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恋のうた

瀬戸内海って、世界地図で見れば豆粒みたいだけど、そこには驚くほど多彩な空気が流れてる。僕はひょんなことから、その豆粒みたいな場所でしばらく暮らすことになった。つまり都会に疲れて、小さな島に逃げ込んだわけだ。島なんてのは大抵どこも似たようなもんだと思っていたけれど、ここはどうも不思議にポップで、いつもどこかで優しいメロディが鳴っている気がする。

港の桟橋を歩いていたら、どこからともなく大きな古ラジカセの音が聞こえてきた。ざらつくようなラブソングで、歌い手の声が揺れていた。潮風にまぎれて、その歌はやけに楽しげで切ない。文字通り“恋のうた”みたいだなと思ったら、目の前に突然彼女が現れた。サングラス越しにこちらをじっと見る。少し日焼けした肩と、デニムの短パン。それだけで何かが弾けたような気がした。

「このへんで、一番きれいな場所ってどこか知ってる?」
僕は一瞬黙りこんだ。そもそも“きれい”が何を指すのか、人によって違う。沈む夕日をきれいと呼ぶ人もいれば、昆布だらけの磯をきれいと思う人もいる。でも彼女の瞳は“どこでもいいから面白いとこ連れてって”というサインを送ってる気がした。
「それなら、一緒にみかん畑まで行こう。斜面をずっと登れば、海がパノラマみたいに見えるよ」
そう言ってみたら、彼女はあっさり「行く」と返事した。気持ちいいくらい、あっけらかんとしている。

二人で黙々と坂道を上る。照りつける日差しと蝉の声。そろそろ息が切れそうになったところで、ようやく視界が開けた。島々がじわりじわりと重なり合い、遠くの大型船が糸くずみたいに動いている。ここから見る瀬戸内海はやはり豆粒なんかじゃない。見たことのない色合いが何層にも折り重なっていて、空の青さと混ざり合っている。彼女はサングラスをとり、深呼吸をした。
「わあ、ずいぶん広いね。でも、不思議と落ち着く」
「このあたりの人は、これが当たり前の景色らしいよ」
「当たり前ってすごいよね」
彼女は笑った。その笑顔はなんだか、絶妙に胸を突く。

下り道で彼女が言う。
「ねえ、少し歩き疲れたから、海岸のほう寄っていかない?」
もちろん僕は賛成だ。ささやかな砂浜に腰を下ろして、冷たいコーラを分け合う。防波堤の向こうで子どもたちがはしゃいでいて、小さなラジオからまたあの妙に心地いいラブソングが聴こえてくる。
「ここ、世界の端っこみたいでいいな」
そうつぶやく彼女の横顔を見て、僕はふと“こんな小さな恋のかけらが、もし世界をひっくり返したら面白いだろうな”と思った。言葉にはしなかったけれど、そんな予感が胸の奥でざわざわ動いた。

夜になると、島の小さなバーで海鮮丼なんてつまみながら、地元のおじさんたちが焼酎で顔を赤らめていた。僕と彼女も奥の席で乾杯する。氷が溶ける音と、ゆるいBGMが混ざり合う。
「こういうの、何て言うんだろう」と彼女がぽつりと漏らす。
「何が?」
「この感覚。……ちっぽけだけど、でも本当はすごく大きいもの。たとえば宇宙を見上げるみたいな気持ちと、ちょっと似てるかも」
「宇宙…か。広い星空と、瀬戸内海の夜と、あなた。へんにロマンチックだね」
彼女は苦笑する。
「そう聞こえたなら、ごめん。でも、確かに広い。青い地球の広い世界で、ここは小さな島。なのに、不思議と孤独を感じないの」
僕はグラスを持ち上げて、氷がカランと鳴るまで黙っていた。それから「同感」とだけ言った。

気づけば終電のフェリーなんて、とっくに行ってしまった。どのみち僕も彼女も泊まる場所はあるから問題ない。店を出て夜風にあたると、薄い雲の向こうに月が見え隠れしていた。彼女が突然「この歌、覚えてる?」と口ずさんだのは、昼間にも耳にした、あのラブソングの一節。ちょっとした鼻歌みたいに軽やかで、でもやけに胸に響いた。
「あなたにだけは届いてほしい、そんな感じの歌だったような…」
「そうかもしれないね。なんだか背中を押されるような曲だった」
僕らはそんな言葉を交わしながら、暗い路地を歩いた。海の匂いと、みかん畑から残ってきた甘酸っぱい気配がまざり合っていて、この島の夜はどこまでもポップでやさしい。

翌朝、彼女は意外と早く港へ向かった。昔からの友達と約束してると言う。僕は桟橋まで見送った。フェリーが接岸すると、彼女は僕にさりげなく手を振って笑う。
「ありがとね、いろいろ。また会えるかな」
「そのうち、きっと」
バカみたいに短いやり取りだったけど、それで十分だった気がする。フェリーが動き出しても彼女は手を振り続け、僕も最後までそれに応えた。いつの間にか、あのラブソングが頭の中でずっとループしている。
“青い地球の広い世界で、小さな恋があなたへ届くように”なんて、誰かが歌っている気がした。いや、きっと僕自身がそう思っていただけかもしれない。だけどそれでいい。小さいものが大きくなる瞬間なんて、いつだってこんなふうにさりげない。たとえ目に見えなくても、僕らは確かに何かを共有したんだと信じられれば、それだけで十分なんだ。

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