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【自己紹介】これが正しかったのかは知らない。悔いのない人生って何だろう
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どうしてギャンブラーになったのか
自分語りってあんまりかっこいいことじゃないんですけど、ギャンブル記事を書く人間として略歴はたまに説明しないといけなくなる。履歴書じゃないけど、そういうの書かないと困ることもあるので、ネタだと思って読んでください。
野球が一番好きだった
子供のころ、漠然と競馬が好きだった。テレビで見るレース、触れる馬。小学生当時は背が低く、騎手になりたいと思っていた時期もあった。だが、視力低下と中学時代に1か月で1cm以上のペースで伸びる背に、そんな夢は簡単に消えた。
小学生時代は主に野球をやっていた。レフトで5番か6番。私の役目は塁に溜まった走者を返すこと。今ならフライボール革命で当たり前なのかもしれないが、転がす打撃は一切しなかった。打率2割6分で外野に飛ばせる典型的な5番打者だった。だが、小学6年生になり、監督が替わると、私の打順はいきなり9番まで落ちた。それどころか、リーグ戦では代打1番手まで格下げに。守備難が嫌われただけではなく、当時私は都心の学校に越境で通っていた。入っていたチームは地元に「助っ人」で入っている格好。後ろ盾のない野球環境だった。
代打でいくら打ってもレギュラーになれない
そんな1年を過ごして、野球が嫌いになった。中学に野球部はあったが、入部しなかった。週末、より競馬を見るのが楽しくなっていた。
しかし中学3年の春、2つ下の弟がリトルリーグで世界一となったチームに1年生ながら控えでメンバーに入っていたことで「そういえばあいつに兄がいたよな」と、いきなり野球部から声がかかった。弟が死んだわけじゃないが、形が違うタッチみたいな話だ。
2年のブランクがあったが私は野球に復帰した。しかし、2年のブランクが送球難を改善するわけもなく、やはり代打の日々。結局つまらなかった。
高校時代になり、野球をやることはやめ、週末はいつも馬券を買っていた。小遣いをやりくりして、コツコツ当ててプラスにもっていこうとするスタイルはもうこの時に初歩はできていた。本命党ではない。高打率志向だ。土曜の午後に場外に行く習慣から、ダート、障害、準オープンがテリトリーだった。
カズ山本に魅せられて
ある日、東京ドームの日本ハム戦のチケットが手に入った。後楽園のwinsに行くことに慣れていた私にとって、東京ドームは慣れ親しんだ場所だった。小学生のころはヤクルトファンだったが、野村克也の小難しい話が大嫌いで、スポーツを見てる感じになれずプロ野球観戦も疎遠になっていた。
その試合で衝撃を受けた。日本ハムの相手は近鉄。私を虜にしたのは、すでにベテランだったカズ山本だった。すごいホームランを打ったわけでも、活躍したわけでもなかった。だが、外野の遠くからでも、カズ山本のあるシーンに「野球ってやっぱり面白い」って思えるものが見えた。
フォアボール。
これが衝撃的だった。何言ってんだと思うかもしれない。違うんだ、カズ山本は2度あったフォアボールの度、投手を睨みつけ、バットを高々と放り投げ、1塁にさっそうと駆けていったのだ。
めちゃくちゃかっこよかった。こんな野球があるんだと。
もちろん、ベテランとなり代打が増えていたカズ山本の姿が自分に重なった。経歴を見たら2度も解雇されている。俺も2度野球をあきらめた。騎手もあきらめた。高校生の時点でなんどもあきらめばかりの人生、カズ山本は乗り越えて野球を続けていた。
この野球は見なくてはいけない。近鉄のほかの選手も、破天荒な奴らばかりだ。こんな面白いチーム、一生見守らなきゃと思った。
近鉄バファローズに人生を捧げるつもりだった
応援サイトを立ち上げ、できるだけ近鉄戦を見に行く人生が始まった。大学浪人中も、大学生になっても、近鉄の試合に通う日々が始まった。だが、観戦にはお金がかかる。
私はそのために、ギャンブラーになった。
野球観戦のためのギャンブラー生活
浪人中に地元・江戸川で覚えたボート。大学に入ってから覚えた競輪、オート、ばんえい。全部を覚えて勝負レースを絞り、打つ日々が始まった。稼いだお金で球場に通った。
しかし、そんな生活も突然終わる。近鉄がなくなってしまったのだ。例の合併騒動である。俗に言う「野球難民」になった。
野球難民になって野球を捨てた
一生ものだと思った近鉄の応援がなくなった。私に博打を打つ理由がなくなってしまった。だが、しばらくはギャンブラーを続けていた。惰性だ。就職もしないで生きてこれてしまった。今更どうしていいか、わからなかった。
そんななか、彼女に子供ができた。27歳、もう潮時だった。私はSEとして中途採用してくれる会社になんとか入った。SEになろうと思ったのは、高校大学と理系だったからプログラミングが多少できたからと、いつか予想やデータのプログラミングで独立したいという小さな目標もあった。
だから予想の勉強はつづけた。そして、10年近く経った。
できちゃった結婚だったこともあり、彼女とはとても仲がよいとは言えない状況だった。結果離婚し、苦しい生活がずっと続いていた。さらに、家庭事情もいろいろあり、私は10年近く務めた仕事を辞めた。
結局自分に残ったのは公営競技だけだった
どうしていいかわからなかった。次の仕事のあてもない。子供のために働かなくてはいけない。退職金もなかった。3か月、私はギャンブラーに戻ったが、資金も少ないなかギリギリの勝負が続いた。
そこをたまたま、拾われた。助かった。私がギャンブラーとして生主やTwitterでやってきた活動に目を止めてもらえたのだ。私は打率型のギャンブラーで華のある勝負はしてこなかったのにである。
この人生、正しかったんだろうか。よくわからない。だが、一つだけ、野球とギャンブル、それをまじめにやってきて、とりあえず私は今に繋がっている。馬鹿だとは思うが、突き進んでいたことで乗り越えてこれた。
他人には絶対に勧められないし誇れる人生でもない。悔いる場面はいっぱいある。でも、まだこれからいいことあるかもしれないし、そのチャンスだけは「自力」でつないでこれた。ネタとしてはおいしい人生だと思う。
座右の銘は小学生時代から「意地」だ。正確には
努力するより、
根性出すより、
意地を張れ。
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