作品を見ることとビュッフェに行くことは似ている

1.作品は血となり、肉となり

僕は子供の頃から映画、ドラマ、漫画と様々な娯楽作品に触れて生きてきた。
色んな作品の主張、描きたかったもの、キャラクターの生き様は少しずつ僕の中に取り込まれて、血となり肉となっていると考えている。
でも、見てきた作品の全ての要素が自分を構成しているのではなく、作品の中から自分に必要だと思った部分をチョイスして取り入れていく。この作業は人それぞれで、一つの作品だけを取り入れている人もいれば、人に優しくしようという部分を選んでいる人、怒りの発散方法、自分を貫く方法なんかを取り入れている人もいると思う。
この選択は作品に触れた人それぞれに任されている部分。また、受け取り方だって人それぞれである。

2.サバンナのドキュメンタリーでさえ受け取り方は様々

僕はドキュメンタリーも人の手による編集が入っている以上、それは作られた作品であると考える。
例えばライオンの子育てのドキュメンタリーを見ている二人の人間がいる。一人はライオンの子供のために狩りをする姿に感動し、もう一人は獲物となる草食動物の命の火が消えるところに感銘を受けるとする。
前者は電車で一緒になった親子に優しくなるかもしれないし、後者は小動物の命を奪うかもしれない。
では、ここにドキュメンタリーの作り手の責任は存在するのか。あなたは後者の行動について、「狩りを描くのはよいが、動物の生き絶える様を放送したから影響された人がいる」と抗議するだろうか。

3.軽視される受け手の責任
凶悪な事件が起きる度に、こんな漫画を読んでいただの、こんなゲームをしていただのという批判が現れ、次は規制しろという声が上がる。
まるで犯罪を犯した人間の罪の半分は作り手にあると言わんばかりに。

人種差別、性差別はいけない。
人種ではなく個人が尊重されなければいけない。
性別ではなく個人が尊重されなければいけない。

これは正しい。ではなぜ、作品に影響を受けた個人の責任は尊重せず、作品を批判することに思考回路が直結してしまうのだろうか。

4.ビュッフェで糖尿病になった人がいたら、あなたはビュッフェを批判するか

ビュッフェに行ったことがある人ならわかると思うが、ビュッフェにはあらゆる栄養素が揃っている。炭水化物、タンパク質、脂質、ビタミン、糖質。
その中から何をチョイスするかは個人の自由。
バランス良く摂取して身体を整える人もいる。炭水化物とタンパク質を摂取して筋肥大させる人もいる。
デザートばかり食べて成人病になる人もいるだろう。

では、あなたはビュッフェでデザートばかり食べて成人病になる人がいるから、ビュッフェからデザートを消せと抗議するか。
ビュッフェでの食べ物選びは個人の感性であり、作品から何を吸収するかも個人に委ねられている。

作り手も、ビュッフェの支配人も、そこまで責任を背負う必要はないし、規制される筋合いもない。

個人を尊重するということは、個人の責任も尊重すること。

自分達は個人として名前で呼ばれたがるのに、
一方で「影響される人」という名前が特定できない人を仮定して個人の問題にしないのは違うだろう。

全ての問題は個人に帰結する。表現の規制なんて大雑把な手法じゃ、誰も納得しない。

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