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昔購読した、小野ほりでいさんの「平気で生きるということ」をちょこちょこ読んでいる。
精神が...落ち着く!
理性的な文章で、不必要な攻撃的な表現がないので落ち着いて読める。
本当に苦手なのは、本当に嫌いなのは、なんだろう
まず自分ひとりの幸せを求めようと言う気のないこと。自己犠牲とか、人のために自分の選択をすること。みんながそうしだしたら、一体なんのために生きているのか分からなく複雑になる。
自分が望んでいないのに、やらされていること、時間。帰省や親族との食事。会いたくない人との食事。自分の中の何割かは望んでいるけど、何割かは望んでいなかったり。1時間食事を同席することはできるけど、それ以上や泊まりは無理だったり。
興味の持てない人と一緒にいること。質問したいこともない人と義理でいっしょにいること。肌感で近くにいたくない人と一緒にいること。基本一人でいたい。
理屈で、ある人の過去や人生をまとめて、発言の経緯を想像して、自分の受け方も合わせて見て、こういうことが起きた、こういう変化ができるというようなことも、能力としてはできるが、今やりたいという気持ちがわかない。プライベートで、しかも全員に対してなんて、やっていたら体力が持たない。
このまま肌感で生きて、時間が経ってある時ふっとわかったり、ふっとまた何かしたくなったら、その時はその時でいい。
今は理性を使うよりも動物的感覚で生きたほうがいい。動物なら一度傷つけてきた相手は仕返し/避けるし、危険だと感じる場所には行かない。
息がしづらいとか、不安を感じるとか、泣いてしまうとか、自分を傷つけたくなるとか、ではない場所にいなければ。動物として当たり前に。
私の望みは夫と子どもとのこの小さな世界での平穏な、ずっと続く幸せ。今のままの暮し。
ある人の願いは、孫の顔を親に見せてあげたいとか、親を旅行に連れて行ってあげたいとか、親に楽をさせてあげたいとかかもしれない。私にもその願いはあるけれども、56位くらいの願い事だ。私はすべての願いは選ばない。豆皿の器しか持っていないからである。
私ができることや気を配れる範囲はそれほど広く無い。小さい豆皿みたいな器の大きさ、キャパシティである。
たまに器の広い人に会うこともある。尊敬するし、憧れもするけれど、私にはできない。私の皿は豆皿だからだ。
親族から連絡が来たら、私は胸が詰まって喉が締まって夜眠れなくなり、悪夢も見るし泣きながら起きるようになり、体が硬直して、呼吸が浅くなる。呼吸が浅くなるようなことは、私の暮らしから、排除したい。私の願いは、単純にこれである。
卵アレルギーだから卵を食べたくない。チョコレートが好きだからチョコレートを食べる。チョコレートを永続的に食べるために、たまにチョコレートを食べなかったり野菜も食べたりする。
私と夫と子ども以外の人は同率で大切だ。大切さでは親せきであろうがまだ知り合ってもいなかろうが、変わりはない。その中でも私の呼吸を浅くする人は、積極的に関わることはできない。
私の母は被害者の態度をとることで私の罪悪感を煽って、私から優しさや言葉や注意や親密さを引き出そうとする。それを私達は続けるから、母は私をナメているまま変化しない。
私は母に幸せでいてほしい。
私が思う、母の幸せがある。母を方向づけようという気持ちがあって、しかし24年母は母のままなので、疲れた。
母の幸せは母が決める。母の選択は母がする。
私の幸せや選択は私が決める。私は私の幸せを母の幸せより優先する。
たったこれだけのことを思えるのに、長い時間がかかってしまった。
誰かに説明も納得させる必要も無い。
赤ちゃんはかわいい。私の子宮の中で動く。動きたいという欲が寝返りハイハイ起立につながる。赤子の世界を広げ色んな物を見る目になる。鬱になると動けなくなる。赤ちゃんが動いていてうれしい。世界を探索してほしい。私が安全基地になる。
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