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燃え上がる恋のウィッカーマン


東京の喧騒の中、**宮下詩織(36歳)**は満員電車に揺られていた。体を押し付け合う人々の無表情な顔、耳に響くスマホの通知音や広告のアナウンス。そのすべてが詩織にとって重苦しく感じられた。

職場では上司から、今期の成績が「十分に堅実」だと淡々と評価されたが、彼女の心には何も響かなかった。周りの同僚たちは新商品の話やプライベートの出来事で盛り上がっているが、詩織はその輪に加わる気にもなれない。

「私は一体何をしているんだろう」
帰り道、ふと立ち止まって自分に問いかけた。だけど答えはどこにもない。

家に帰ると、狭いワンルームの部屋が暗闇で迎えた。電気をつけても、その光は冷たく、彼女の孤独を余計に際立たせるだけだった。冷蔵庫の中には作り置きの惣菜とコンビニ弁当が並び、電子レンジの低い音が空虚な空間に響く。

詩織はいつものようにスマホを開き、インスタグラムの投稿を眺めた。友人たちが楽しそうに旅行や結婚生活を謳歌している写真が次々と流れてくる。その中に、自分の投稿がないことが妙に引っかかった。「この生活を誰に見せるの?」と自嘲するように微笑み、画面を閉じた。

その時、不意に「ウイッカーマン・プロジェクト」という投稿が目に留まった。木造の巨大な像を背景に、笑顔で手を振る人々の写真。投稿文には「過疎地再生とアートの融合」「自然と文化の調和」という言葉が並んでいる。

「ウイッカーマンって何?」
詩織は好奇心からリンクを開き、詳細を読んだ。ヨーロッパの古代儀式をモチーフにしたイベントで、村おこしとアート活動を結びつけたプロジェクトだという。「参加者募集」の文字が目に飛び込んできたとき、胸の奥に小さな火が灯った気がした。

しかし、現実は冷静だった。「こんなの私には無理だ」とすぐにページを閉じた。その夜、仕事や孤独に押しつぶされるような感情に耐えきれず、涙がこぼれた。

「このまま何も変えられないままでいいの?」
その問いは、自分自身に向けられた静かな挑戦だった。


翌日、詩織は会社の退職願を提出した。周りの同僚や上司からの「もったいない」「36歳から新しいことなんて」という言葉は耳に入ってこなかった。自分を引き留める言葉の数々が、むしろ背中を押す風のように感じた。

「何かを変えるには、ここを出るしかない」
詩織はそう確信していた。


電車とバスを乗り継ぎ、長い道のりを経て詩織は山間の村に到着した。古びた駅舎、湿った土の匂い、遠くから聞こえる虫の声――都会のそれとは全く異なる世界が広がっている。

「ここが私の新しい場所……」
大きな荷物を抱えながらそう呟いた。胸の奥で高鳴る期待と、「本当にこれでよかったのか?」という不安がせめぎ合う。

村の中心部にある古い校舎がプロジェクトの拠点だった。廃校になった学校を改装したその建物は、窓から木漏れ日が差し込み、どこか懐かしさを感じさせた。中では十数人のスタッフたちが作業をしており、木材を運ぶ音や楽しそうな会話が響いていた。

「初めまして、宮下詩織です」
緊張しながら自己紹介をすると、明るい笑顔で迎えられた。「ようこそ! 一緒に素敵なものを作りましょう!」という言葉に、詩織の中の不安が少しだけ薄らいだ。


制作チームのリーダー格である**藤崎蓮(25歳)**が詩織に声をかけた。細身の体にシンプルなTシャツとジーンズ姿だが、整った顔立ちと静かなカリスマ性が目を引く。

「君が宮下さん?」
蓮は少し冷めたような声で詩織を見た。年齢を聞いて驚いたのか、眉を少し上げながら「初めての参加って聞いたけど、大丈夫?」と問いかける。その物言いに一瞬戸惑った詩織だったが、続く言葉は予想外に熱かった。

「このプロジェクトはただの村おこしじゃない。アートとしても重要な挑戦なんだ。自分の力を信じて取り組んでほしい」

蓮はそう言って作業に戻っていった。その背中を見つめながら、詩織は「この人は特別だ」と直感した。初対面の冷淡さに隠された、真剣で情熱的な一面が垣間見えたからだ。


詩織はスタッフに教わりながら、木材を削る作業を始めた。手が不器用に動くたびにスタッフから笑いが漏れるが、その中に悪意はなかった。「大丈夫、初めてでもすぐに慣れるよ!」という声に励まされ、詩織は少しずつ作業に集中できるようになった。

蓮は全体を指揮しながらも、詩織に何度も声をかける。「その部分はもっと力を入れて」「道具の使い方はこうだ」と、的確なアドバイスをする蓮の横顔に、詩織は胸がざわつく。

「私はこの場所で変われるかもしれない」
木材の手触りを感じながら、彼女はそう思った。


ウイッカーマン制作の活動が本格化した。木材を組み立てて巨大な人型を形作り、その周りに草や藁を編み込む作業が進む。詩織は慣れない手つきで藁を結んでいたが、思った以上に力仕事であることに驚く。

「ここ、結び目が甘いな」
蓮が通りかかり、詩織の手元を指摘する。少し気後れしながらも「すみません、慣れてなくて……」と答える詩織に、蓮は小さく息を吐き、彼女の手元を取って見本を示した。

「ほら、こうやって。慣れたら簡単だ」
蓮の指先は確かな動きで藁を結び、まるで芸術作品を作るように見えた。彼の手が自分の手に触れた瞬間、詩織は胸が軽く高鳴るのを感じた。それを悟られないように、視線を落としながら小さく礼を言う。


制作作業を進める中で、詩織は村の住民たちとも関わるようになる。70代の地元の女性が、休憩時間に詩織たちに手作りのお茶と団子を持ってきてくれる。

「若い人たちがここに来てくれて本当に嬉しいよ」
笑顔で語るその言葉に、詩織は胸が温かくなるのを感じた。自分がこの村のために少しでも役立っているという感覚が、都会での生活では感じられなかった新鮮な喜びをもたらした。


ある夜、詩織は眠れずに校舎の作業場を訪れた。中には蓮の姿があった。明かりの下で黙々と作業を進める彼は、昼間のリーダー然とした姿とは違い、少し疲れたような横顔を見せていた。

「こんな時間まで……」
思わず声をかけると、蓮は驚いたように顔を上げた。

「まあね、ウイッカーマンの仕上がりには妥協できないから」
蓮は疲れた様子を隠そうともせずに笑う。その笑顔に詩織は心が少し揺れた。

「私に手伝えることがあれば言ってください」
そう申し出る詩織に、蓮は少し意外そうな表情を見せたが、「じゃあ、少し手伝ってもらおうかな」と、木材の簡単な仕上げ作業を頼んだ。

作業をしながら、蓮は詩織に自分の過去を話し始めた。海外留学中に参加したアートプロジェクトの話、当時の仲間たちとの葛藤や、自分の中にあった孤独感。

「俺、ただ作品を作るだけじゃダメだって気づいたんだ。もっと、人とつながるものを作らなきゃって」
彼の言葉に、詩織は胸がじんと熱くなるのを感じた。


制作が進むにつれて、詩織は自分の中で蓮に対する特別な感情が芽生えていることに気づき始める。しかし、10歳以上年下で、若く情熱的な蓮に自分が惹かれていることを認めるのが怖かった。

ある日、蓮がふと口にした言葉が詩織の心を揺さぶる。

「詩織さん、ここに来たのは何かを変えたかったから?」
彼の問いに、詩織は一瞬答えに詰まった。

「……そうかもしれない。変えたかったのか、逃げたかったのか、今でもよくわからないけど」
蓮は静かに頷いた。

「変わりたいと思ったのなら、それは間違いじゃないよ。俺も、変わりたかったからここにいるんだ」

その言葉に、詩織は蓮の心の奥にある痛みや孤独を感じ取ったような気がした。そして、自分もまた誰かに必要とされたい、蓮にとって特別な存在でありたいという感情が胸の中で大きくなっていく。


ウイッカーマンが徐々に完成に近づき、村全体に活気があふれていく。詩織は喜びを感じる一方で、プロジェクトが終わった後、自分がどうするべきかを考え始める。都会に戻るのか、それともここに残るのか。

蓮に対する気持ちが日ごとに強くなり、同時に彼のそばに居続ける資格が自分にあるのかという不安も募っていく。

ある夜、蓮が詩織に話しかけた。
「詩織さん、これが終わったらどうするつもり?」
その問いに、詩織はうまく答えられなかった。

「俺はこの村でまだやりたいことがある。でも、それに詩織さんがどう関わるかは詩織さん自身が決めることだと思う」

蓮の真剣な眼差しに、詩織は心が締めつけられるような感覚を覚えた。


完成したウイッカーマンは巨大な人型像として村の中心にそびえ立っていた。藁や木材でできたその姿は、周囲の山々と溶け合いながらも圧倒的な存在感を放つ。制作チームや村の住民たちの間には期待感が漂い、詩織もその一員として達成感を味わっていた。

しかし、心の奥底では複雑な感情が渦巻いていた。蓮との距離が近づく一方で、このプロジェクトが終わったら自分はどうすればいいのか、どこに戻ればいいのか。その思いが、心の片隅で彼女を引き留めていた。


その夜、詩織は儀式の準備を終えた後、気分転換に丘の上に足を運んだ。夜空には満点の星が広がり、都会では見られない景色が広がっていた。そんな中、蓮が静かに現れた。

「ここにいると思った」
蓮は隣に座り、星空を見上げながら語り始めた。

「俺、このプロジェクトが終わった後もこの村に残るつもりなんだ。もっと作品を作りたいし、村の人たちと一緒に何かを続けたい」

詩織は静かに聞きながら、自分の中にわき上がる感情を抑えられなかった。

「それって、素敵だと思う。だけど……私には、ここに残る理由がまだ見つからない」
詩織の声が震えているのを感じた蓮は、彼女の顔をじっと見つめた。

「俺が理由になっちゃダメか?」
その言葉は予想外だった。胸が大きく鼓動する。詩織は蓮の真剣な目を見て、涙があふれそうになるのを感じた。

「蓮……それって……」
「俺は詩織さんともっと一緒にいたい。けど、それを無理に求めたくない。でも、もし迷っているなら……もう少し一緒にこの村でやってみようって思ってほしい」

蓮の言葉は静かで、けれど強い決意に満ちていた。詩織は涙を拭いながら、小さくうなずいた。「答えを出すのは、もう少し時間が欲しい」と心の中で思いながら。

ウイッカーマンの炎と未来の誓い

儀式の日、ウイッカーマンには村の特産品や住民たちが願いを込めた飾りが取り付けられ、訪れた人々が見守る中で火が灯された。夜空に向かって燃え上がる炎は、巨大な像を明るく照らし、その姿はまるで何か神聖な存在が空へ還っていくかのようだった。

群衆がその光景に息を飲む中、詩織は蓮と並んで炎を見つめていた。

「炎が消える前に、答えを聞かせてほしい」
蓮が低い声で囁いた。その声はかすかに震えているように感じられた。詩織は手のひらに汗を感じながら、自分の気持ちに向き合った。

「……私、都会に戻るのが怖いのかもしれない。でも、ここにいることで自分が変われる気がしてる。蓮がいるから、この村が好きだって思えるんだ」

炎が燃え上がる中、詩織は蓮の手を取り、涙を浮かべながら答えた。

「私も一緒にいたい。この村で、蓮と一緒に新しいものを作りたい」

蓮は驚いたような表情を見せたが、すぐにその顔が笑顔に変わった。彼は詩織の手をぎゅっと握り返し、言葉にならない喜びをかみしめた。


数年後、二人には子供が生まれ、家族で村の儀式に参加するのが毎年の恒例行事となった。蓮が手がけた新しいウイッカーマン像がまた村の中心にそびえ立つ中、詩織はその姿を見上げた。
炎を見つめる詩織の表情は安堵と喜びに満ちていた。その横で蓮が優しく彼女の手を握り、二人の子供が笑顔で走り回る。燃え上がるウイッカーマンの炎は、二人の愛と新しい人生の象徴として夜空を照らし続けていた。

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