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年収の壁 怒りのウンコ噴射ドローン

 「年収の壁」と呼ばれるパート・アルバイト労働者向けの非課税枠――たとえば配偶者控除や社会保険の適用基準など――は、長きにわたって国民の大きな関心事だった。とりわけ昨今の物価高や生活費の上昇で、年収の壁をわずかに超えたために手取りが逆に減ってしまうという“逆転現象”に苛立つ声が高まっていた。

 そんな中、政府は「非課税枠を上げるべきだ」という与野党議員や経済界の要求を受けつつも、なかなか本気では動かない様子を見せていた。増税せずに枠を上げれば税収が減る可能性があるうえ、高齢化に伴う社会保障費の増大が国の財政を圧迫しているため、財務省はしぶとく抵抗している――そんな構図が透けて見えていた。

 最初の事件が起きたのは、夏の終わりのある日。霞ヶ関の合同庁舎にて、非課税枠の見直しに関する内閣・財務省の合同会議が行われていたまさにその時だった。突如、窓の外に小さなドローンが姿を現し、会議室の大きなガラスをめがけて何かを噴射し始めたのだ。最初は「水か?」という程度だったが、すぐに立ち込める激しい悪臭と、ガラスに茶色く付着する塊を見て、職員たちは悲鳴を上げる。明らかに糞尿――それもおそらく人間のものではないかという情報が飛び交った。

 あまりに突然の出来事に会議室内は混乱し、一時休憩を余儀なくされた。警備隊や清掃スタッフが急いで出動し、噴射物を洗い落とそうとするも、その間ずっとドローンは庁舎外壁や窓を狙って糞尿らしき液体を撒き散らし続けた。生々しい汚物の色と臭いに、通りがかりの市民たちも嘔吐感を抑えられず、SNSには「あまりにひどい」「まさにクソみたいな政治へのクソ攻撃だ」などという書き込みが相次ぐ。

 それからというもの、非課税枠の見直し議論が進められるたびに、“ウンコ噴射ドローン”は執拗に政府関係の庁舎周辺を狙うようになった。会議の日程や議題が公表されると必ずと言っていいほどやってくるため、まるで政府の動きを正確に把握しているかのようだ、と噂される。 

 最初はいたずらかテロ行為かと単純に疑われたが、こうも何度も出現されると警視庁も対処に苦慮し、ドローンを捕獲・撃墜しようと網や電波妨害装置を配備しても、ステルス機能なのか回避性能なのか、まったく成果が得られない。遠隔操作の発信源を探ろうにも、妨害電波をすり抜けているらしく、手掛かりを見つけられずにいた。

 事件が繰り返されるにつれ、国民の間でも「なぜ非課税枠の見直し議論が進まないのか」「たかがドローンひとつ対処できないのか」と政府に対する不信感が高まっていく。と同時に、ウンコ噴射ドローンを直接的に支持する声は少ないものの、「あれだけ世論が望む政策をしぶるから、ああいう過激な反発が出る」「クソが政治家に直撃してもおかしくない」といった、どこかやけっぱちな共感を示す投稿もSNSでは目立ち始めた。

 そして迎えた決定的な一日。非課税枠を「大幅に上げるかどうか」を最終的に詰めるための重要な会議が行われることになった。政府内では、財務省が「財源不足」を主張し猛抵抗しており、与党内でも「年収の壁を解消しないと国民の不満が爆発する」という派閥と「これ以上は国庫が持たない」という派閥がせめぎ合う状況。マスコミや経済界からも様々な思惑が飛び交い、会議は激論必至と見られていた。

 案の定、会議が始まるとほぼ同時に、ウンコ噴射ドローンは姿を現す。しかも、今回は複数台が連携するように、庁舎正面や裏口だけでなく、上階のベランダや広報用看板までを重点的に襲撃。バチンバチンと液体がガラスに当たり、ブツブツとこびりつく茶褐色の物体が見る見るうちに広がっていく。自動ドア付近のセンサーに付着したためか、ドアが勝手に開閉を繰り返すなど、庁舎は完全に混乱状態だ。

 会議参加者の議員や官僚たちは、先ほどまでの「税収が……財源が……」という理屈を並べ立てる猶予もないほど悪臭に耐えかね、何度も休憩を余儀なくされる。しかし、それでも空から降り注ぐ糞便攻撃は止まらない。まるで「早く結論を出せ」とばかりに繰り返される惨状に、しびれを切らした形で一部の議員が声を上げた。

 「こんな状況が続けば、いったいどれほどの費用と時間が無駄になると思うんだ? 現に行政コストが膨らむ一方だ。国民の多くが年収の壁を問題視しているのは明らかなんだから、ここは腹を括るしかないだろう!」

 保守的だった議員たちも、ウンコ臭が充満する会議室を前に、これ以上の先延ばしは得策ではないと判断せざるを得なかった。政権の支持率はここ数ヶ月で急落しており、このまま非課税枠を据え置けば、次の選挙が危ういと見込まれたからだ。

 「やむを得まい。枠を引き上げる、しかも大幅に」

 とある幹部が重たい口を開いた瞬間、何かが変わった。立ち込めていた糞尿の臭いは相変わらずだが、建物の外から伝わってきていた羽音が、ふっと途切れたように感じられたのだ。記者や職員が窓をのぞくと、あれほど執拗に飛び回っていたウンコ噴射ドローンの姿が消えている。

 急遽、議事録を確認しながら「非課税枠を上昇させる」方向で閣議決定を行う手筈が整えられる。清掃班もホッと胸を撫で下ろし、外へ出て状況を確認するが、ドローンは何処にも見当たらなかった。あちこちに散乱した汚物の跡は、あまりに生々しく目に焼き付くものの、その犯人たる機体は煙のように消え失せてしまった。

 そして不思議なことに、その後、正式に「非課税枠の大幅上昇」が閣議決定され、次期通常国会で関連法案が提出・可決されるまで、一度もウンコ噴射ドローンは現れなかった。あれだけ政府を苦しめた過激な攻撃は、まるで初めから存在しなかったかのように消え去ったのだ。

 世論は「やっぱり、年収の壁を上げるのを渋っていた政府への怒りがドローンを呼んだのか」「あれは何者だったのか」と噂を立てる。警視庁は現在も捜査を続けているものの、一切の証拠は見つからない。誰も下手人を知らず、ドローン本体の部品さえ回収できていないのだから当然だろう。

 庁舎の窓にはいまだにわずかな染みが残っている場所もあったが、それを見上げる職員たちは複雑そうに言う。「結果的に、あのドローンの襲撃で政府は動きを早めざるを得なくなったんじゃないだろうか」と。もちろん暴力的な手段は決して容認されるものではないが、「国民の望む政策を渋りすぎた結果かもしれない」との反省がそこには見え隠れしていた。

 こうして、“糞尿による無言の圧力”を前に、政府はようやく年収の壁を緩和するための非課税枠上昇を決断する。賛否はあれど、長年問題となっていたパート主婦や兼業主婦層の働き方の歪みが、一部是正される道筋ができたのは事実だ。国民の間では「手遅れにならないうちに、他の制度改革も早く進めてほしい」という声が強まる一方、今後また政府が国民の声をないがしろにしたとき、空から舞い戻るかもしれない“ドローン”の存在を、誰もが頭の片隅で意識するようになった。

 夏の青空が広がる霞ヶ関のビル街。かつてウンコの雨を浴びたガラス壁が、強い日差しを反射して眩しく光っている。あの日以来、あの奇妙な機体を見かける者はいない。それでも、いつまた非課税枠が後退させられたり、他の国民に不利な法案がこっそり進められたりすれば、あのドローンは風のように現れるのではないか――そんな得体の知れない不安と共に、ひとまずこの国の年収の壁は少しだけ高くなったのだった。

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