
「夜の断片を拾いあつめる」
「夜の断片を拾いあつめる」
扇風機の首振りが一定のリズムでまわる部屋。そのかすかな音に耳をすませながら、ぼくは眠りに落ちる寸前の境界を漂っていた。夜の静寂は、まるで薄手のベールのように意識のあちこちにまとわりつき、現実と夢をゆるやかに混ぜ合わせる。
こういうとき、決まって彼女の姿が脳裏に浮かぶ。正確にいえば「姿」というよりも、その“気配”だ。ぼんやりとしたシルエットのまま、何かを言いかけては消えてしまう。その痕跡だけが、胸の奥で細く長い線香の煙のように漂い続ける。
朝になり、扇風機の羽根を止めると、部屋には一瞬だけ深い沈黙が落ちる。彼女の面影は昨夜のうちにどこかへ消えたらしく、かわりに軽い頭痛と乾いた喉が残っていた。グラス一杯の水を飲んで、窓際に腰かけると、夏の日射しが容赦なく部屋を照らし始める。こんな朝には、何かを強引に始める元気もなく、かといって何もしないままでいるのも落ち着かない。少し経つと、いつものようにラジオをつけ、古いジャズ番組を流しながらソファに沈み込んだ。
昼下がりには散歩がてら古本屋に行くのが習慣だ。道すがら、アスファルトの照り返しにくらくらしつつ、低いブロック塀の影を選んで歩く。ふと視線を上げると、電線に一羽のカラスがとまっていて、奇妙に首をかしげてこちらを眺めている。なんとなく気になって立ち止まると、カラスは小さく声を上げる。“うん、わかってるよ”とでも言いたげに。そのときぼくの胸に不意に湧いたのは、説明のつかない疎外感だった。まるで「どうして君はそんなに疲れているの?」と見透かされているような気がしたからだ。
古本屋で手に取った文庫本は、つややかなカバーがついた外国の小説。パラパラとページをめくると、作者の名はまったく聞いたことがない。なのに、本の隙間から漂う紙の匂いはどこか懐かしい。店主は暇そうに新聞を読んでいたが、ぼくがその本を買うとき、小声で「いい趣味をしてますね」とつぶやいた。ぼくは曖昧に笑って店を出る。
夜になって、ベランダに出ると湿った風が頬をかすめる。街のあちこちに散っている明かりたちは、まるで空想のネオン粒子が地上に落ちてきたようだ。気まぐれに目を閉じると、昨夜の彼女の面影がまたそこにいる。優しいわけでも、冷たいわけでもない、不思議な温度をまとっている。その姿を追おうとすると、するりと遠ざかってしまう。まるで確信めいたものを与えることなく、ただ人を揺さぶるためだけに出現する亡霊のように。
「ここにいたいの? それとも、消えてしまいたいの?」
口の中でそうつぶやいてみても、当然ながら応えはない。都市の喧騒がいつのまにか遠ざかり、代わりにぼくの耳に届いたのは、どこか見えない場所で上がったらしい歓声と、それに続くほんの一瞬の沈黙だけだった。まばたきを一度、二度。それ以上は数えきれない。夜風は相変わらず生ぬるい。
再び部屋に戻って、何気なくラジオをつけると、古いバラードが流れていた。ボーカルの歌声は低く震え、まるで救いを求めるような切実さを帯びている。その曲を聴きながら、ベッドに転がる。まどろみの端で、彼女の面影がまた近づき、ぼくの耳元で何かをささやく気がした――「できるなら、やめればいいのに」と。
それが何を指しているのかはわからない。けれど、やめるにはあまりにも多くの思い出が絡みついて、ぼくを逃がそうとしないのだ。じっと目を閉じてやりすごしていると、いつのまにか小さな眠気の渦がぼくを包み込み、時間の境目があやふやになる。
薄れゆく意識の奥で、さっきまでカラスのとまっていた電線がきらりと光り、その向こうに誰かのシルエットが見えた気がする。心臓が一瞬、トンと跳ね、全身に小さな波紋が広がる。夢に溺れかけるぼくを、彼女が片手で引き上げようとするように――そんな錯覚を覚えながら、ぼくはすべてを放り出すように眠りに落ちていった。