息苦しいのは、マスクではなく
マスクの手持ちストックがなくなってきた。
このストックがなくなる頃には、ノーマスクが日常になっているかなと密かに期待していたけれど、まだそういう気配は感じられない。
また近々買い足さなくてはいけないのか。。
思えば、コロナ前も、マスクをよく着けていた。
年末くらいに風邪らしいものをひいて、マスクをすると顔周りが温かいから、そのまま冬の間はよく着けていて、そのうちに花粉が飛び始めて、結局ヒノキの花粉が収まる5月の連休あたりまではマスクをしているのが通常営業。
そう考えてみると、コロナ前も半年ちかくはウィズマスクで暮らしていたことになる。
その時にも着けることは自分で選んでいたわけだけれど、着けたかったのはむしろ屋外でであって、屋内で人と向き合うときにこそ必要とされる、いまとは真逆の世界線。
このコロナ禍も、義務ではない、推奨だから、やっぱり自分で選んで着けているのだけれど、ぼんやりと、煩わしい、と思っている。
マスク以前から息苦しさはあった
新しい生活様式が謳われて、数年が経つ。
窮屈でしょうがないし、煩わしいと思うことは多い。一方で、むしろ本来的な暮らし方だったのでは?と思うことはいくつかある。
たとえば、ソーシャルディスタンス。
レジに並ぶ、電車に乗る、そういう他者と共存する場面で、これまであまりにも距離が近かったように思う。
「すこし距離を空けましょう」
そう言われて、この見知らぬ他者との距離感に、いままでそこはかとなく不快感を持っていたんだということに気づいた。
マスクで感じる息苦しさにも近い、なんとなく不快、という感覚。
これはおそらくパーソナルスペースから来るもので、私は広めに取りたい性質なのだと思う。
都市は過密すぎて、自分の好む距離感は叶わない。そう諦めていたところ、すこし空けましょう、と言われて、すこしホッとした自分がいる。
床にスタンプされた足跡マークに制御されるのは内心イラっとしないでもないけれど、考えてみれば、自分の背後のすぐ近くに知らない人が立っているなんて、ホラーでしかないわけで。
空気のこもった屋内で過ごすのではなくて、外気を取り入れましょう、もむしろ健全な考え方だ。
寒いから、暑いから、外はうるさいから、エアコンの効率が落ちるから、いろんな理由はあっただろうけれど、だって、空気は間違いなく悪かったもの。
窓を開けることで得られる開放感。
空気が入れ替わっていく実感。
外と繋がっている感覚。
換気をマメにするようになって、それまで空気がこもっていることを自覚せずに過ごしていたことに気づいた。
外の気配を感じながら時間を過ごすだけで、閉じ込められていないと思えて安心したり、鬱屈とした気持ちをすこし解放できたりすることにも。
健全な快適さを取り戻すこと
もちろん、このコロナ禍の暮らし方、方向違いじゃない?と思うことはたくさんある。
運動会で組体操はやらないとか、合唱でもマスクを着けさせるとか、人の集まる催しを執りやめてしまうとか。
繋がりを持つ集団の中では、近しい距離感で過ごすことも大切なことだし、暮らしの中でレクリエーションはやっぱり必要だ。
一方で、これまで見て見ぬふりをしてきて、でも取り戻すべき「快適性」のようなものはあると思っていて。
都市の中で使える空間は限られているし、効率性や収益性などの面では出来るだけ詰め込みたくなるんだろう。
それは分からなくもない。
でも、本来的に人が快適さを感じて過ごせる空間って?ちょっとやり過ぎちゃってきたんじゃないの?
誰かが「この生活様式の変化は、2050年くらいに人々が求める暮らしが前倒しで来ただけなのかもしれない」と言っていたけれど、この出来事は、そういう問いにいったん立ち止まって考え直すきっかけにはなったはずで。
本質的には、ゆとりを、ということなのだろう。
空間としても行動としても、快適性の面から密度が適切に調整されている、ということ。
これまでを取り戻そうという正常性バイアスに巻き取られないで、この変化はポジティブに受け止められていくといい。
屋内でのマスクは相変わらず煩わしいけれど、マスクが日常化したから息苦しいのではなかった。
「息苦しさ」は「生き苦しさ」に似ていて、その解消は「生きやすさ」につながるのかもしれない。
そう思った。
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