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恋 〜ボロ戸建〜
夕暮れの古い町並みに、一軒だけ瓦屋根がくぼんだボロボロの戸建があった。ペンキは剥がれ、風雨にさらされた木材は灰色に色あせている。周囲の家が新築や修繕を重ねてきらびやかさを増す中、その戸建だけが昔の姿のまま取り残されていた。
とある地主、山城(やましろ)学は、近隣に複数のアパートを所有し賃貸経営で成功を収めている、いわば“不動産の目”に長けた男だった。ある日、彼は仕事帰りに車を走らせている最中、ふと視線の端にそのボロ戸建を見つけた。気にも留めずに通り過ぎるはずだったが、妙に胸がざわつく。まるで太古の呼び声でも聞いたかのように、車を急停止させた。
一歩、また一歩と近づく。破れた障子が風にあおられ、かすかな音を立てている。何ともいえない寂しげな佇まいなのに、見れば見るほど愛おしさが募る。学には妻も子もおらず、若い頃には恋愛に胸を焦がしたこともあった。それでも仕事優先の生活を送るうちに、いつの間にか結婚のタイミングを逃していた。
「どうしてこんなに胸が高鳴るんだろう……」
彼は戸建のかすれた壁にそっと触れた。その瞬間、青年時代の初恋の人を思い出した。名前を呼ぶことすらためらわれた淡い恋。結果的に何も言えないまま終わってしまったが、心のどこかにいつまでも残る、切なくも熱い記憶。今、このボロ戸建に感じる感情は、あれと同じ香りがする。自分でも信じられないが、学はそれほどの情熱を、この古い家に抱きはじめていた。
翌日、学は地元の信用金庫や銀行を駆け回った。もちろん、自身には十分な資産があるにもかかわらず、融資を使うことで投資効率を高めるのが習慣だった。だが、その戸建が建つ地区は古い市街地再開発の計画が進んでいる。耐用年数や今後の修繕リスクの面から融資が降りにくい物件と判断され、各金融機関から首を縦に振ってはもらえなかった。
「いや、絶対にあれを手に入れてリノベーションしてみせる。生まれ変わらせるんだ」
学は休日返上で、融資の可能性があるノンバンクや金融公庫、地方に根強いファイナンス会社までアプローチし続けた。決算書を持参し、事業計画書を丹念に作り込む。昼は銀行、夜はデスクにかじりつき、投資シュミレーションを作成した。否定されても断られても、その熱意は消えない。むしろ一度不承認を受けるたびに、かつての初恋の失敗を繰り返すまいと心に火が灯る。
「こんなご時世に、築古物件を買って、もっと人が安心して住める場所にしたい。自分はそれをやり遂げたいんだ」
そう強く念じ続けた結果、ある信金の古株融資担当者が学の情熱に心を打たれ、最終的に一部融資を承諾してくれることになった。もともとほとんど価値がないと見なされる物件であるが、それを再生して地域に新しい価値をもたらしたいという学の説得には筋が通っていた。融資担当者もまたかつて、独学でリノベーションした家を家族のために買ったことがあったという。
「山城さんがそこまで惚れ込んだなら、きっと立派に再生できますよ。では契約に向け、詳細を詰めましょう」
そう言われた瞬間、学の胸には熱いものがこみ上げた。ああ、これほどまでに熱心に何かを手に入れたいと思ったのは何年ぶりだろう。地元の銀行の小さな応接室を出る頃には、彼の中でボロ戸建はすでに家族同然の存在になっていた。
——そして数週間後。鍵の引き渡しの日、学は夕暮れの光を背に受けながら戸建の玄関戸を開けた。軋む音さえも愛しく感じる。そして改めて誓うように壁を見上げ、心の中で語りかける。
「ここからは、僕が守るから。きっと、生まれ変わらせてみせる」
いつかこのボロ戸建が周囲の人々に温もりを与え、誰かの暮らしを豊かにする場所となることを願って。まるで初恋を育むように、一歩ずつ、確かに思いを深めてゆく。そうして学はまた新たな扉を開けたのだった。
時は流れ、リノベーションを経たその戸建は、見違えるほどに美しく甦っていた。かつての灰色に色あせた壁は、優しいペールグリーンに塗り直され、半ば崩れかけていた瓦屋根は落ち着いた濃紺のそれへと取り替えられた。軒先には小さな照明と新しい表札が取り付けられ、誰が見ても「きれいになったな」と感じられる佇まいになった。
とはいえ、外装だけが変わったわけではない。内部は現代の生活様式に合わせた設備を導入しながらも、もとの古民家特有の良さを残している。学(まなぶ)がこだわったのは、梁や柱の木材が放つ温かみだった。長い時間を経て生まれたその味わいは、合板などの新しい材料にはない魅力がある。古いものを大切に活かし、新しい命を吹き込む——まさに初恋の相手に誠実なまなざしを向けるかのように、家の細部まで目を配ったのだ。
やがて、完成後に行われた内覧会には多くの近隣住民が集まった。当初は「ボロ戸建なんか買ってどうするんだ」と、冷ややかな視線を向けていた人々も、満面の笑みを浮かべながら家の中を見渡している。そして「ここまで素敵になるなんてねえ」「私も昔、この家の障子からこぼれる明かりを眺めたものよ」と、思い出話をしてくれる年配の住民もいた。
一人ひとりの言葉に耳を傾ける学は、心の底から満たされた気持ちになる。部屋を飾る観葉植物の緑が、まるでこの家の新しい人生を象徴するかのように生き生きと光を浴びていた。
やがて、学はキッチンの隅でひっそりと家全体を眺め、あの日初めてこの家を見た夕暮れ時を思い出す。足を止め、自分の中に芽生えた「おかしな恋心」に戸惑い、けれど抗えずに手を伸ばしてしまった……。あの日があるからこそ、今この風景があるのだと思うと、胸が熱くなった。
「やっぱり、僕はこの家に恋をして正解だったよな」
学は小さくつぶやくと、愛おしそうに天井の梁を見上げた。かつては誰からも見向きされず朽ちかけていた木材が、今はしっかりと家を支えている。がんばって生き延び、ここに残ろうとした木の意志のようなものを感じる。それは、学自身がこの家に向け続けた想いにも似ていた。
その後、学は希望する新しい住人を迎えることになった。そこには家族連れが住むことが決まり、子どもの笑い声が響く未来がもう目の前にある。
手渡した鍵の重みを感じながら、学は穏やかな笑みを浮かべて言葉を掛けた。
「この子を、どうぞ大事にしてやってくださいね。きっと、皆さんをあたたかく迎えてくれると思います」
家族たちが小さく頷き、家の中へ入っていく。玄関の扉が閉まると、新しい生活が始まる予感に満ちた空気が漂った。恋い焦がれ、手に入れ、そしてようやく独り立ちのときを迎えた一軒の家。学はそのすべてを、まるでわが子の成長を見送る親のような気持ちで見守った。
こうして、ボロ戸建は学の想いとともに、新たな命を宿す住まいへと生まれ変わった。あの日の初恋を思い返すように、学はまだ少しだけ熱を残した胸の高鳴りを感じながら、静かに家の前を後にする。そして、ゆっくりと振り返り、柔らかな夕陽の光に包まれた家を見つめて再び思うのだった。
——ありがとう、そして、どうか幸せになってほしい。
それは、夢が叶った瞬間にしか味わえない、特別な余韻だった。