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マリーゴールド



 あの夏のことを思い出すとき、いつも風が吹いている気がする。なかば記憶の産物であり、なかば幻想のような風だ。実際には、あの時期に特別強い風が吹いていたわけではないのだろう。ただ、僕の心を揺さぶるには十分すぎるほどの風が、その場面の背景にまるで映画のスクリーンのように広がっていた。
 その中心には、いつも早苗が立っている。麦わら帽子をかぶり、少し風にあおられた髪が頬に張りつくようにして、彼女はそこにいる。まるで何か特別な物語の合図でも待っているかのように。それが僕の、最初の鮮明な記憶だった。

 ぼくが彼女と初めて言葉を交わしたのは、大学近くの花壇の前だった。色とりどりの花がわりときれいに咲いていて、そこだけ妙に時間がゆったりと流れていた。とりわけ、目をひくオレンジ色の花がいくつも群れている。少し気恥ずかしいけれど、名前が思い出せなかった。
 すると彼女がぼそりと「マリーゴールドっていうんです」と教えてくれた。僕がその名前を正しく思い出せないように見えたんだろう。彼女はまるで白昼夢のなかの猫みたいに、静かに一度瞬きをすると、小さく笑った。
「花って不思議ですよね。ちゃんと理由があってそこに咲いているのに、気づかれないまま終わることもある。でも、それでも咲き続ける」
 そんな言葉を聞いて、僕はどう返事したらいいのかわからなかった。だから適当に相づちを打って、花と彼女を交互に見比べた。彼女の横顔は、薄い光をまとっていたように思う。いや、たぶんそう見えただけだ。夏のせいかもしれない。

 風の強い日が続いていた。ある日の午後、彼女は「少し散歩しませんか」と言った。僕は講義を終えて、膝の上でぼんやりとオレンジ色の表紙の雑誌をめくっていたところだった。あまり乗り気ではなかったけれど、断る理由もなかったのでついていくことにした。
 駅前の商店街を抜け、小さな公園へ行く。子供たちが遊ぶブランコの鎖がきしむ音が、やけに耳に残る。どこかチープなアイスクリーム屋の店先で、僕らはラムネ味のアイスキャンディーを買った。売り切れ間近だったのか、氷の冷却ケースの底から店員が掘り出してくれたそれは、少しだけ溶けかけていた。
「あなたは普段、何をしてるの?」と彼女は尋ねる。
「ほとんど大学にいるよ。あとは、適当に本を読んだり。夜は中古レコード屋でジャズなんかを探すことが多いかな」
 彼女は「へえ」と関心があるのかないのか分からない調子で返事をしたあと、僕にこう言った。
「変な質問かもしれないけど、あなたは退屈になることある?」
「もちろんあるさ。誰だって退屈にはなる」
「でも今はどう?」
 そう聞かれて、僕は自分が退屈かどうか判断がつかなかった。目の前には、麦わら帽子を軽く押さえながらラムネアイスを舐める女の子がいる。そして周りは強い風にさらされて、木々がざわざわと音を立てている。
「分からない」としか言いようがなかった。彼女は笑って、帽子のつばの陰から僕を見た。それは不思議と心地いい沈黙を伴う瞬間だった。

 七月の終わり頃、彼女は突然「海へ行きませんか」と僕に提案した。まだ梅雨明けしたばかりで、空は透き通るように青く、雲は巨大な白い塊になっていた。
 電車を乗り継いで到着した海岸は人でごった返していて、眩しい光と喧騒が入り混じっていた。彼女は麦わら帽子を片手に下げ、白いTシャツと短いデニムスカートを身につけている。オレンジ色のワンピースでも良かったと思うんだけれど、それは僕の頭のなかのイメージに過ぎない。
 砂浜を歩いていると、熱を帯びた砂がサンダルの底からじわじわと伝わってきて、体中に染み渡るようだった。彼女は時々遠くを見つめるように立ち止まり、貝殻を拾ってはポケットにしまった。見つけるたびに「ほら、こんな形」と僕に見せてくれる。そのたびに僕はうなずき、意味もなく笑みを浮かべた。
 いつの間にか一緒にいることが自然になっていた。どこまで僕らが近づけるかはわからない。ただ、陽射しが容赦なく降り注ぎ、体の芯を焼くような夏の日に、彼女と海岸を歩いていると、それだけで生きる理由が一つ増えたような気持ちになる。

 夕暮れ近く、帰り道のバスを待ちながら、彼女がぽつりと言う。
「名前のない幸せってあると思いますか?」
「あるんじゃないかな」と僕は答える。そうとしか言いようがない。
「そっか。あるなら、今がそうなのかもしれませんね」
 そう言うと彼女は、僕に向かってゆっくり微笑んだ。僕はチケット売り場のガラス越しに自分たちの姿を見つけようとしたけど、よく見えなかった。そこには何か雑然としたポスターやフライヤーが貼られていて、まともに映らなかったのだ。それでも、こういうぼんやりした瞬間こそ、大事なんだと思った。

 夏は思ったよりも早く去っていく。日が短くなり、朝晩にわずかな冷気を感じはじめる頃、僕と彼女は再びあのマリーゴールドの咲く花壇を訪れた。花びらは少し色あせて、一部はもう枯れていた。けれど、それが季節の流れだと知りながらも、どこか心にぽっかり穴が空いたような感じがした。
 早苗は帽子を外し、両手に抱えたまま、その花壇を見つめている。彼女の瞳には、まだどこか残り火のように夏が灯っていた。それはまるで、消えかけの線香花火を見つめているような表情だった。
 僕は思わず彼女を抱きしめた。その肩は少し頼りなく震えていたけれど、不思議なほど温かかった。
「離さないで」彼女はそう言った。
 僕はわずかに首を横に振る。どうして離したりする必要があるのだろう、と。

 雲が世界を覆いはじめても、僕らの影を薄くしても、そう簡単に消せるわけじゃない。大切なものはいつだって胸の奥にしっかりと根をおろす。それはマリーゴールドが小さくても力強く花を咲かせるのと、どこか似ている気がする。
 風はまだ吹いている。この先、僕らの人生にどんな風が吹き荒れたとしても、二人で確かめ合えればいい。その名前のない幸せを、今はただ大事にかき集めておこうと思う。まるで海岸で貝殻を拾うように、一つひとつ、こぼさないように。

 そして今でも、あの夏の記憶を呼び起こすたびに風の音が聞こえてくる。あれはきっと、世界のどこかでこっそり揺れ続けるマリーゴールドの声なのかもしれない。そう考えると、僕はいつだって少しだけ幸福な気分になるのだ。

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