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アメジスト

もうすぐ、君の誕生日だった。
きっと彼にバレない無難な物を贈るべきなんだろうけど、つい綺麗な宝石や香水に目が行ってしまう。
君が好きな、紫色。アメジストの指輪を探していた。少し小さめのものなら、きっとその指から外せなくなって、君が他の誰とどこで会っていようと、僕を感じていてもらえるんじゃないかと思ってしまっていた。

綺麗なガラス瓶に入った香水が、ショーケースに並んでいた。そういえば、君が好きな匂いを僕は知らない。銀座の街を歩くのは、高価なスーツや腕時計で着飾ったサラリーマン達だった。ボロボロのスニーカーでそこを歩く僕は、この街にも、君にも、似合わない。


「君が好きだ。」そう伝えると、宝石のように綺麗な君の瞳が揺れていた。とても物憂げな表情だった。怒っているのでも、悲しんでいるのでもない。赤でも青でもない、紫色。「ごめんね、いくら私のために尽くしてくれても、私から、あなたにあげられるものなんて、ひとつもないの。ごめんね。」どうして、謝るんだろう。どうして、何か諦めたように笑うんだろう。どうして、そんな君を本気にさせてみたいと思ってしまったんだろう。

街角の花屋に、小さな紫色の紫陽花の花束があった。売れ残りなのか、店の隅に追いやられ、陽の光も十分に浴びられずくたびれているようだった。
君が好きな色、というのもあったが、店先でたくさんの人目につく色とりどりの花束と比べて、なんだか、自分のようで、思わず手に取ってしまった。

東京の夕立は、やけに冷たかった。子供の頃、傘もささず浴びたあの雨よりも数段冷たくなったのは、僕自身なのかもしれない。深い意味もなく、ただ雨宿りとして立ち寄ったのはジュエリーショップだった。「誰でも良い」なんて言う君の横顔を思い出す。店内にいたのは、幸せそうに薬指の太さを測り合う身なりの良い男女。ひとかけらで数十万円とする宝石。整髪材で前髪と笑顔を固めた女性店員。全面ガラス張りのそこは、正しい愛が泳ぐ水槽のようだった。その居心地は酷く悪く、僕のような人間が気軽に立ち寄って良い場所では無いことくらいはすぐにわかった。君の薬指を飾るのはどの宝石か、そんな妄想はいくらでもできるのに、そうして着飾った君の隣に立つのが自分だとは、冗談でも思えなかった。

それでも、せっかく立ち寄ったのだからと、紫色を追いかける。色とりどりの宝石を無視して奥へ進むと、ショーウィンドウの隅にそれはあった。それを眺めていると、宝石のような笑顔をたたえた店員がそばへ寄ってきて、アメジストに込められた意味や、魔よけの効果がどうとか、僕の財布に向かって語りかけていた。それをBGMにしながら、紫色と見つめあって、永遠とも、しかし数分ともとれる時間が流れて、ようやくわかった。君は誰よりも綺麗な人だから、誰よりも正しい愛を手に入れるべきだ。だから、こんな宝石は、僕じゃない正しい誰かから貰うべきだ。こんな花束は、僕じゃない優しい誰かから貰うべきだ。

不思議と悲しくなかった。本当に心の底から君が好きだった。だから、君のために、君から離れることくらい、僕にとっては簡単な事だ。だけど、だけどね、ひとつだけ、忘れないでいてほしい。きっと君の幸せを形作るのは、素敵な他の誰かから、他の素敵な花束と指輪を受け取って、他の素敵な誰かと過ごす何気ない日々の移ろいだ。だけど、だけどね。僕は、宝石がなくたって、お金が無くたって、誰も祝福してくれなくたって、誰にも言えない恋だって、ただ君が笑ってくれるだけで、この世の誰よりも、幸せだったよ。

さようなら。

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