見出し画像

金貨と記号

僕は無人島の海岸に、ぽつりと腰をおろしていた。時刻は夕暮れに差し掛かる直前で、潮の匂いに混じって、かすかな静寂が空気を満たしている。そんななか、僕は右手に金貨を一枚握りしめていた。海岸には誰もいないし、ここでこの金貨がどんな効力を持つか分からない。そもそも、無人島に貨幣経済など存在しない。もし大波が来て、足もとに転がったこの金貨をさらっていったとしても、それを惜しむのは結局、自分の頭の中だけだろう。

それまでは「貴重なもの」「価値のあるもの」として扱われてきたはずの金貨が、この島に来るとき、急にそうした価値のベールを剥がされたように感じる。たとえば、これを誰かに差し出してパンを買うわけでもないし、家賃を払うわけでもない。そもそもパンを売ってくれる人も家を貸してくれる人も、この島には存在しない。ここでは金貨という記号が、現実的な意味を何ひとつも持っていない。ただの重い円盤に過ぎないという事実が、やけに生々しく迫ってくる。

沈みかけた日差しが弱々しく金貨の表面を照らす。表面の文字や紋章が、ただの彫り物としてしか見えない。そこには誰かが時間をかけて付加した“象徴”や“約束事”があるのだろう。けれど、この島でそれを理解したり、受け取ったりする共同体が存在しないかぎり、刻印は何の意味も持たない。
価値というのは、本来こんな風に曖昧なバランスで立っている。僕らが住む街では、誰もが見慣れた通貨のデザインや金額に一定の意味を読み込む。あるいは、ブランド品のロゴを見てひれ伏すかのように欲しがったり、逆に安物だと分かれば軽んじたりする。そういう「暗黙の合意」が強固に機能しているからこそ、僕らは金貨を金貨として扱い、紙幣を紙幣として崇め、ロゴをロゴとして欲しがる。
けれど、ここには僕しかいない。切り立った断崖の岩肌と波の音、白い砂の上を這うヤドカリくらいしか姿がない。彼らにとって金貨は金貨ではなく、ただの円盤かあるいは少し輝くガラクタだろう。そう思うと、「なぜ僕はこの重い円盤を大事そうに握りしめていたのか?」という疑問がわいてくる。あるいは都会の喧騒にいたころ、どうしてこれをこそ貴重で尊いと信じていたのか、と。まるで鏡面のような金属が、僕の習慣的な思い込みを映し出しているようでもある。

ここで僕が金貨を放り捨てても、大した喪失感はないはずだ。砂の上に転がったそれを拾ってくれる人は、たぶん誰もいない。ヤドカリが興味本位で近づくかもしれないが、すぐに使えなさそうだと判断して逃げ出すだろう。無人島での金貨は、そんな程度の存在だ。
でも、一方で、だからこそこの金貨は「純粋な記号」に近づいているのかもしれない。誰かが「それは財産だ」「それは優雅さの証だ」と信じる仕組みが消えたあとでも、この円盤がもつ硬さや重量、光の反射といった物理的な手触り自体は確かなものだ。僕らが貼りつけてきた記号や価値のラベルがはぎ取られたとき、ただそこに“物”として残っている――それはそれで一種の現実だ。無価値なのではなく、むしろ価値づけ以前の状態、と言うべきだろう。

深く息を吸い、あたりを見回す。波打ち際には貝殻がちらほら転がっていて、よく見るとどれも微妙に色や形が違う。人がそれらを“貨幣”と決めて流通させた歴史も、どこかの文化にはあったはずだ。つまり、何かを記号化し、意味づけし、“尊い”とみなすのは、たいてい共同体の暗黙の合意がそこにあるからこそ可能になる。何かの合図として働く、あるいは何かと交換できる、そういった取決めがなければ、ただの意匠や素材にすぎない。

結局、この無人島で僕がやれることは、金貨を砂浜に埋めようが石で砕こうが自由だ。誰もそれに異を唱えない。かといって、それが僕の腹を満たすわけでもなければ、水や住処を確保してくれるわけでもない。むしろ、抱えているだけ重くて煩わしいから、正直言って手放したい気すらある。
でも、それでいて“都市の記憶”を象徴するようでもあるこの金貨を、投げ捨ててしまうのもためらわれる。あるいは、将来的に救助のチャンスがあって、帰還したときに活かせるかもしれない。そう考えると、完全に捨て去ってしまうのも躊躇われる。まるで、現実世界からの名残を、僕が信仰しているようにも感じるのだ。

すべてが記号だというなら、その「すべて」のなかには僕ら自身も含まれる。僕らが自らの存在や名前、肩書きや役割に付与している意味も、社会のなかで共有されている記号のひとつに過ぎない。しかし、無人島という極端な環境に立たされると、そうした記号の裏打ちが崩壊し、「自分」というものの稜線がぼやけ出す。
そういうとき、金貨は現実世界のグラウンドルールを思い出させる小道具かもしれない。つまり、「あの場所では、この小さな円盤一つでいろいろなことが可能だった」という幻影を、ここにいても呼び起こしてくれる存在。だが、その効力がまったく機能しないと気づくと、その幻影は指の間をすり抜けていく。僕は自分が持っていると思っていたものを、本当に持っていないのかもしれない、と。

海から吹きつける潮風が砂を巻き上げ、金貨の表面をかすかに曇らせた。これがもし都市だったら、僕は磨いてさらに光らせるかもしれない。でも、ここでは、その磨く行為の動機さえ怪しい。
もはや金貨とは呼べないほど意味をはく奪された円盤が、夕陽に照らされて無機質な光を放っている。その姿はどこか幻想的でありながら、とても冷たい。世界に散らばる無数のモノたちの価値は、こんなふうに社会という輪郭の外へ出た瞬間、途端に曖昧になってしまう。しかも、それは単に「価値がゼロになる」わけではなく、別の可能性を孕んだ「素材」に立ち戻るとも言えるかもしれない。

そう考えると、僕らがいる世界はほとんどが「合意のかたち」によってできているといってもいい。そしてその合意を失ったら、すべてのモノが金貨のように“意味なき記号”となって宙ぶらりんになる。あるいは新しい合意を得るまでの仮の姿、漂流の状態。僕が手のひらで握るこの円盤をどう扱うかは、僕次第なのだろう。
無人島に腰を下ろしながら、僕はやや擦り切れた思考を抱えたまま、金貨をひらひらと眺め続ける。砂粒が混じった海風が、円盤の縁をざらざらと削っていく。そこには社会的合意の剥がれかけた記号が、ただの金属片へと変貌する過程がある。僕がいずれ都市へ戻るのかどうかも分からないが、もし戻ったなら、この円盤はまた“金貨”としての物語を取り戻すだろう。世界はそれほどあやふやで、同時に柔軟でもある。
遠くで波の音が途切れ、夕陽がほとんど水平線に沈みかけていた。眼下にある重い円盤の冷たい手触りは、まるで僕ら人間がつくり上げた“約束の残骸”にも似ていたが、同時に新しい約束の出発点かもしれない――そんなことを考えながら、僕はまた、ゆっくりと金貨を指先で回転させていた。

いいなと思ったら応援しよう!