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オッオッオッ、アヘー、イグッ
部屋の隅に置かれた円い水槽を眺めていると、まるでそこから暗い水の底へ吸い込まれそうになる。水槽の中には何もいない。植物さえも沈んでいない。ただ、濁った水が青黒い影を漂わせているだけだ。彼女は十八歳の女子大生。僕は気づけばいつも、その小さなアパートの一室で、帰り支度も曖昧に腰を下ろしている。床に敷かれたカーペットの色は褪せた灰色で、染みのようなものがいくつも滲んでいる。引きこもった部屋の匂いは湿り気を含み、外の光はほとんど入らない。
「なんか、嫌な感じでしょ」
彼女は、固いまくらを抱えながら言う。雑誌が散乱する狭い床には、もう一人座る余地がかろうじてあるだけだ。僕は水槽を見つめたまま、小さくうなずく。床にうずくまるように座る彼女の指先は、擦り切れたカーペットの毛をくるくると巻き込んでは、プツリと千切ることを繰り返している。その無意識な仕草に、どこか不安定なものを感じる。
彼女の視線は僕の足元をかすめ、そのままテーブルの上の冷えたコーヒーへ滑っていく。少し前まで温かかったはずの液体は、どろりと濁って、まるであの水槽の水面と通じているみたいだ。窓の外では薄い雨が降り続き、けっして大きな音を立てるわけではないが、じわじわと壁を伝ってどこかを濡らしている。
「最近、眠れなくてさ。しかも、この水槽から変な匂いがするような気がして、捨てたいんだけど……」
そう言って、彼女はわずかに肩を震わせる。笑っているのか、怯えているのか分からない。僕は何か言おうと口を開くが、言葉が出てこない。まるで湿った空気がそのまま喉にまとわりついているようだ。
少し時間が経ち、僕は畳んだままの上着を脇に置いて、彼女のベッドへ腰かける。毛布がしっとりしていて、置き忘れたかのような服や物の匂いが雑多に混じり合っている。夕方なのか夜なのかもはっきりしない曖昧な光の中で、彼女はふと立ち上がり、僕のそばへ寄ってくる。
「なんか、しようか」
彼女が小さくつぶやいたのは、いつもと同じ誘いの合図のようにも聞こえるけれど、その声の裏には明らかに不安ややるせなさが滲んでいる。僕は答えを出さないまま、肩に手を伸ばす。肌触りは湿った布のようで、彼女の呼吸が少しだけ高まるのを感じる。
しばらくして、僕らはいつものように体を重ねる。その行為は決して激しいものではなく、むしろ淀んだ水の底に沈んでいくような鈍重さを伴っていた。彼女が喉を詰まらせながら「オッ……オッ……」と声を上げるたびに、僕はまるで光のない深い水中で息を求める魚のような息苦しさに囚われる。アヘー、とか、イグッ、とか、どこかで覚えたような断片的な声を出されるたびに、僕は現実感を失いかける。興奮とまではいかず、どこか生理的な不思議さだけが残る。
「……全然、楽しくないよね」
彼女は僕の耳元でぼそりと言う。僕は答えられず、ただ動きを止める。実のところ、僕も何か大きな満足感を得ているわけではない。部屋の片隅で仄暗い水の底に沈むような感覚がある。呼吸や肌の熱は感じるのに、心が波打たない。
そんな状態でも、行為そのものは続いて、微妙なタイミングで二人ともたどり着くところまで行ってしまう。彼女がぐったりとベッドに沈んだころ、僕は汗ばんだシャツを脱ぎかけたまま、外を見やる。雨はあいかわらず降り続いているらしい。
「あの水槽、見てると自分が沈んでいくみたい。捨てたいけど、なんだかできなくって……」
耳を澄ますと、彼女がまた同じ話をしている。彼女なりに、何かを断ち切れずにいるのかもしれない。僕は寝そべった彼女の髪をそっと撫でながら、じっと水槽を見つめる。暗い水がずんと底を隠している。
少し時間が経ったあと、僕たちは冷たいままのコーヒーを半ば残し、ベッドの上に横になっている。体はどこかだるく、満ち足りないまま緩慢に絡み合ったまま。彼女の瞳は、水槽の底と同じように濁って見える。そこに悲しみや寂しさが詰まっているのかと問いたいけれど、聞けずにいる。
「退屈だな」
やがて彼女は唇をほんの少し開き、うつぶせのままベッドを握りしめる。部屋の薄暗さは夜を通り越して、朝の気配さえ感じられなくなっている。水槽から気のせいか、ぬるい水音が聞こえるような気がして、ぞわりと背筋が震える。
僕らはきっとお互いに依存しているわけでも、夢中になっているわけでもない。ただ、どこへ行くでもなく、この狭い部屋の底に沈み込み、行為と呼ぶには奇妙な触れ合いを繰り返している。そしてそれは、互いの心を震わせるほどの熱もなければ、かといって逃げ出すほどの不快感でもない。この濁った水の底に降りていくような感触が、ある種の落ち着きとして僕たちをここに留めているのかもしれない。
彼女はふいに僕の手を引き寄せ、自分の胸のあたりにそっと置かせる。呼吸が浅くて、さっきまでの興奮の残骸がまだ僅かに熱を持っているのが分かる。僕はそれを感じながらも、どこか他人事のような思いを拭いきれない。外の雨音が少しだけ強まって、部屋全体を湿らせていく。
やがて僕は静かに体を起こす。彼女は抵抗するでもなく、淡々と僕の姿を見送るだけだ。服を身につける僕を眺めながら、その目はまた水槽のほうへ引き寄せられていくように動く。思い切ってあれを処分してしまえば、何かが変わるかもしれない……そんな気がしてならないが、彼女がそれを実行する光景が全く想像できない。まるであの水槽も、僕たち二人の“退屈だけど手放せない”何かを映しているようだった。
「また……来るよね」
彼女の声が宙を漂う。僕は苦笑するように応じる。「うん、多分……そのうち」
家を出るとき、ドアを閉める直前に、部屋の奥で水がきしむような音がした気がして振り返った。けれど、すでに彼女はベッドに背を向けて横たわっていて、その身体の線はかすかに震えていた。単なる疲労か、寂しさか、あるいは無関心なのか、僕には分からない。深い水底に沈むように、彼女の存在は闇へと溶けていく。その光景をひどく生々しく感じながら、僕は静かにドアを閉め、薄暗い廊下に出た。
外はまだ雨が降っている。どこか排水溝のような匂いを含んだ風が吹き抜けて、背中を冷やす。彼女と過ごした時間を思い返しても、そこには熱狂も甘美さもほとんどなかった。ただ、仄暗い水の底に沈むような停滞感が身にまとわりついて離れない。それでも、僕はきっとまたあの部屋を訪れるだろう。退屈と倦怠を抱えたままでも、あの水槽の透明度に映るように、得体の知れない何かに惹かれているから。
仄暗い雨の道を一人歩きながら、部屋に残った彼女の姿を思い浮かべる。あの水槽と同じように、彼女も動きを止めているのだろうか? それとも、もう一度ぼんやりと身体を起こして、処分できない水槽を再び見つめているのだろうか。心のどこかで、彼女の声が聞こえる。「退屈だね」――おそらく、それは僕自身に向けられた言葉でもある。遠ざかる雨音の奥で、ぼんやりと思いを巡らせながら、僕は仄暗い想念の水底を漂い続けている。