
オヤジが消えた
実在の父親という存在自体が消滅したわけではない。しかし、「オヤジ」と呼ばれるような父性的な威厳や説得力をもった大人の男性像は、現代社会ではめっきり少なくなったように思える。今そこにいるのは、年齢的には中年や初老に差しかかっていても、精神的には若いころの価値観から大きく変わらない「歳をとった青年」である場合が多い。
この現象の背景には、いくつかの要因が考えられるだろう。一つは、昭和的な「家父長」のイメージ、すなわち家庭内で無条件に尊敬され、威厳をもってふるまう父親像の崩壊がある。かつては社会構造も家族観も、父親を一家の大黒柱として自然に位置づけていた。しかし、家族の形や働き方が多様化するにつれ、「父親ならこうあるべき」という固定的な役割が説得力を失っていった。
また、現代は情報の流通が格段に増え、世代間の文化差や価値観の違いがあいまいになりつつある。以前なら、中高年層と若者層は趣味も話題もかけ離れていた。しかし、インターネットやSNSを通じて、年齢差を超えた情報や娯楽を共有しやすくなった結果、「父親世代」も若者のカルチャーを違和感なく消費できるようになり、「どこか親父臭さを感じさせる大人」よりも「ちょっと若ぶっている大人」が増えたとも言える。
さらに、男性自身の意識や価値観にも変化がある。家族や部下に対して厳しく指導し、己の背中を見せて導くという、旧来の「オヤジ像」を良しとしない風潮が強まった。いわゆる“威張った父親”に対する嫌悪感や、「上から目線」が煙たがられる社会の中では、自然と「オヤジ」を演じようとする意欲も薄れるだろう。むしろ、子どもや若い世代と同じ目線で楽しみを共有し、対等に付き合う「フレンドリーな父親像」のほうが歓迎される場合が多い。
こうした諸要因の結果、かつての「オヤジ的なるもの」は姿を消し、年齢だけ重ねても精神構造としては若いままの男性が増えた。昔であれば子どもに対し、「父親としての責任と権威をもって接する」ことが当然とされたが、今は「仲間のようにフラットに話ができる親」としての在り方が受容される。家庭だけでなく職場でも、かつてのように「部下を一括指導する強い上司」が少なくなり、言葉を選びつつ共感をベースにコミュニケーションを図るリーダーシップが求められるようになった。
それが良いか悪いかは別として、「オヤジ」という典型像は、現代の社会環境や文化的価値観との相性が悪くなったのは確かだろう。実在する父親たちは依然としてそこにいるが、「オヤジ然としている」男性はごく少数派となり、多くの中年男性は“若々しさ”と“成熟”の境界で手探り状態にある。結局は、かつて自然に演じることができた“親父”のロールモデルが雲散霧消し、男性が「どう生きるべきか」を模索し続ける時代に突入したのだと言える。