「砂の惑星」とはなんだったのか【MV・歌詞 考察】
はじめに
皆さんお久しぶりです、ainigmaです。また間が空いてしまいました。私の記事書くという言葉はあまり信用しない方がよいものと思われます。一応頑張ってるつもりなんですけどね。
そ・ん・な・こ・と・より!
一波乱あったボカコレ2023Springや超会議。無事に終わりましたね。全曲チェックしたり、少しだけ聞いたり、会場に行ったり、配信で見たり。色々あると思います。みなさんはちゃんと楽しめましたか?そして夏にはマジミラも控えていますが、テーマソングの一部が公開されましたね。
あと2ヵ月ちょっとで全体が公開されることになるでしょう。大きなお祭りに流されて見なくなりましたがAyaseの起用が発表された当時、「砂の惑星の時と似た気持ち」という方がチラホラ居ました。
唐突ですがここで質問です。
あなたは「砂の惑星」がマジカルミライに似合わないと感じますか?
マジカルなミライには相応しくない?きっと色々な答えがあると思います。
2017年、初音ミク10周年に投稿されたマジミラのテーマソング。
一般的には衰退しているボカロ界隈への警鐘を鳴らしている歌と解釈されていますが……
当時をちゃんと知る人々は、皆こう思った筈。
「え、今?」
当時のボカロシーンと言えば、2014,2015とニコニコでの年内ミリオンが1曲ずつで暗雲が立ち込める界隈に、鉄砲玉の如く現れたゴーストルールを始めとし、エイリアンエイリアン、脱法ロック、チュルリラ・チュルリラ・ダッダッダが年内ミリオンを達成。シャルルやDAYBREAK FRONTLINE、気まぐれメルシィ…他にも多くの名曲が誕生しており、シーンは既に夜明けを迎え始めていました。
よく「砂の惑星のおかげでボカロは復活した」なんて事を言っている人を見かけますけど、私は口を酸っぱくして言いますよ、Noと。盛り上げることはできたかもしれないけど、おかげは言い過ぎでしょうと。そうやって砂の惑星を神格化したり、反対に過度に忌避するからあの曲に対してずっと見当違いなことしか言えないんですよ。
あの曲にはもっと、恐らく本人ですら厳密に言語化できないであろうメッセージがあるのに、僕が面白いと思うところに触れてるものを見たことがない!原曲はあんなに面白いのに可哀相だ。
ということで、今回は今更ながら、「砂の惑星」を考察していきます。「え、今?」とか言わないでね。
皆さん、どうせなら気持ちよくAyaseと戦りたいですよね?あの曲が発表されてからもうすぐ6年。そろそろいい加減、煮るにも焼くにも美味しくいただくにしても、あの惑星がなんだったのかを理解してからにしましょうよ。
ということで、長くなりました。
念のために言っておきますが、これらはあくまで全て私の解釈です。あまり鵜呑みにしないようお願いしますね。「部分的に合ってるけど間違ってる」みたいなこともあるかと思いますので、是非自分の中でも一度考えてみてください。各方面に詳しいわけではないので間違ってるところがあったら是非指摘頂けると嬉しいです。また、文化的背景などハイコンテキストな部分を分かりやすく説明するためどうしても文章が長くなってしまいましたが、ご承知のほどよろしくお願いします。
それでは行きますよ~ん♡
惑星の行く末
初っ端から「何もない砂場飛び交う雷鳴 しょうもない音で掠れた生命 今後千年草も生えない 砂の惑星さ」と手厳しいディスから始まるこの曲ですが、終盤では「砂漠に林檎の木を植えよう」とルターの言葉「たとえ明日、世界が滅亡しようとも今日私はリンゴの木を植える。」を彷彿とさせるフレーズ(この言葉、出展不明らしいですけどね。)も含まれており、決してネガティブなニュアンスだけではありません。
「思い出したら教えてくれ あの混沌の夢みたいな歌」と、かつてを「混沌」、当時を「砂の惑星」として対比させていることが読み取れます。
「混沌」とは曖昧な言葉です。なんとなくで読み取るのは簡単ですが、実際にはどのようなニュアンスで「混沌」と言ったのか。まずはここを明確にさせないとビジョンがはっきりしない。ということで、最初は「混沌」の意味について迫っていきましょう。
・「混沌」とは
ここでいう「混沌」とはなにを指すのか。ハチがボカロに目指して欲しいところとはなんなのか。それを解き明かすために、インターネット上に公開されている砂の惑星関連の言及をかき集めてきました。
私なりにまとめたりピックアップしていますが、文脈が気になったり文字小さくて読めなかったりする方はリンクを貼っておくのでそちらをご覧ください。(tweetは自分で探してください、すみません。)
以後この画像から番号を指定して参照していきます。順番はツイート順だったり適当なのであまり気にしないでください。混乱させたら申し訳ない。
よく言われていますが未だに知らない人も多いので前提として、この曲はまずボカロシーン全体というよりニコニコに重きを置いた言及であることは見逃してはいけません。(※8)
そしてたまに依頼・制作期間の問題で当時の流れとズレが生じていたのではないかと言う人も居ますが、少なくとも2016年の話ではなく2017年2月前後のボカロシーンを参照してこの曲は制作されています。彼が最近気に入ってるボカロPとしてヘルニアを挙げていることを当時のランキングと比較してみても、既にシャルル以後の時間軸ではあるということです。(※13)
またハチは当時のボカロシーンが盛り上がりを取り返しつつあることを認識しており、いいものは未だに生まれ続けているとも言っています。(※3)皆さん思いますよね。
え、なにがダメなの?
18番を参照すると、彼はもののけ姫を例にあげ、今度は「混沌な森」と「健全な森」を対比させています。健全な森として復活しても、健全な森からは、美しいものは生まれてこないのではないかと。
11番でも、彼は単純によい物が生まれているだけの環境は、健全かもしれないが、まずいのではないかとの考えを示しています。
ここまで見て、既にハチが単純な量(再生数)だけの話をしていないのはご理解頂けたかと思いますが…。ふむ。減ったからといって、ただ回復しただけではダメ、と。全く関係のない話ですが、少々似た事例をワタクシ知っております。
ギュイーン!!!
ここにぼっちという生物が居るとします。
このぼっちという生物は元々多様な個性(遺伝子)を持っていたのですが、ある時期を境に個体数が激減してしまいました。
そうすると、その子孫?たちはなんとか個体数を回復できたとしても、その個性までは取り戻せない。多様性を失い均一性が高くなってしまうんですね。
これは生物にとっては非常にまずいことで、環境変化に対する適応力が著しく低くなってしまう。下手な鉄砲も…とは言わないが、多様性があればその中に、環境変化に対応できる個性を持った奴がいるかもしれない。
例えば、このマンゴー仮面の個性をもったぼっちが、ライブ中のアクシデントに対応できるかと言われたら難しいですよね。そこでライブはシラけ、ぼっちは絶滅するわけです。他の…は…まあ難しくても、マンゴー仮面よりは対応できる可能性があるよね…?多分?
……これ声かける人間違えましたね。
ともかく、この遺伝的多様性に関する考えはボトルネック効果と呼ばれているのですが、これは音楽においても適用できるような気はしますね。特に、様々な音楽が共存することが可能なボカロというカテゴリでは殊更。リスナーやトレンドといった環境に対して画一的になってしまったシーンは、環境が変化してしまったら、それに対応する力を失ってしまう。
一度対応できたとしても…次があるかはわからない。
一過性の流行りでは、シーンに本当の意味で還元できない。
また2番と5番を参照すると、彼は新しい文脈が生まれない…つまり変化が起こらなくなり画一化したシーンに対して危機感を表明していると捉えることができます。今がよくても、次に繋げるのか?と
「この井戸が枯れる前に早く ここを出て行こうぜ」という歌詞も、一見「もう少しだけ友達でいようぜ今回は」と矛盾しているようにも見えますが、シーンの新陳代謝を促している…要は別の話と考えれば納得できます。この画一化とシーンの停滞については著名なボカロP達が似たような発言をしている…つまり、シーンの内側から同様の問題を指摘している人が他にもいます。
そもそもの話、彼がテーマソングに起用された際のコメントに用いられている「砂場」という言葉を自由な遊び場という意味で捉え、砂の惑星にネガティブな要素はないのではないかと言う人も少なからずいますが、彼はボカロシーンを「砂漠」と例えたことについてネガティブな意味で用いたことは間違いないとしています。(※17)
しかしこの自由な遊び場である「砂場」という言葉にかつての「混沌」というイメージを重ねていたのなら、ここで大事なのは「砂場から砂漠」という変化自体であり、なんもない砂場である砂漠の正体とは「クリエイティビティを失ってしまった砂場」であると捉えることが可能です。彼が「しょうもない音」と揶揄するのも理解できます。
つまり、彼はむしろゴーストルール以降の流れを一過性のものにしないために、バラエティを富ませる意味を込めてボカロの主流であった高BPMに対抗する形で低BPMに、アラブ音楽とトラップを融合させた遊び心のある挑戦的なトラックを作ってみせたと。そう捉えることができるのではないでしょうか。
この曲は初音ミク10周年コンピ「Re:Start」書下ろし曲ですが、ここでも似たような指摘は存在します。
砂の惑星の「立ち入り禁止の札で満ちた 砂の惑星さ」とはこのような意味だったのではないでしょうか。
・ぶっ飛んで行こうぜもっと
確かに「混沌」という言葉が持つイメージに、多様性という言葉はそれなりの強度でマッチするでしょう。多様性が低いよりは、高い方が「混沌」には近い。しかし…そうは言っても、失った多様性を再び取り戻すためにはどうすればいいのか。言うは易く、行うは難し。
そもそも、ただの多様性だけでは本当に混沌という言葉に近づけているのか?是非、頭の中に思い浮かべてほしい。8*8のタイルに様々な色が乗っかっていたとして、それは混沌と言い切るにはまだ程遠く、むしろ秩序とさえ言えるのではないか?
うーん。しまった、振り出しに戻ってしまった。
困った時は、歴史に聞くのが一番!経験者に頼るのが楽です!ということで偉大なる先輩たちをお呼びしました!!どうぞ!!
突如として化石記録が爆発的な多様化を起こしたカンブリア爆発!!
正しく混沌の時代を生きてきたカンブリアモンスターから代表してアノマロカリスさんです!!
──えー、本日はインタビューよろしくお願いいたします。
ミ◕=ノ乀=◕彡 <はい、よろしくお願いいたします。
──では、軽く自己紹介を、どうぞ。
ミ◕=ノ乀=◕彡 <アノマロカリスです。なんかポケモンの元ネタになってる奴です。まろんって呼んでもらえると嬉しいです。
──まろん…?ゴホン、カンブリア爆発といえば、一般的にはある時期を境にして爆発的に化石記録の多様化が進んだ事を指しますが、まろんさんは、ズバリ原因はなんだったと思いますか?
ミ◕=ノ乀=◕彡<うーん、一番大きいのは「め」ですかね、やっぱり。
──まろん…?め…?まさか、僕が敬愛し、vocanoteを書くきっかけを作ってくれた人。時に脳死で感情的な感想をするかと思えば、時に真面目にドラム解説をする唯一無二の存在。リスナーの敷居を下げようと日々啓蒙をし、シーンや作品により多くを還元できるように努力し続ける公式生放送にも呼ばれたプロボカロリスナー、めさんですか!?!?(宣伝)
ミ◕=ノ乀=◕彡<誰ですか?それ。カンブリア紀にそんな奴居ました?そうじゃなくて「眼」ですよ、「眼」。
──失礼しました。あまり直接的に関係しているイメージがありませんが、眼…というと?
ミ◕=ノ乀=◕彡<「眼が誕生したからじゃね?」って僕らの仲間内ではよく言われているんです。元々多様化はある程度進んでいたんですけど、「眼」の誕生によって捕食者の効率が上がったので、見つかっても食べられないように硬組織を獲得せざるを得なくなったんです。だから化石記録が増えた。
──なるほど。それをボカロシーンで参考にするとなると…どうすればいいと思いますか?
ミ◕=ノ乀=◕彡<難しいこと聞きますね。あまり脳が発達してない生物にそういうこと聞くのよくないですよ。それブレインハラスメントですよ?僕はいいですけど…まあ、強いていうなら「競争」じゃないですか?
──競争が、多様化に繋がると?
ミ◕=ノ乀=◕彡<はい。先ほど僕らの時代は眼が誕生したことにより捕食者の効率が上がったと言いましたが、それはつまり競争が激化したということです。(僕は捕食者なんでうまうまでした)食べられないようにトゲ生やしたり、じゃあ逆にどう食ってやろうかとイタチごっこが始まって。そういう個性的な奴らだらけなんで面白いんです。
──確かに皆が個性的じゃないと全体として魅力的に映りませんよね。だからこそ皆さんも人気なわけで。
ミ◕=ノ乀=◕彡<いやいやそんな(笑)でもやっぱり競争が激しいと、普通のことしてたら埋もれてくんで。全体に個性が出てくる様になるんじゃないかなって自分達を見てても思いますね。
──え-、本日は貴重なインタビューありがとうございました。それでは、さようなら。
ミ◕=ノ乀=◕彡<さようなら。アノマ…あっ まろんでした。
ということで、偉大なる先輩が光スイッチ仮説を元にアドバイスをくれました。あくまで有力な仮説の域を脱し得ないので、どれだけ正しいのかは分かりませんが、参考にするには十分なほど合理性はあります。
進化的軍拡競争の結果僕達はちょっとだけワガママになんのさ オーライ?
ということですね。多様性や個性を伸ばすにはどうやら、競争原理が手っ取り早い様です。多様性が激しい競争の力によってかき混ぜられることによって、カラーパネルの様に整えられたカラフルではなく、初めて混沌としたマーブル模様になる。
彼は攪拌という言葉を用いていましたが、シーンに遊び心や自由さを取り戻させて個性や多様性を復活させる為に、敢えて必要悪的なニュアンス(※4)で競争意識を取り戻そうとした。言うなれば捕食者になったと。
この競争意識についても、同じ時代に名を揚げたボカロPの多くが同じような感覚を共有しています。
そしてハチ本人も、例に漏れず。
彼にとって、当時のボカロシーンとは。ニコニコとは。
「ライバルと高め合える場所」だったのでしょう。
身近に比較対象が存在することで、鎬の削り合いが起きる。そうやって初めて、強いオリジナリティが得られる。それが重なって、シーンに多様性がもたらされる。だからこそハチは、そのようなコミュニティの力が薄れることに強い危機感を抱いていた。
本当にそうなのかって思いました?
では、例のサンプリング(引用)パートにおいてサンプリングではない、つまり「彼の言葉」を見てみましょう。
よーいどんとで始まるこれが競争でなくてなんなのか。
ぶっ飛んで行こうぜもっとからも、彼はやはりボカロシーンから競争意識が失われたことで個性と多様性がなくなり、刺激が足りない事を指摘していると考えられるでしょう。
また不自然なエイエイオーからは、コミュニティの結束への意識が感じられます。
よくこれを、「え?あぁ、そう」と「おこちゃま戦争」のサンプリングと言う人がいますし、初音ミクwikiにも載っていますが…彼はボカロ界の金字塔となった曲を引用していると発言しています。(※14)私もこれらの曲は大好きですが、正直文脈として弱いと思いますよ。
そして「混沌」の正体である「競争」と「個性」こそが、ハチがリスクを取ってでも当時のボカロシーンを砂漠と例えなければいけないと考えた理由だと私は考えています。
・「美しいもの」とは
以上を踏まえて3番を再度参照してみると、彼がボーカロイド=音楽とYoutuber=動画コンテンツという、一見比較対象として相応しくなさそうな物を比べている理由も分かってくるのではないでしょうか。レッドオーシャンな市場において常にパイの取り合いをしている、つまり強い競争原理に晒され個性に溢れている場所だからです。
「混沌」の意味が分かったところでもう一度18番を参照すると、もののけ姫を例に出して、混沌な場所からでないと美しいものは生まれてこないのではないかと危惧していたハチですが、では、その美しいものとは何なのか。先ほどの「混沌」を考えると、この美しいものとは競争の先にある様です。
19番と20番からは、彼の「難しいことが美しい」という価値観が伺えます。
21番と22番からも彼はありのままであったり、ブランド化や権威化といった現状維持する態度を強く嫌っており、あくまでレジスタンスな立場で常に挑戦を続けるストイックな姿勢と美意識が見てとれます。
先ほど「難しいことが美しい」と言いましたが、しかしそれは何も、ギターの速弾きみたいな話ではないんですよ。その思想は「砂の惑星」であり「ラピュタ」であり「メルト」であり、「お姫様は電子音で眠る」に強く表れています。
「天空の城まで僕らを導いてくれ」
これなんだと思いました?ただの表現?いえ、間違いなくジブリです。
米津玄師はジブリから強い影響を受けたことを公言しており、飛燕という楽曲も風の谷のナウシカに影響を受けて制作されました。上記の文から読み取る、彼の言う美しいものとは、現状に満足したり維持しようとすることなく常に挑戦的であり、オリジナリティや文脈などの深みを持たせ、尚且つ普遍的なもの。クリエイティブに関わる人ならば誰しもが一度は考えなければならない問題でしょう。その過程こそが難しく、だからこそ美しい。
唐突ですが、この楽曲「砂の惑星」の英題はDUNEといい、フランク・ハーバートの小説Dune(邦題:デューン 砂の惑星)がモチーフとなっています。史上最も偉大で影響力のあるSF小説の一つとされ、世界で最も売れたSF本の一つにも数えられます。スター・ウォーズやアバター、風の谷のナウシカさえもこの作品の影響下にあると言われています。SF界の長老と呼ばれるロバート・アンスン・ハインラインはこの作品を「powerful, convincing, and most ingenious.(力強く、説得力があり、最も独創的である)」と評しました。映画化が困難な程に細部まで徹底した世界観を持ち独創的であるにも関わらず、デューンは最も多く売れたSF本となり多大な影響を与えてきました。そして現代に至っても映画化を試みる監督は後を絶ちません。それも全て、その独創性に圧倒的な魅力が詰め込まれているから。
ここでいう「天空の城」と「砂の惑星」は、オリジナリティと普遍性を兼ね備えた、創作物として非常に強いバランス感覚を有した強い影響力を持つシンボルなんですよ。そして、それは同時に、ボカロにとってはメルトでもある。
先ほどでは、彼は邦楽のフィールドでやりたい事があるのでボカロを誰でも楽しめるものではないとしていますが……ここでいう文脈をボカロというシーン自体にした場合、話は変わってきます。如何にボカロの文脈──必然性──を持たせたまま、普遍的なものを作れるか。独自の魅力、言い換えれば"ボカロらしさ"を残したまま、どこまで門戸を大きくし続けられるか。
3番で彼は相対的な評価を強く意識していますが、それは"ボカロらしさ"を失ったシーンの魅力とはどこにあるのか。どれだけ絶対的な評価で“ボカロはいい”と思っている人がいても、多くの人間にとってはそうではなく、数ある娯楽の一つでしかない。ボカロらしく尖っていない、“VOCALOIDを使ってるだけの音楽“では誰が入口にしてくれるのか、あるいは聞き続けてくれるのか。どれだけシーンに還元できるのかという問題提起なのです。
ファンモンがどれだけ売れたって、ファンモン聞いてHip Hop聞き出す奴なんかほとんど居ないんですよ。”良い曲”なんてありふれている今日日、「空の蒼さだけ愛して居ようぜ」なんて簡単で間違い無い事じゃ足りない奴らのためにボカロはあるんじゃないのか!?
そして最後のセルフサンプリング「思い出は電子音」はハチの現存する最古のボカロ曲、お姫様は電子音で眠るです。肝心の「天空の城ラピュタ」はスタジオジブリという体制での初めての作品であり、ジブリとはサハラ砂漠に吹く熱風を意味するイタリア語で(本当はギブリ)、日本のアニメーション界に熱風を起こそうという思いが込められています。
それは「メルトショック」から「お姫様は電子音で眠る」に繋がれたように。まず誰かにとっての「メルトショック」があり、それはまた「砂漠に吹く熱風」でもあり、「砂の惑星(DUNE)」でもある。そうしてそれが誰かの初期衝動を掻き立て「驚天動地そんで古今未曾有の思い出」へと繋がれていく。
「天空の城」には、そんな独創性──ボカロらしさ──を保った上で、普遍性を兼ね備えたシーンにこそ人は誘われるのだと。そんな祈りが込められていたと解釈することができます。
・VOCALOIDの必然性
さて、ここまでの流れを実際のシーンと紐付けて見てみましょう。
2014~当時のシーンとなると、wowakaから派生したような高速ボカロック全盛の流れも落ち着いてきます。それに代わって浮上してきたのがn-bunaやOrangestarを代表とするポップスや、シャルルなどの“ボカロらしくない曲”の流れ。(参考↓)
そしてボカロと同じくらいの歴史を持つ”歌ってみた“ですが、ニコニコの数字だけで見てもアスノヨゾラ哨戒班(ウォルピスカーター)、シャルル(メガテラ・ゼロ、本人cover)など同時期の歌ってみたシーンは豊作の時期でした。実は神話入りしている11作中の7作が2014~2017年投稿。全体で見た時も上位30作中、同時期投稿数は20作にも上ります。VOCALOIDを見てみても、2014〜2017年投稿作品は神話入り15作中4作に上位30作中8作と、同時期の歌ってみた作品の人気は比較的高いと言えるのではないでしょうか。そんな時期を経て2017年からは、ボカロ曲のセルフカバーやボカロ発アーティストが今までより勢いを持って輩出されたり、ボカロ外で”ボカロ文脈”を持つような曲が増えてきました。ボカロではない曲が"ボカロらしく"、ボカロ曲が"ボカロらしくない"。ハチが当時参照していたと思われるランキングも、トップは結月ゆかりの色彩カバーでした。境界線が壊れ、兼ねてより見て見ぬ振りをしていた問題と相対せねばならない時期だったように思えます。
人間でいいじゃん。
これまた私の敬愛する方のブログなのですが、この”ボカロらしさ”というのは「必然性なきVOCALOIDはVOCALOIDたりえない」という話なのです。(ちょっと前までTwitterあったのに今見たら垢消えてたンゴ…(´;ω;`))
この話をするには遅かったのではなく、むしろ砂の惑星は少々早すぎたのではないか。いやまあ、警鐘というのは早いに越したことはないのかもしれないけれど、早すぎるのも考えものかもしれません。ニコニコという強い境界線に守られ…ミクさんが優しすぎたばかりに我々もまた、優しくなりすぎていたのかもしれません。(いや、俺は優しいミクさんが好きなんだが…?)
皆口を揃えたように“VOCALOIDを使ってさえいれば”と言いますが、音楽カテゴリー「VOCALOID」とは……いえ、広く受け入れられてきた「ボカロ曲」とは、本当にVOCALOIDを使っただけの曲であったのか?この16年の轍には、初音ミクの息だけ、あるいはそれすらもないものなど挑戦的で面白い作品も存在しますが、それも初音ミクという大きな文脈ありきに感じます。
例えば『安室奈美恵 / B Who I Want 2 B feat. HATSUNE MIKU』や『BUMP OF CHICKEN feat. HATSUNE MIKU「ray」』はあくまで”VOCALOIDとアーティストのコラボ作品”という受容だし、他に純粋なボカロ曲としてもHoneyWorksや『Porter Robinson - Sad Machine』など、一般的なボカロの文脈外の曲、つまり広く認知される「ボカロ曲」と「VOCALOIDを使った楽曲」には大きな感覚の隔たりがあるでしょう。(後者は海外の曲なので純粋な比較対象としては相応しくはないかもしれませんが。)
ロックが何度も殺されるように、「ボカロ」にもまた魂があるのではないだろうか。魂を抜かれ形骸化した「ボカロ」は、物好きの趣味とボーカリスト事情以外の大義を持たず、替えが効くようになる。それは仮歌マシンへの立ち返りを意味する。ハチはこれを新たな文脈が生まれ続けないとして危機感を感じていましたが、ボカロシーン自身が自らの価値を新たに定義、つまり刷新し続けないと、それは既存の音楽をボカロに歌わせただけのもの、一般的に見ればそれはただの劣化コピーなんですよ。
今度は砂の惑星でサンプリングされた曲たち(電子音以外)を深く見てみましょう。
メルト
マトリョシカ
パンダヒーロー
ワールズエンド・ダンスホール
モザイクロール
千本桜
チルドレンレコード
ボカロが共に成長してきたニコニコ動画は、あくまで動画投稿サイトという特性を持つ以上、ボカロの歴史はMVと切っても切れない関係があります。
その上でこれらの曲を見ると、ボカロのキャラを元にしたイラスト、アニメMV、強いストーリー性や世界観、VOCALOID向きの高速や高音歌唱、ハイコンテキストにダークな歌詞等という“ボカロらしさ”のいずれかが見てとれるかと思います。未だに“ボカロっぽい”と言われるものにはこれらの要素が大きいです。つまりこれらのサンプリングされた楽曲は、“ボカロらしさ”の代表とも言え、ボカロのランドマークとして機能してきた曲たちとも言えます。
それと比較して2014~2017前後のボカロ曲には、反動と言える程極端にこれらの要素が薄い曲が頻出しています。思えばメルトの頃から「初音ミクは殺された」なんて言われ、カゲプロやkemu voxx前後の時代から既にMVにおけるボカロキャラクターの減少は指摘されていましたが、新しいものに批判はつきもの。これらの曲はMVや音楽性などのどこかしらにおいて“ボカロらしさ”を保ちつつ、同時にその時代における“ボカロらしさ”を更新し、押し広げてきた曲だと捉えることもできるでしょう。歴史に言及しながらも「みくみくにしてあげる」がないことや、kemuとれるりり等への言及がない点からも──メディアミックスの展開や、複雑で難解な歌詞というスタイルが後追いであることから──ここで重要視されているのは革新性でしょう。「カミサマネジマキ」と読み解くには少々疑問が残る「太古代のオーパーツ」という歌詞も、その時代で最も影響力があり最先端な曲たちと捉えられるでしょう。
そう考えると2014~当時のシーンは前の時代と比較して、遂に時代の代表格──最もポピュラーで、シーンのスタンダードを提示する存在──からも視覚的・聴覚的、あるいは歌詞などの内面においても”ボカロらしさ”が失われてしまい、シーンが自分らしさを見失ってしまったミッシングリンクだったとも捉えられるのではないでしょうか。そして再定義されることなく進んでしまったボカロシーンは、大きな文脈である“ボカロらしさ”という支柱を失いコミュニティとしての力を失ってしまった。
当時のぼからんは過去曲がとても多く上がってきており、明らかにコミュニティとしての力が機能していなくて"個"の時代だったと思います。彼は当時のシーンに対して裾野の狭さを指摘しており、”受け皿”として機能しないコミュニティの衰弱…つまり個の時代を憂いていたとも言えるでしょう。(※9)
これを考えると、当時既にゴーストルールやシャルル以降のシーンであることを明確に認識しながらも、ハチが警鐘を鳴らしたことが納得できるのではないでしょうか。ゴーストルールやシャルルは悪くはない。悪くはないが、まだ足りない。彼はあくまで”個の音楽”ではなく”集団の音楽”に拘っているんですね。トップだけではなく、ボトムの問題でもあると。彼はあの時代を、ボカロが必然性を保てる分水嶺として、手遅れになる前の最後のタイミングだと考えていたのではないでしょうか。
実際にニコニコでも盛り上がりを取り戻しつつあった2016~2017にかけては、上位の再生数ではなく全体の動画投稿数に焦点を当てると減少の一途をたどっており、緩やかに減少が止まるのはそれから後の話になります。
(※ここでは特に文化を支える若者に焦点をあて、ともすれば痛々しくもありキッチュですらある“ボカロらしさ”を重要視していますが、決してボカロらしくないボカロ曲の価値を毀損しているわけではないことをご理解ください。ただそれらの潮流はあくまでオルタナティヴなものでないと、例えヒットしたとして多くの人は曲単体にしか興味を持たなく、文化が先細りしてしまうのではないかという話です。)
さて、ここまでで何度も触れましたが、ハチが伝えたかった事とは混沌=“多様性と競争意識が共存し、高め合えるコミュニティとしてのボカロシーン”が薄れつつあること。つまりシーンの散逸化(砂場から砂漠への広がり)に危機感を抱いており、だからこそニコニコ動画という、ランキングやタグが存在しコミュニティの境界が可視化された場所をシーンの中心地に据えようとしてると推測できました。
次章では、他の視点からもこのコミュニティについて考えていきます。
交わるミライ
この視点で深堀りしてる人を見たことない!それとも僕が知らないだけでわざわざ語る程もない共通認識だったりしないですよね。ここが一番面白いのに…特別詳しい訳でもないですが言語化してる人が居なさすぎるので僕がやるしかないです。
・Hip Hop
トラックだけでなくMVからも決して見逃せない要素があります。それはHip Hopです。砂ミクのファッションを見ればハチが単純にサウンド的な理由でHip Hopを参照していないことは一目瞭然です。これは音楽的な面だけでなくマインドの話にもなってきます。俗っぽい聞き方にもなるので言語化してくれる人は少ないのではないでしょうか…彼は10番にてHip Hopが持つビート感や作品の広がり方をフックアップしたかったと発言しています。詳しく見ていきましょう。
先ほどハチは「競争」を再び激化させようとしていたという結論に達しましたが、そんなことをずっと続けるのは無理なんじゃ?ボカロやニコニコが生まれたばかりでブームだっただけでは?と思う人も居るのではないかと思います。
いやいや、そんなことは。生まれてから早50年、ずっとバチバチで居続ける、いや、バチバチであること自体が一つの楽しみ方である音楽があるんですよ。それこそがHip Hopです。その側面を煮詰めた様なものがMCバトル。代表的な例は映画『8Mile』です。黒人意識の根強い地域とHip Hopにて、主人公が白人である故のアウェイな環境をラップのスキルで黙らせるカタルシス抜群の激熱ストーリーです。他にも、フリースタイルブームで馴染みのある方も居るのではないでしょうか。
ラッパーにとってスキルはめちゃくちゃ大事で、やることやってる奴の方がやっぱりカッコいいので皆スキルを磨く。といってもそれが全てではなくて、リリックや生き様にファッションなどあらゆるトピックで競い合う。“上手い奴”や“凄い奴”じゃなくて“カッコいい奴”が正義であり勝者っていう価値観。半端な奴じゃ生き残れないからこそ、一握りの"本物の才能"が出てくる。
先ほどピノキオピーが、かつてはまるでゲームのようにランキングを楽しんでいたと言っていましたが、それそれ。正にそれ。Hip Hopでは競争の激しい業界のようなニュアンスで「Rap Game」という言葉が使われます。皆で競い合って高め合っていく厳しい世界だからこそ、賛否はあれど刺激的で唯一無二の価値”Hip Hopらしさ”があるんです。
海外のシーンは巨大すぎるので、ここではちょっと日本のHip Hopシーンを見てみましょう。
かつてVOCALOIDには焼け野原と呼ばれる時代がありましたが、日本のHip Hopには冬の時代がありました。焼け野原を代表する曲が「初体験」ならば、冬の時代は「越冬」です。
ここで大事なのはこれらの曲の歌詞です。これらの曲は停滞期ということもあって明らかにそれぞれの”シーン”を意識し言及しています。これこそが大事なことで、Hip Hopのメインストリームは、”シーン”の存在がまず前提としてあるジャンルなんです。ニコニコ動画なんて可視化されて分かりやすい境界線がなくてもコミュニティを保持しているのがHip Hop。競争をするには相手と場が必要ですからね。ではHip Hopはどのようにしてそのコミュニティを維持しているのか。
先ほどから僕はやたらと自分のnoteについてのルーツや好きな曲を散りばめておりますが…。Hip Hopではサンプリング(引用)やネームドロップ(他者の名前を歌詞に入れる)と言ってルーツやリスペクト、自らの価値観を示せる手法が多く取り入れられています。彼らは如何にオリジナリティを出せるか常に競い合っていますが、それは過剰なオリジナリティ信仰のように0から1を作ろうとするのではなくて、誰かが見たことのあるものを掛け合わせて新たなオリジナルに仕立てるんですよね。というより、過剰なオリジナリティというものへの信仰を捨てきってしまってるので、かえって発展が速くて新たなものが生まれるとも言える。だから自分のルーツやリスペクトするものを大っぴらにすることに躊躇がない。むしろこれ見よがしに提示する。"それも含めて俺"っていうスタンスだから。
例えば上に挙げた曲では自分が影響を受けたラッパー達をネームドロップしリスペクトを表明しています。他にも、例えばトラヴィス・スコットはキッド・カディの本名からScottを取ったし、ケンドリック・ラマーの「To Pimp a Butterfly」は元々2PACにリスペクトを表して「Tu Pimp a Caterpilla」(Tu-PAC)であったし、¥ellow BucksはTOKONA-Xの「トウカイXテイオー」を踏襲しヤングトウカイテイオーと名乗ったりする。そして彼らは"シーン"を重んじる以上、シーンを創り出した人やシーンを守ってきた人には大きなリスペクトを送ります。
Hip Hopではリスペクトやルーツを公にすることで、この様に文脈を連綿と繋ぎ、Hip Hopとは何か、境界線はどこかを示し続け、コミュニティの中心地と範囲を定義し続けていると捉えることもできます。また先も触れた競争力も相まって、ダサいラッパーやHip Hop要素が薄かったりするとWackやSucker、Fake、Pop等と言われ、まるで頑固なロック親父の様に口うるさく排斥してこようとする閉鎖的で伝統的な面が強いとも言えます。しかし悪い面だけでなく、ある意味で厳正な審査がある代わりにその強い枠組みの中、あるいは外で競い合える。型があるからこそ、それに対して自由を得られるんですね。
ですがそれは本質ではなく…閉鎖的で伝統的であると同時に、Hip Hopはある側面も有しています。
「ブレイクビーツ」を開発したDJクールハークはこのように語っています。
また、Hip Hop WEBマガジンである「playatuner」はHip Hopの本質を『新旧の融合』であり『ヒップホップの本質とは「過去から学んだ知識を使用し、新しい感性を足し、人を踊らせるループ/音楽をつくる」ことだ』と考察しています。他にも、日本語ラップのパイオニアらはHip Hopについてこのように言及しています。
Hip Hopは常に様々なものを取り込みながら、変化し続ける音楽でもあります。「N*ggas be pushing 40 still tryna rap. N*gga it’s time for jazz(40なのにまだラップしようとしてる。もうジャズをする歳だよ)」なんていう“ジャズは大人の、Hip Hopは若者のもの”という固定観念のジョークがあります。あくまでジョークではありますが、ステレオタイプとしてこのジョークが示すとおり、Hip Hopは常に歩みを止めぬことでユースカルチャーであり続けています。
歴史を遡ってみると、今では当然の様に扱われている「Flow」(ラップにおける歌い回し。リズムの乗り方)という概念をRakimというラッパーが生み出したと主張する人も多いです。彼はジャズから強い影響を受け、当時単調であったラップに流れるようなグルービーな乗り方を提示しました。それだけではなく、リリカルな歌詞など多くの面で強い影響を与えました。その結果、現在では彼の影響を受けてないラッパーは居ないと言っても過言ではない程。このようにHip Hopでは、コミュニティの中で皆が頂点を奪おうと競い合っているので、皆がこいつはカマしてると認識すると、そのスタイルは皆が自分なりに取り込もうとするから"型"となってシーンに共有されます。そしてアレを超えるには…!?と競争意識の元、次々にシーンの中で相克が起きる。そうやってHip HopはこんなんHip Hopじゃない!と言われながらも、ギャングスタ・ラップやダーティ・サウスなど他にもたくさん、常に新たなスタイルを生み出してHip Hopらしさを更新し続けてきました。
つまりHip Hopとは、過去に学びルーツや先人をリスペクトし提示することによって空中分解せずにコミュニティを維持しつつ、その枠組みを守って競争することによって多様性を生み出しながら、Hip Hopらしさを如何に残しつつもシーンやHip Hopの枠を拡大できるかが両輪となって、常に議論できるシステムが出来上がっているとも言えるでしょう。
(※これらの文はハチが参照したであろう、当時のなにがHip Hopかどうかがまだ議論されていた2016~2017年前半頃のシーンを参照して書かれています。2017年上半期にはHip Hopはロックの売り上げを超えて世界で最も売れるジャンルになり、どんどん肥大化し輪郭を失っていきます。以後のシーンは過激さを増して6ix 9ineやLil Pumpなどが登場し、その状態がバランスをとれていると捉えるかは人次第だとは思います。)
この思想は「砂の惑星」にも表れてると捉えられます。
ルーツやシーン、影響元をリスペクトする思想はサンプリングパートや、スタジオジブリからデューン。更にデューンは映画「アラビアのロレンス」にインスパイアを受けている為、アラブ音楽要素にも表れていると考えることも可能です。
そして競争意識の元にシーンをアップデートし続ける思想は、Boom BapやG-FunkといったN.Y.とL.A.を中心とする東西海岸に次ぐ"新たな文脈"の象徴として、スカスカな音楽だと言われ続けてきたサウスのTrapに表れているとも捉えられます。他にも3連符はMigosの「Versace」以降のMigos Flowの影響下にあると考えられるし、ファッションに関しても旧態依然としたダボダボではなく、諸説あるがYoung Thugがゲイと(女々しいと)言われながらも流行らせたと自認するスキニーを履いています。
またサンプリングパートなんてもろで、例えば初音ミクを殺した「メルト」。あるいはボカロキャラを捨ててメディアミックスを推し進めた「チルドレンレコード」(カゲプロ)。これなんて正にHip Hopは死んだ。だったり黒人の権利を主張するのをやめて商業的になっちまった。ってのと似てます。時に批判されようと、シーンを再定義すべきという思想が垣間見えます。
つまりこれはただのHip Hopとの接近ではなく、彼はHip Hopをお手本として……いえ、かつての混沌としたボカロシーンと重ねて参照したと言えるでしょう。このようにハチがフックアップしたかった文脈、つまりHip Hopにおける作品の広がり方とは伝統性とゲーム性であり、そこから派生する発展性や革新性だったのではないでしょうか。だとすれば2014,5年前後のミックホップのムーヴメントをカウンターとして持ち出すのは微妙で、ハチが参照したのは古いHip Hopが持つ音楽性というよりは、Trapまで含めたそのイズムとゲーム性の意味合いが強く、存在するだけではなくちゃんと競い合って結果を出さなければいけないのですから。一応「初音ミクの証言」へのディスソング(削除済)やミックホップ自体へのディスなどもないことはないのですが…
先ほどは「越冬」からHip Hopシーンの話をしましたが、今度は「初体験」からボカロシーンの話をします。「歩んできた歩幅の数 Remember 私の声は未来志向なアンタ達の万歩計にゃ届かないの?」こちらも同様にシーンへと問いかけるような歌詞ですが…
では次に初音ミク10周年に書き下ろされた楽曲達を見てみます。
お、多い!!示し合わせたかのように”場”への言及が多い。ボカロもまた、Hip Hopと同様にシーンの存在を重んじ、前提としているようです。ハチの発言や思想…つまりHip Hopにおけるディスやビーフのようなものも、逆説的にシーンや他のクリエイターの存在を前提としています。むしろボカロやニコニコ風に言ってしまえば、ある意味”創作の連鎖”ですね(※6)
同様の指摘は文化系のためのヒップホップ入門(著:長谷川町蔵/大和田俊之)やそれに連なる形で日本生まれの初音ミク、アメリカ育ちのヒップホップにも存在します。当記事ではここでの”場”という言葉を、分かりやすくシーンと言い換えています。しかしHip Hopと違うところは、ボカロシーンではこのようなことを自ら積極的に言及したがらない。今だとプロセカなんかがランドマークとして機能してくれてる面が大きいと思いますが、節目を記念した曲やマジミラテーマソングくらいでしか曲を介して語られることが少ない。
コミュニティを維持する為の仕組みが、ニコニコ動画という境界線とタグやランキングシステム、あとは公式の動きにほぼ依存してるんですよね。
彼は内部から歴史を執筆してくれる人を欲していましたが(※1)、彼がHip Hopにおける曲の広まり方をフックアップしようとしていたことを考えても、つまりはサンプリングやネームドロップの様にボーカロイドにも自ら歴史を伝え、文脈を繋ぐ手法がもっと一般化することを願ってたんだと思いますよ。
これは完全なる推測でしかありませんが、彼はボカロの外でボカロ出身の看板を背負ってきた自分にしか見えないことがあると言っていましたが、恐らくはえらく悔しい思いをさせられたんじゃないかと思います。(※8)
ボカロの魅力をシーン自体が十分に理解しないままに斜陽を迎えて、周りにはこう言われる。「ボカロって流行ったよね」「ハチ”は”凄かったね」って。俺の故郷はそんな単純なものじゃなくて、もっと面白いのにって。
提供曲に100億%の曲でオタクに応えることで定評のあるあの米津玄師がこんな曲を作ったってことは、相当な厄介オタクの証拠でしょう。
・コミュニティとは
先ほどから何度も敢えてコミュニティ、コミュニティと言い続けていますがなんだか曖昧でピンと来ないと言う人も多い筈。
ここで言うコミュニティとはなんなのか。何故シーンを重んじるのか。
Hip Hopにはフックアップやfeat.、ネームドロップにビーフ等、他者との関わりが多く、同じシーンを共有する隣人が存在する感覚が非常に強いです。
それは何故か?
誤解されがちですが、Hip Hopが音楽ジャンルであるというのは半分正解で、半分間違いなんです。
Hip HopというのはDJ、ブレイクダンス、グラフィティ、MCを総称した"カルチャー"の名前であって、Hip Hopミュージックというのはその一部でしかないんですね。またラップという歌唱法も更にその一部でしかなくて、ラップ=Hip Hopではないし、Hip Hopミュージック=Hip Hopでもないんです。ラップしないHip Hopもあるし、もっと言うとラップの起源はHip Hopよりも前に遡ります。
(広義ボカロと狭義ボカロみたいな話なんで…面倒くさい人に怒られるだけなので、いなすか殴り返すか好きにしてください!)
彼らが繋いできた伝統とコミュニティとは、カルチャーとそこに集う人々でありそのイズムだったんですね。どんな音楽も一定の文化的背景は持っていると思いますが、特にHip Hopはこの音楽で繋がること自体がカルチャーでありその一環なんですね。
度々これを伝えてくれる人が居るから、Hip Hopはその中心地をどっしりと据えながらも輪を広げ、人々を繋ぐことができるわけです。これも何度も言ったことですが…では、一方ボカロは?
かつてwowakaは、大変興味深い発言をしていました。
ボーカロイドの本質は人の繋がりなのではないかと。
ボカロはCGM(消費者生成メディア)やUGC(ユーザー生成コンテンツ)、俗に創作の連鎖やn次創作等とも言われるものが強みでもありますからね。
同じような事は、皆ももう何度も聞かされてきたはずでしょ?
・Not music,but culture
ハチは明らかにボカロを、ただの音楽ではなくボカロ曲を中心としたムーヴメント、文化として捉えています。(※12)
彼は収録アルバム「BOOTLEG」を関係性のアルバムだと言っていますが、それを踏まえて初音ミクを取り巻く”関係性”を考えてみると…(※16)
そもそもメルトショックからして、メルトが後のボカロ曲に大きな影響を与えた…のももちろんそうなんですが、総合ランキングにメルトの歌ってみたが大量発生した事件のことですからね。DJ、ブレイクダンス、グラフィティ、MCなんて言い換えたらほとんどボカロカバー、踊ってみた、PVつけてみた、歌ってみたみたいなもんですし。「どこにも行けなくて墜落衛星」ってのもきっとそういうこと。
初音ミクの誕生日である8/31に当楽曲を配信開始した癖して「そういや今日は僕らのハッピーバースデイ」になんの意味も込めてないと思いますか?
投稿日が同じリンネ…?“僕らの”では無理があるでしょう。毎日ボカロ曲が生まれてる!everyday birthday!ってのも無い訳ではないですが…だったらそう言いませんかね。
7/21ってのはクリプトンの設立記念日なんですよ。
LEONじゃない。LOLAじゃない。MIRIAMでもない。
ハナっからただの音楽じゃなかったんですよ。だからこそハチはVOCALOIDをHip Hopと重ね合わせた。
その中には当然、ボカロPを辞めてく人も居る。
でも、同じくらい新しい顔だってやってくる。
中にはもちろん、ボカロを介して出会いが訪れることだってある。
日本語ラップを代表する曲に、こんな歌詞があります。
音楽をやってなくたって、伝えることはできる。
曲を作らなくても、参加できる。
そこにいるのはミュージシャンや音楽アーティストではなくて、“みんな”なんです。
みんなで創り上げるんです。
Hip Hopは、そう。じゃあ、ボカロは?
だからこそ彼女を、僕らを祝福するケーキの真の姿は、甘ったるいだけのケーキではなく、有象無象の墓で形作られる。そんな表面的なものではないのだから。「思いついたら歩いていけ 心残り残さないように」ってのはボカロPだけじゃないんですよ。
お前だよお前!!!!
俺もそうだし、見てるあなたもそう。絵でも踊りでも文章でも、なんでも。こいつは参加型なのさ!でんぐりがえしそんじゃバイバイってのも、"にんげんっていいな"なんてまんま人間賛歌ですよ。ビバ文化!
そりゃハチと米津を区別もできないわけだ。(※7)振り返ってみたら、身体性を排除した筈のハチはしっかりと人間でしかなかったのだから。
よく「後は誰かが勝手にどうぞ」なんて言ってないでお前が引っ張れよって言う人いますが、いやめちゃくちゃ分かるんですけどね。
米津がめっっっっっちゃくちゃ忙しいことは置いておくとして、かつて東京に集中していた日本のHip Hopシーンに対して、名古屋のDJ刃頭はこう語っていたそうです。(※参考)
ハチが目指そうとする世界では、米津はあまりにもバランスブレイカーすぎた。ハチなんて知らねえって奴が出てくれるのに期待していたのも、あくまでみんなで盛り上がることに拘っていたという意味もあったと思います。
彼のスタンスは一貫して“個の音楽”ではなく“集団の音楽”。“ただの音楽”ではなく“カルチャー”だってことを言おうとしてるんですね。だから一部が盛り上がってるだけじゃ意味がない。
元通りまでバイバイバイって言ってくれてるし彼はボカロを辞めたつもりはないそうなので、何年先かも分からないけれど、ハチが引っ張らなくてもいいくらい面白くなってるって思ってくれたらまたやってくれますよ、きっと。
だって彼はビッグアーティストになった今でも、もう少しだけ友達でいようぜ。と言ってくれるし、しきりに「俺たちは同じ組織だ」って言ってくれる。
……え?聞こえない?
いやいや、10回は超えてるんじゃないですか。ずっと言ってくれてますよ、最初から。リンク貼りますからちゃんと聞いてくださいよ?
ほら…そろそろ聞こえてきました?
As far back as I can remember I always wanted to be a gangster.
俺たちは「Goodfellas」…同じギャング「VOCALOID」に所属する仲間だって言ってくれてるじゃないですか。
せっかくあのハチが俺たちは仲間なんだ!って一つになろうとしてるのに無視したらかわいそうじゃないですか。
まとめ
丁寧丁寧丁寧すぎて長くなってしまいましたが、そろそろまとめるとしますか。
ハチはボカロが一過性の勢いではなく、これからもずっとその勢いを取り戻すためにも、ボカロをただの音楽ではなくあくまでカルチャーとして、その枠組み──ボカロらしさ──の中で新たな歴史を刷新して欲しかった。そして、その文化を伝承しながら発展していくには、ニコニコが基盤として最適だと考えた。だからこそ彼はHip Hopを参照してシーン全体に発破をかけることで、競争意識を取り戻させてボカロシーンを“個の音楽”ではなく、もう一度“集団の音楽”を中心としたパワーのある共同体──コミュニティ──として機能させようとしたと。
分かりやすく言うと、最近のボカロ盛り上がってるのはいいけど綺麗にまとまりすぎじゃない?それってヤバいんじゃないの?ということですね。
こうすれば2017年のシーンへ抱く感想は人それぞれとしても、当時の流れと合わせても一般的な解釈よりはずっと納得いくようになったのではないかと思います。と、いうわけで砂の惑星の考察は終わりです。
煽りとしては意図が伝わりきらない方が成功なんだろうけど、あまりにも伝わってなさすぎんよ~~~
最後にマジミラの説明文をいくつか見てから…3つ程質問させてください。
もちろん、回答は人それぞれです。
あなたは「砂の惑星」がマジカルミライに相応しくないと感じますか?
あなたはボカコレを楽しめてますか?
ボカロの未来は明るそうですか?
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