起床。それにしても、最悪な夢だった。なぜか男だったし。私は起きるとモーニングルーティンであるカモミールティーを淹れに、リビングに向かう。鼓動はいつもよりも明らかに早いし、メンタルはまだ落ち着いていない。お湯は沸騰前に火から下ろし、葉を張ったガラス製のティーポットにゆっくりと流し入れる。華やかな香りが鼻腔を掠めるのを感じながら、徐々に色づくカモミールティーを見ていると、少しずつ悪夢を忘れられるような気がして落ち着いた。のも束の間、今日の忌々しき予定を思い出してしまった。今日は安藤の日だ。お小遣いをくれる社長の中で最も潤っていて、最も気持ち悪いのが同じ人物というジレンマ。私の世代でこんなにも苦しんでいるのは私くらいだと思う。嗚呼、可哀想な私。
「安藤さん、ごめんなさい、メイク頑張ってたら遅れちゃって。」
「全然いいんだよー里穂ちゃん。それよりさ、僕のことは下の名前で呼んでっていつも言ってるじゃん。」安藤の気持ち悪さは顔だけじゃない。金持ちマウントは勿論、モテ自慢や人脈自慢、挙げ句の果てには不良自慢までしてくる。本人曰く、ヤクザの頭と親友らしい。中学生か。
「あれ、今日機嫌悪い?なんか嫌なことでもあった?」早速、顔を覗き込んできた。得意技だ。
「全然大丈夫ですよ。雄大さんやっぱり優しいですね。」精一杯の営業スマイルで返す。今日もたくさん練習してきた。そっかそっか、と安藤が前を向いたので一段落着いたかと油断したが、辛いことがあったらなんでも僕に言うんだよ、と頭を撫でてきたのでもう流石としか言いようが無い。間違いなく、ここ最近で一番辛いのが今だ。
「今日はどこ連れて行ってくれるんですかー?」期待を込めて、元気いっぱいに言ってやった。
「んー?秘密。」安藤はニヤニヤしていた。元からニヤニヤしているのに、さらにニヤニヤしていた。
どうやら駅に向かっているらしい。タクシーくらい使ってくれても良いのに。安藤はずっとニヤニヤしている。この人の口角はどこまで上がるんだろうか、と不思議に思っていると、その禍々しい顔は私の視界から消えた。彼は、電車の入り口で思いっきり転んだのだ。乗客たちは一斉に安藤を見た。イラついている様子で、舌打ちまで聞こえた。電車は出発時刻になっていて、乗客は安藤のせいで電車の出発が遅れるのが腹立たしいらしい。私にまで飛び火するんじゃないかと不安になり安藤を起こそうかとも思ったが、電車のドアに挟まれる安藤をどうしても見たいのでやめた。異常なほど冷静に、ホームと電車の境界線でもがく安藤を眺めていた。ドアがゆっくりと閉まり始め、ギュッと音を立てて安藤を挟んだ。安藤はゴム製らしい。顔を真っ赤にしながら魚のように動く様は、驚くほどシュールな光景だった。
「あれ?」何かがおかしい。もう一度開くかと思われたドアの間隔は狭まり続け、安藤の顔は徐々に青みを帯び始めている。固形物が砕けるような音が聞こえ出し、足元には血が流れ出す。そのままドアは閉まり続け、安藤を真っ二つに割って電車は出発した。上半身だけになった安藤はまだもがいている。数時間ぶりの異常な状況に混乱したものの、今度はすぐに正気を取り戻した。どうせまた夢だ。こんなことある訳がない。そう思うと、目の前であの嫌いな安藤が上半身だけでもぞもぞ動いているのが可笑しくてしょうがなくなり、私の頭には今までの鬱憤を晴らしたい欲求が渦巻いた。そこで、安藤の頭部に思いっきり蹴りを入れてやった。頭にローキックをお見舞いするというのはおそらく普通の人間にはそうそう無いだろうが、その爽快感は凄まじいものだった。ハイヒールの一発はさすがに食らったのか、安藤の表情は強張り、しばらくするとそれは鬼のような形相に変わった。彼が唸りながらジャケットの裏ポケットから取り出したのは、拳銃だった。彼は迷いなく発砲し、見事に私の腹に命中する。腹に重い痛みを感じ、まもなく意識が飛ぶことが分かった。自分が一番滑稽に思え、またもや変に冷静になった私は、最後に疑問がよぎった。ヤクザと友達なのは本当だったの?
朦朧とする景色の中で見えた乗客たちは全員、動じることなくただ、動じなくなった安藤を凝視し、静かに笑っていた。
起床。ウザい。ウザすぎる。なんでこの私がパパ活女子なんかに。それは所詮夢だろうと、許せるものではなかった。私が一番嫌いな類の人間だ。ブスが夢を見た末路だと思う。しかも、よりによって相手はうちの事務所のオーナー。有り得ない。
さて、こんなこと何分も考えていられるほど暇じゃない。早く可愛い顔に可愛いメイクしないと。メイクをするときは絶対に歌を歌う。その時だけは、一日で一番上機嫌でなくてはいけない。とはいっても現場でメイクさんにしてもらうので、軽くしていくだけ。毎回そうは思うものの、気分が乗りすぎてしまっていつも通りに仕上がってしまう。
褒められたいので、少し早めに家を出る。現場に着くとオーナーが待っていた。今朝の夢を思い出してしまい、少し吐き気がしたものの、いつも通り愛想良く挨拶を終えた。楽屋で待ってて、といつものニヤニヤ顔で言ってきた。どんなことを考えているんだろうか。
楽屋で差し入れの和菓子を頬張っていると、メイクさんが来た。
「今日も綺麗なお顔ですね。」この時間がたまらない。たくさん褒められながら、綺麗な自分が出来上がっていく。せっかくの良い時間を、朝の夢がよぎるせいで存分に味わえなかった。メイクが終わり、一人になった。なんとか気分を上げようと和菓子の箱に手を伸ばしたが、気づけば空になっていたので貰いに行く。これもいつものことだった。楽屋を出て、廊下を歩く。向こうから歩いてくる男は芸人で、知り合いだった。まだ距離があったのでこんにちはー、と声を張ってみたが、彼は返事をしなかった。何やら顔も強張っている。私は、彼がケーキのようなものを持っている事に気づいた。差し入れか何かだろう。落とさないようにする注意から、顔がこわばっていたのだ。彼との距離は近づき、すれ違う直前に会釈をしてきた。返事をしようとした瞬間、彼はそのケーキを、私の顔面に思い切り押し付けてきた。強烈な甘い香りが意識を襲う。戸惑いながらもクリームを拭うと、大勢のスタッフが奥から行進してくるのが見えた。見覚えのある顔ぶれの先頭に立つ男が持つ小さな安っぽい看板には、「ドッキリ大成功」と、でかでかと書いてあった。それを見て安心するのと同時に、怒りが湧いてくる。せっかくメイクしたのに。
「カットー!」感想を聞かれ、顔馴染みの芸人を罵るだけの撮影が終わって楽屋に戻ると、またしばらくしてメイクさんが来た。
「いやー大変でしたねー。」メイクさんと会話をしながら、本当の自分に戻っていく。
そんないつも通りの流れのはずだった。メイクを落とした自分の顔を鏡越しで確認した私は言葉を失った。ケーキが付いていた部分の皮膚は全てただれ、高かった鼻は崩れ落ちるように歪んで、触れればその箇所から血が吹き出し、激痛が走った。泣き叫ぶ私の声を聞きつけたのか、驚いた様子で楽屋に入ってきた芸人の男も、私の顔を見て呆然としていた。ただ一人、私のメイクを落としたそいつだけが、静かに笑っていた。意識が遠のいていく。
起床。
「看護師さんビジンー!」
「こら!やめなさい、雄大。」私は由紀恵の声で目を覚ました。見えるのは真っ白な天井だけだ。身動きは、取ろうとしても取れない。全身に包帯を巻かれているようだった。
「あの、先生。夫は起きるんでしょうか。」
「正直、なんとも言えません。奥さん。雄二さんは、戦争による負傷なんです。他のどの重傷よりも治療難易度が高いんです。左手の指は全て吹き飛び、腹部には穴が開き、顔だけが酷くただれています。敵国がどんな武器を使っているのか、想像もつきません。無責任なことを言って申し訳ないですが、雄二さんに託しましょう。」なんとか体を動かして由紀恵に気づかせたい。ベッドに沿うように配置されているサイドテーブルに足が触れた。その弾みか、テーブルから何かが落下する音がした。
「父ちゃん起きた!」息子が走って寄ってきた後、ゆっくりと涙ぐんだ由紀恵が視界に現れた。よかった、長かった。数分間私に抱きついた後、二人はベッドに縋りついた体勢のまま寝てしまったようだった。私も次第に瞼が重くなってきた。意識が薄れゆくなか最後に見えたのは、静かに笑う医師の顔だけだった。