【裏切りの物語】ロウワー 【MV・歌詞 考察】
】・はじめに
はじめまして、エイムと申します。
前書きを書いていたら大変長くなってしまったしまったので別記事に回して、端的(めちゃくちゃ長い)にロウワー(Youtube)の歌詞とMVの個人的な解釈や考察を書いていこうと思います。
この記事は「プロセカあんまり分からないけどロウワー大好き民」や「ロウワー言ってること全然分かんないけどプロセカ大好き民」などを対象とし、“プロセカ視点”を交えつつ歌詞やMVを考察していくといった趣旨になっています。
基本的には備忘録的な側面も兼ねているので、歌詞・MVで分かりやすく示唆されているものなどは既にYoutubeのコメント欄やTwitterで散見されるものと被り、まとめのようなものになってしまい既視感を覚えるものも多いと思いますが、しっかりと独自の視点も示していきたいと思っています。この記事がロウワーへの理解、好感度を深める一助となれば嬉しく思います。
※補足と新作出ました。
・注意書き
※この記事内にはプロセカにおけるネタバレ要素が多分に含まれます。
※筆者はプロセカを始めたばかりでまだ疎く、急ピッチで情報収集を行ったため、キャラやイベントストーリー、プロセカ自体に対する理解が浅い可能性があります。もし間違っていると思うことがあれば是非コメントを下さると幸いです。
※また、プロセカを知らない人にも向けて説明するので、知ってて当たり前だと思うところがあると思いますが、もしご存知でしたら読み飛ばしてください。
大きな流れとしてMVを見ながらモチーフ、プロセカ知識の解説を一通りした後、MVを通して考察をし、まとめとして歌詞全文の意味を読み解いていこうと思います。
長くなりました。それではいきましょう。
・モチーフ
この曲には各所で散々言われていますが、明確に読み取れるモチーフが存在します。
それは“キリストとユダ”です。
話題に上げられがちな“駆け込み訴え―太宰治”ですが、メインモチーフではなく、本軸に深く絡む程とても大きなインスピレーションを受けた上で、あくまで“キリスト(以下イエス)とユダ”に纏わる物語の内の一つとして参照したと私は考えています。
ではMV中に散見される“イエスとユダ”モチーフと思われる表現の解説に行きましょう。
イクトゥス(ΙΧΘΥΣ)
魔女の左耳に吊り下がっているピアス。パッと見わけがわかりません。とてもシンプルな魚の意匠をしており、あまりにもわざとらしく何かの意図が隠されてることは一目瞭然でしょう。
これはギリシャ語でΙΗΣΟΥΣ ΧΡΙΣΤΟΣ ΘΕΟΥ ΥΙΟΣ ΣΩΤΗΡ (イエス・キリスト・神の・子・救世主)の頭文字を取るとギリシャ語で「魚」を意味することから魚の形をとる、初期キリスト教徒の隠れシンボル「イクトゥス」(ΙΧΘΥΣ)でしょう。
迫害の恐れから信仰を表に出せない信者達が用いていました。魔女狩りがサブモチーフとして読み取れるMVとも共通点を感じますね。
トリケトラ
これはケルト人が用いたケルト文様(ケルティック・ノット)の一つで、ケルト人にとって大事な要素であった空・海・陸などを表しているとされています。19世紀のケルト復興期以降、キリスト教の三位一体を表すものとして解釈され、現代においても三位一体のシンボルである円と組み合わされるなどして三位一体の装飾的シンボルとなっています。
プロビデンスの目
すみませんいい素材なくて…
目が描かれた意匠で、プロビデンスはキリスト教の摂理という意味を持ち、神の全能の目を意味します。光背や、三位一体の象徴である三角形と組み合わせ用いられることが多いです。セカイver.(Youtube)のMVでは光背とプロビデンスの目に酷似したエフェクトが登場します。
光背と十字架
魔女の背後に普通では見えない光背が広がっています。仏教やキリスト教、その他の宗教芸術においてよく見られる、神性や聖性の象徴として身体から溢れ出る光を視覚化した表現です。
十字架は言わずもがな、イエスが人類の罪を贖うために身代わりとなり、磔刑にされたエピソードからイエスを象徴するものとして有名です。
2つの花
セイヨウハナズオウと白百合が、それぞれ黄メイド(以下メイド)と魔女に対応するように描かれています。
セイヨウハナズオウは特に欧米のキリスト教圏では「ユダの木」とも呼ばれ、ユダが首を吊った際に用いた樹木であると言われています。(ユダの木は聖書中に見られる表現ではなく、フランス語の「ユダヤの木」が間違って派生したものだと考えられています。)
白百合に関しては女性(魔女)に対応するように配置されていることもあって、聖母マリアを想像する方も多いでしょう。しかし、このMVではイエスをイメージして描かれていると考えられます。
キリスト教には「イエスの死と復活の後、十字架にかけられる前夜最後の祈りをささげたゲッセマネの園に、白いユリが現れた。イエスが祈りをささげた時に汗の雫が落ちたところに生えてきた。」という伝説があります。
この伝説を元にキリスト教西方教会では、復活祭(イースター)に白百合を飾る習慣があり、イースターリリーと呼ばれています。
また、フランスの象徴学者ミシェル・パストゥローによれば、ユリは1300年頃までイエスを描いたものに見受けられたが、次第にマリアを象徴するものとなっていった様です。
以上のことと、他のモチーフとの整合性から、以後当記事では白百合をイエスの象徴として扱います。
イメージカラー
MV中では、メイドには黄色、魔女には赤色がイメージカラーとして設定されています。
多くのユダを描いた絵画の中で、ユダは黄色の衣を着ている場合が多いです。
メイドはイメージカラーが黄色なだけでなく、衣まで纏っていてとても言い逃れはできそうにないですね。
キリスト教では赤色はイエスや殉教者の血の色などを表すことが多いです。
また、マタイによる福音書にはイエスは処刑時に赤い衣を着せられたと書かれています。このことから多くの絵画では、ユダが黄色の衣を纏うように、イエスは赤色の衣を纏うことが伝統的となっています。
さて、どうでしょうか。以上のことからイエスとユダをモチーフとしていることには納得頂けたのではないかと思います。
他にも鳩の形をとった聖霊やワインなどイエスをモチーフとしたディテールが存在しますが、大事では無いのでここでは端折ります。
では次にプロセカ視点の解説をしたいと思います。
・プロセカ視点
『ロウワー』の立ち位置
さて、ではプロセカ内でのロウワーの立ち位置について話していきたいと思います。
この楽曲はプロセカ内のインターネット音楽サークル『25時、ナイトコードで。』(以下ニーゴ)へ書き下ろされた楽曲となります。
プロセカの書き下ろし曲の大半には対応するイベントとキャラクターが存在しており、歌詞と密接に関係しています。
そしてもちろん、ロウワーにも存在します。
ではロウワーに対応するイベント及びキャラクターとは誰でしょうか……?
それはズバリ“暁山瑞希”及び、瑞希メインイベントです。瑞希本人の心情だけでなく、このイベントの内容全てが深くMV及び歌詞に落とし込まれています。
ではMVを見る前に瑞希の詳細説明をしましょう。
暁山瑞希(あきやま みずき)
プロフィールを見て分かる通り、瑞希にはサークルのみんなには隠している秘密があります。
瑞希の秘密とは…?それはそのままプロフィールに書かれています。
性別 :?
プロフィール上で唯一性別が?となっており、ニーゴメンバーにも隠されている秘密。しかし明言されているわけではありませんが、その秘密はあまりにも残酷にプロセカ内各所で示唆されています。
はい。はっきりとは言われてはいませんが、どっからどうみても瑞希の秘密はトランスジェンダーです。(ちなみに、瑞希の性自認や性指向は言及されておらず、その点において瑞希を定義付けるのは極めて危険な行為と言えます。)
見ててめちゃくちゃ辛かったです。キャラが生きてるってこういうことなんだ……生々しく傷ついてる……
他にも「体力がある」、「声質がみんなと違う」、「すぐお腹がすく」など、知らなければ無属性の個性と思う様なものまで、瑞希が生物学的には男性である故の性差が仄めかされています。(無論、あるいはただの個性かもしれませんが……)
瑞希がロウワーの主人公であるメイドでありユダに相当するのは、上述のセイヨウハナズオウがイベントガチャのバナー内にてロゴに採用されていることからも明白でしょう。
瑞希に関して詳しく知りたい方は、こちらの記事をオススメします。お二方のおかげで瑞希を深く知れ、好きになれました。この場を借りてお礼申し上げます。
https://koikokoromillefeuille.hatenablog.jp/entry/2020/10/25/201358
https://note.com/ariarip39/m/mabfb56effab4
では魔女は一体誰でしょう?
魔女は誰?
それはイベントガチャにて
ハーミット・リバース(瑞希)と相対する名前を持ち格別の待遇を受けているハーミット・サーチャー
東雲絵名だと考えられます。
ハーミットとはタロットの大アルカナである隠者のカードを指し、その絵は手に持っている灯りで先人の導きを与えていると解釈されます。
また、隠者の逆位置(リバース)は孤独などの意味を持ち、まさしく彼女はイベント「ボクのあしあと キミのゆくさき」にてそんな孤独を持つ瑞希に一つの道を照らす大きな役割を持ちます。
では次に、今まで瑞希にフィーチャーしてきたイベントの内容を軽くおさらいします。
今まで瑞希にスポットライトが当てられたイベントの中で、絵名との絡みがあるのは下三つのイベントです。
大雑把に解説すると
・シークレットディスタンス
└スランプに陥ってしまった奏の気晴らしにミステリーツアーへと発つニーゴ。その最中たまたま見つけた桜を前にして、今までの体験から諦観の中、刹那的な人間関係を構築してきた“気分屋瑞希”は、ニーゴのみんなと時間を共にしていく内に、いつのまにか来年もみんなと一緒に桜を見たいと思うように……しかし、みんなとずっと一緒に居るためには、いつか秘密を話さなければならない…?
・わくわくピクニック
└ミステリーツアー以降様子がおかしい瑞希。気分転換と同時に、近すぎない人間ならそれとなく悩みを聞けるのでは?と友人たちと共にピクニックを企画する絵名。しかし山中、絵名と友人の一人が急な斜面で足を滑らせてしまう。そんな二人を助けるために、雨の中お気に入りの服が泥まみれになるのを厭わずに必死に助けを探しに行く瑞希。
そんな瑞希を前にして、自分を助けてくれたように自分も瑞稀の悩みを知って助けになりたいと決意を深める絵名であった。
以上を経て迎える「ボクのあしあと キミのゆくさき」、軽く紹介へと入っていきましょう。
ボクのあしあと キミのゆくさき
ニーゴのメンバーが打ち上げの帰りにビビバス(他ユニット)のメンバーとたまたま出会うところからストーリーが始まります。
前回のイベントを受けて、より強く瑞希の助けになりたいと思う絵名は瑞希にお節介を焼いてしまいます。
それは例えば、瑞希のクラスメイトに普段の様子を聞いたり。例えば、瑞希に助けを求めるようにぐいぐいと歩み寄ったり。
しかし繊細な問題を抱える瑞希は、自分の管轄外で話が進むことや、気さくな友人間の一挙手一投足に“配慮”が覆い被さること、変化を恐れて悩みを打ち明けれずに絵名の助けを拒絶してしまいます。
何度歩み寄っても中々悩みを打ち明けてくれない瑞希に苛立つ絵名。
自分のペースじゃない速度で勝手に進んでいく話に心が付いていけない瑞希。
そして屋上で一人佇む瑞希に━━━
不穏な空気が漂います。
(絵名と瑞希は同じ高校に通っていますが、絵名は夜間制、瑞希は不登校により現実での接点はほぼありません。文化祭でも同様です。元々プライベートでは何度もお出掛けしたりしていますが、これはネット発の関係である絵名がリアルなパーソナルスペースに入り込みかけていることを意味しています。)
そして長きに渡り展開されてきた秘密を打ち明ける流れ、完全にCO(カミングアウト)の時が満ちた瞬間━━━━
MEIKOのアドバイスを受けた絵名は、全ての流れをぶち壊し、「秘密を打ち明けないといけない」と強く思い込んでいた瑞希に、「今はまだ打ち明けない選択」を提示し、「打ち明けるまでずっと一緒にいる」と言い放ちます。
絵名の真摯な態度からその本気さを知った瑞希は、自分を大切な友達だと思ってくれている絵名の思いにちゃんと応えたいと思うようになります………………
メイドでありユダである瑞希に新たな道を提示し導きをもたらした絵名は魔女であるイエスのポジションに相応しいと言えるでしょう。
(ちなみにこのシーン、声優さんの演技が圧巻なので是非ボイスありで聞いてみてほしいです。完全に世界に惹き込まれました。)
さて、以上でMVの考察に必要な前提知識の解説は終わりました。
これからは「イエスとユダ」「プロセカ」「駆け込み訴え」を元にMVを紐解いていきましょう!駆け込み訴えに関してはその度に引用していくのでご安心ください!
駆け込み訴えは聖書中で機械的な舞台装置のようであり、描かれなかったユダの裏切りの理由や心情を太宰治が想像して書かれた小説です。著作権が切れており青空文庫にてインターネット上で読めるので是非気になる方は読んでみてください。
それではLET'S GO!!
・MV考察
ラストシーンと全く同じ場所と展開から、冒頭のシーンはメイドによるラストシーンの回想が最初に流れていると考えられます。
メイドの孤立
「最後の晩餐」といえば多くの画家が描いてきたテーマですが、最後の晩餐と聞いて多くの人が一番最初に思い浮かぶのは、レオナルドの最後の晩餐でしょう。
実はこのレオナルドの最後の晩餐、ある点において革新的な面を持っています。
多くの最後の晩餐の絵画は、「一人だけ光背を描かない」、「一人だけテーブルの手前側に配置する」、「一人だけ黄色の衣を纏う」などの伝統的な手法でユダを明らかに区別して描かれています。
しかしレオナルドはそのような表現手法を廃し、ユダを他の使徒と同じように扱った上で、裏切りの象徴である銀貨を持たせることで区別化を図ったのです。
これら“ユダを区別化”する方法はロウワーMVでもこれでもかという程に描かれており、性的マイノリティを抱える瑞希に対応するように孤立(少数派)するメイドの様子が強調されています。
また、独り雨の中で濡れるメイドの様子から周りに助けを求めることができない彼女の内気な性格と、傘をさしてくれる友人がいない人間関係が見て取れます。
救い
そんな彼女を気にかけてくれる魔女。
内気な彼女にとって、半ば強引に自分の手を取って駆け出す魔女の姿はきらきら眩く見えたことでしょう。
その姿は我が事のように率先して友人の悩みを解決しようとする絵名の真っ直ぐな性格に重なります。
また、傘をさすのではなくただ一緒に雨に濡れてくれる様は、悩みを聞き出そうとせずに話してくれるまで待つ選択をした絵名の行動にも重なります。
あ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜、
堕ちてるわ
こんなん惚れないわけがないだろ、この人たらしが。いい加減にしろ………………
メイドにとって、自分を導いてくれる魔女は太陽だったのです。
緑の男は誰?
メイドが魔女を好きなことは明らかになったと思われますが、そんな彼女が嫉妬の眼差しを向けている相手は誰でしょう。
他の民衆にはない“十字架”を持つ緑の男。聖性を象徴していると考えていいでしょう。
魔女とメイドがイエスとユダの性別と対照的になっていることから、この男性はイエスの足に香油を注ぎ、それを自らの髪で拭った女性ベタニアの聖マリアだと考えられます。
メイドの裏切り
魔女の帽子にバツがついた魔女狩りの張り紙の前に立ちすくみ、同じ絵が描かれた表紙の書を持ち出すメイドと、誰かが貨幣を受け取る様子が描かれています。
魔女狩りの書は、ドミニコ会の異端審問官ハインリヒ・クラーマーによって書かれた論文『魔女の槌』が元ネタと考えられます。
15世紀の悪魔学に関する文献の大要と評されており、魔女狩りの手引きとして非常に有名です。
また、魔術の犯人(魔女)は男より女が多いことなどを示しており、タイトルのMaleficarumにもその思想は表れています。(maleficarumは女性名詞のラテン語であり、男性名詞の場合maleficorumとなります。)
イエスとユダを元とする二人が女性として描かれるのはここからかもしれませんね。
貨幣を受け取るシーンはユダがイエスをユダヤの祭司長たちに売り渡した際に渡された銀貨30枚を表していると考えられ、これらのシーンは総じてメイドの裏切りを描いています。
動機
頬を赤らめている様子から、彼女が魔女に惚れていることは確かでしょう。
では、彼女は妬みから魔女を売り渡すことを決めたのでしょうか?
私の見解はいいえです。
メイドのことをよく気にかけ、メイドの前で頬を赤く染め、メイドの前でだけにこやかに笑う様子からも、聖書や駆け込み訴えで書かれるイエスとユダの関係とは対照的に、魔女とメイドの関係は非常に良好であり、両片思いと言っても過言ではないでしょう。
駆け込み訴えのユダのように狂乱しているわけでもなく、MV上で他に嫉妬の感情を露わにしている描写がない点からも、緑の男に対する感情はよくある嫉妬の内の一つだったのではないでしょうか。
では何故?
では、嫉妬に狂ったのではないのなら、何故メイドは魔女を売ったのでしょうか。
駆け込み訴えのユダが言った「他人に手渡す」には複合的な意味がありました。
長くない命
イエスは対立する立場からユダヤの祭司たちに。
魔女は魔女狩りに追われ。
その命は近いうちに散る運命にありました。
ならばいっそ、自らの手で引導を渡そうとユダは、メイドは、考えます。
しかし………………
しかし、待ってください。
ロウワーで描かれるメイドは決して強い人間ではなく、むしろ弱気そうな描かれ方をしています。
これがいずれ殺されるであろうとはいえ、愛する人を間接的に殺す決意をした者の顔でしょうか?
この段階のメイドは駆け込み訴えのユダのように錯乱したわけでもなければ、むしろ冷静に不安と焦りに苛まれているように見えます。
黒幕の手引き
そう、これは彼女一人の計画ではありませんでした。
魔女を売るように、そっ…と彼女の背中を押した者が居たのです。
では、その真犯人とも呼べる共犯者とは?
実は、そのヒントは上の文章の中にありました。
それは他でもない━━━━
魔女本人だったのです。
魔女=イエスがキリスト教主導で行われた魔女狩りによって追われるという皮肉的状況もこれですんなりと納得できる筈です。
(※魔女狩りはキリスト教主導により盛んに行われていたというステレオタイプな認識に対して、近年の研究では、主な原動力は民衆の側にあり魔女裁判も世俗法廷で行っていたのが大半というのが主流ですが、ここでは異教の祭司たち(=ユダヤ教)が魔女を迫害しているので、敢えてそのステレオタイプなイメージを被せています。)
聖書の謎
これは全知全能の神が創り出した世界に何故悪が存在しているのか?という問いに似ていますが、上に示したように、イエスはユダの裏切りを知っていたのです。
にも関わらず、それを回避しようとすることはなく、むしろ進んでそれを為すように促しています。
共に踊る二人。
次のシーンに移ると、魔女は火刑に処されます。急ですよね。
このシーンは“ユダの接吻”に相当するイベントです。
ユダは祭司長たちにイエスを売り渡す際、誰がイエスかを示す証としてイエスに接吻をしました。
このシーンはメイドが魔女と共に踊ることで、ここにいる人が魔女だと異教の祭司に合図していることになります。
全てを知っているかのような顔で、かつてと同じように自ら手を差し出す魔女。
実際に、裏切りを事前に知っているのですから、自ら手を差し出すのは不自然ですよね。
しかし魔女がメイドと通じていると考えれば合点がいきます。
自分からは行動できないだろうという魔女の優しさともとれます。
また、かつての海辺の時とは違い、メイドは自ら駆け出し魔女の手を取ります。
メイドの小さな成長を感じるシーンです。
瑞希の小さくて大きな一歩にも重なります。
ユダの福音書
ユダの福音書とは聖書の外典とされる書物であり、ユダが実際に書いたとは考えられないことから史的価値は低いと考えられていますが、フィクションのモチーフとしての価値は十分に高いでしょう。(四つの福音書であるマタイ/マルコ/ルカ/ヨハネによる福音書はかつてその名につく者たちがそれぞれの著者だと考えられていましたが、現在ではその説は疑問視されています。しかし成立年代などからユダの福音書よりは史的価値が高いと考えられています。)
その記述によれば、ユダは他の使徒たちの誰よりもイエスから真理を授かっており、裏切りもイエスに指示されたというのです。
魔女狩りの書から発現し彼女の身に移る炎。しかしその身を焦がすことはなく、まるで"魔法"のような不思議な炎です。
そして唯一光背が描かれることのなかった彼女の背後には、かつてとは違い、明らかにメイドから発せられた日輪の如き巨大な光背が見て取れます。
そして魔女の帽子を被り、緞帳の前に立ち終幕を示すポーズを取る彼女。
メイドは魔女から真理を授かり、"魔女"に成ったのではないでしょうか。
これにて、メイドは魔女と対等になったのです。
イベントガチャにて、奏とまふゆは吊られた少女の見たものはと導きの杖というカードが割り当てられており、これは大アルカナにおいて吊された男(=ユダ=メイド)と魔術師(=魔女)に対応していると考えられ、奏とまふゆがメイドと魔女のカードを割り当てられているのに対し、肝心の瑞希と絵名がメイドと魔女ではなく、同じ"ハーミット"(=隠者)を割り当てられた違和感も、二人が対等になったことを表していると考えれば説明できるのではないでしょうか。
裏切りではなかった
皆さんの期待を裏切ってしまい、すみません。仰々しく「裏切りの物語」などと題しここまで記事を書いてきましたが、どうやらこの“裏切り”は合意の上だったようです。メイドは魔女を裏切ってはいませんでした。
これにてMVの考察は終わりです。では、まとめとして歌詞の考察をしましょう。
・歌詞考察
既に信頼出来る仲間となった筈のみんなに、一歩踏み出すだけなのに、簡単なあと一歩がどうしても踏み出せない瑞希。
言うだけなら、後になってみれば、確かに簡単かもしれませんが、その小さな一歩が瑞希にとっては、とてもとても大きな一歩なのです。
メイドに関しても、両片思いの空気は明白ですし本人も感じ取っているでしょうが、だからといって簡単な話ではないのです、これが。
瑞希とメイドの、喉まで出かけては秘された心がありありと表現されています。
隠し事をする度に後ろめたさが残り、心がしんどくなる二人。
ありのままの自分で居たい気持ちと、それを持て余し、置いていかれる自分の狭間で動けなくなり保守的になってしまった二人の様子が書かれています。
澱のように濁る。なんと美しい表現でしょうか。普段は諦観の中動けない癖して、簡単に心をかき乱されてぐちゃぐちゃと溶けだしてしまう、そんなシーソーのように揺れ動く不安定な心を表現しているように感じます。
心に闇を抱える者同士だったニーゴのメンバー達が自分の問題と向き合い成長していく中、一人だけ置いていかれる瑞稀の心情を表しているのではないかと思います。
メイド側は、自分が魔女に相応しくない(対等ではない)と考えている自己否定を表しているのではないかと考えられます。
瑞希は、本当のことを話さないと一緒に居られない。メイドは、魔女狩りに追われる状況の中、いつまでこうして傍に居続けられるだろうと考えているのではないでしょうか。
また、瑞希にとっては話さずいられたら、という意味も掛けてある可能性があります。
それから、瑞希にとって昔からの仲間と呼べる存在である杏と類は、ある程度の距離がある故になんでも話せる仲を保っており、ニーゴのように毎日を共にし(ネットではありますが)、苦楽を共にし、リアルにも関わってくる存在と真に距離を近くすることができれば、それは瑞希が昔から欲しいと思っていた存在ですし、瑞希にとって初めての体験となります。それを誰も知らない感覚と表現しているのではないでしょうか。
二人にとって、日常とは過ごすだけで心を摩耗するものであり、心をすり減らしてさえも何も変わらない日常の悲哀を歌っていると考えられます。
また、瑞希は楽しいことが好きな気分屋で、最初は享楽的で刹那主義のように振舞っていましたが、それは今まで信頼出来ると思っていた人にCOをした結果孤立したという体験からくる防衛機制であり、ニーゴのみんなとずっと一緒に居たいという思いからも瑞希が本当に望んでいることでは無いはずです。
今のまま、少しでも一緒にいたい。今の瞬間を切り取ってしまいたいといった変化を恐れ動けない二人の心情が考えられます。
また、可愛いものが好きで服の仕立てやアレンジも自分でしてしまう瑞希から“綻ぶ”が取られているとも取れ、前回の瑞希曲である「アイディスマイル」とも通じます。
魔女は実際にメイドに身を委ねていますね。誰にも奪われないという誓いと信頼の証と取れます。
怒るに関しては魔女サイドが、踊るに関しては瑞希サイドが、少々不自然にも感じますね。
前半が瑞希サイド、後半が魔女サイドにフォーカスした歌詞ではないかと感じます。
また、泣(哀)、笑(喜)、怒(怒)と喜怒哀楽の楽だけがないことから、二人がまだ楽にはなれていない。楽になりたい、とも考えることもできます。
※この部分について補足noteを出しました。
前半はさっきと然程変わりませんね。
後半の歌詞ですが、イベントガチャにて他のキャラが対応するタロットカードがあるように、MEIKOにも正義が割り当てられいます。
そのMEIKOがラストシーン、玉座から姿を消します。
自分たちが間違っているような気がする、自分たちは正義(=多数派)側には居られないという自己否定を歌っていると解釈できます。
(また、このイラストのようにイベントストーリー内でそっと見守るように、しかし大きな役割を果たしたためMEIKOがセカイverに起用されています。)
では、歌詞考察が終わったので最後にタイトルの考察をしましょう。
タイトルの意味
Ⅰ.Lower one's eyes
Lowerの英題、Lower one's eyesです。
目を伏せるという意味で、心を隠し続けている後ろめたさから相手の目を真っすぐ見れない二人の心情を表しているのではないでしょうか。
Ⅱ.Flower-"F"
ロウワー歌唱VOCALOID Flowerからパスポート等でFemale(女性)を意味するFを引いたものです。femaleはwomanと比べ生物学的性の意味が強く、瑞希が生物学的に女性でないことを示唆しているとも考えられます。
Ⅲ.Lower
とてもそのまま、単純にLowerです。
一緒になって悩んでくれる。
一緒に雨に濡れてくれる。
一緒に落ちてくれる存在━━━━━━
以上をもって、歌詞考察は終わりです。
……………………
………………
…………
おや、すみません。少し書き忘れがありました。
プロセカをプレイしている方なら違和感を覚えたでしょうが、実は先程のイベントストーリー紹介にて、一部シーンを意図的に省いておりました。
ラストシーン、絵名の思いを受け取った瑞希は━━━
その瞬間、過去の記憶がフラッシュバックし、本当はいつか打ち明ける覚悟なんか出来ていない癖に、嘘を吐いたのです。
ああ、もう一つ、すみません。私も嘘を吐いていました。
先程メイドは魔女を裏切っていないと言いましたが、そんなことはありませんでした。
メイドは確かに魔女を裏切っています。
・真の裏切り
ロウワーの配信ジャケットにて、唐突に登場した蛇と林檎とロープ。
林檎はよく禁断の果実を表す時に使われ、林檎と蛇は原罪を象徴するものと考えてまず間違いないでしょう。
あれ、でもおかしくないですか?
魔女(イエス)の処刑によって人類の罪は代わりに贖われたというのに。
ユダはイエスを売った後、自らの行いを悔い、銀貨を投げ捨て首を吊りました。
"ユダの木"ことセイヨウハナズオウがまたも登場することからも、このロープはメイド(=ユダ)の自殺の象徴と見て間違いないでしょう。
(この首吊りが奏に対応するタロット“吊るされた男”の元ネタです。)
そう、メイドの真の裏切りとは。
彼女の罪とは。
魔女による救いを、自殺という行為によって拒絶したことなのです。
魔女のその後
マタイの福音書におけるユダは、イエスの処刑を見ることなく首を吊りましたが、メイドの衣と銀貨と林檎が魔女の頭に降り注いでいることから、このイラストの時系列はメイドの死後だと見れます。
では、この魔女はどこに居るのでしょう。死後の世界?
レントキャンドル
イエスは十字架にて処刑された後、三日目に復活を成しました。その日を復活日とし、イエスが復活したことを記念、記憶する大切な祭りが復活祭(イースター)です。
レント(Lent)とは四旬節、大斎節、受難節とも呼ばれ、その復活祭までの準備期間を指し、期間や習慣は教会などによってまちまちです。
教会や地域などによって変わるでしょうが、レントにはアドベントキャンドル(クリスマスにキリストの降誕を祝うまでに徐々に炎を灯していく蝋燭)とは逆に、受難日(処刑の日)に向けて一本ずつ蝋燭の炎を消し、復活祭にて蝋燭に復活を意味する火を灯すという習慣があります。
これらのことから、この蝋燭はイエスの復活する三日の期間を表した蝋燭だと考えられ、魔女の処刑を見守っていたメイドが自殺する瞬間に蝋燭が灯り、メイドの遺品が落ちてきた魔女のイラストでは蝋燭が消えていることから
処刑(受難)に向けて火が灯される→処刑を迎える為炎が消える→魔女が復活する為炎が灯される→魔女が復活し蝋燭の炎は自然に消えた
と解釈することができます。
つまり魔女がいる場所は現世で、魔女はイエスと同様、復活を成したのです。
残された謎
しかし、妙に違和感が残りませんか?
魔女とメイドが通じていたのなら、なぜ魔女の復活をメイドは待てずに自殺したのでしょう。
そもそも、魔女とメイドはいつから通じていたのでしょう?
駆け込み訴えでは、ユダは海辺にてイエスに秘めていた心を告白していました。
ロウワー内の同シーン(海辺)では、魔女から差し出した手をメイドが取ってひとしきり踊り、抱擁の後涙を流しています。
歌詞考察では、メイドが魔女に想いを伝えきれていないような書き方をしましたが、実は既にこの場面で想いを告げていたと考えます。
ロウワーは、イエスがユダの申し入れを聞き入れた世界なのではないでしょうか。
そう考えれば、魔女が自分を差し出すようにメイドに仕向けたことも、追われる身であるのだから表向きは死んだままにしておけば都合がいいのは当然ですし、遁世の身となるのですから二人揃って“隠者”のカードを割り当てられるのも分かります。
本当に復活ができるのなら。
駆け込み訴えのユダは、イエスを愛していながらもその奇跡は信じていませんでした。
弱気なメイドは魔女の言う通りに流されながらも、自分の行いに疑問を抱きつつ魔女を売り、激しい後悔に苛まれ魔女の後を追ったのではないでしょうか。
メイドの罪とは、つまるところ魔女に対する背信。
魔女を信じきれなかったこと。
つまり、二百万再生記念イラストの魔女は、自分を信じて待つことができずに逝ってしまったメイドの死を嘆いていると考察することができます。
また、炎がもうすぐ灯りそうな煙を発していることから、メイドは魔女が復活する寸前までは待っていたことがわかります。
メイドは魔女が復活するたったの少し前に、魔女を信じることを諦めたのです。嗚呼、なんと哀しきすれ違い。
死の意味と交わる世界
少々根拠に乏しいでしょうから、まだ考察しきっていない残された謎を考えながらこの説を補強する材料を探しましょう。
二百万再生記念イラストにてまだ考察しきっていないもの、それはメイドの紐です。
ここまであからさまに謎を残して描かれながら、それが象徴することは不明瞭です。
しかし、林檎と蛇が罪の象徴であるなら、見たままメイドの遺品である銀貨と紐を死の象徴と捉えることはどうでしょう。
どういうこと?と思いましたか?
トルソーに飾られてる紐ですが、しかしながら、MV中にて他にこれの意味を指し示すようなものは出てきていません。
なら、他のところから持ってきましょう。同じく、まだ解いていない謎がMV外にありました。
それは木に括られたロープの数です。失敗した様子もありませんし、一つで十分ではないでしょうか。
しかし、これが見たまま“三回目”の自殺だとしたらどうでしょう。
紐が飾られているトルソーの数も右から三番目でしたね。
また話が飛躍しすぎたでしょうか。
他に“三”といえば……
瑞希がバナーに起用されたイベントの数です。
話を戻して、まずメイドと魔女の死が意味するものはなんでしょう?
これは瑞希と絵名の心の圧殺と考えると、恐ろしい程話は滞りなく進みます。
メイドと共に暮らす生活を受け入れた魔女の死は、瑞希が話をしたくないという意思を尊重し自らの気持ちを圧し殺した絵名に重なります。
しかし魔女の復活を信じきれなかったメイドの自殺は、絵名を信じきれずに嘘を吐いた瑞希の姿に重なります。
KAMIKOU FESTIVAL!とシークレット・ディスタンスでも同様に、自分の気持ちを圧し殺す瑞稀の様子が描写されています。
メイドの生と死は瑞希のCOに対する揺れ動く心、本当の仲間が欲しい気持ちを表していたのです。
メイドは、瑞希は過去に二度、自分を殺していたのです。
また、トルソーは瑞希を表すキーアイテムの1つとして扱われており、これが瑞希を示唆することは非常に有力であると考えます。
進み始めた時は元通り、時計が壊れていることからも冒頭の時計がラストシーンの回想ではないことと、メイドの後戻りと停滞を示しています。
メイドは、瑞希は、この世界でも前に進めなかったのです。
(また、時計の針は一時、つまり“25時”を指し示しています。壊れてしまった時計は明確な嘘を吐き、毎日ナイトコードで顔を合わせるのがより後ろめたい瑞稀、あるいは後戻りした筈が、壊れながらに確かに前とは違う場所に歩みを進めたニーゴ 第一章の終了を表しているとも考えられます。)
そう考ると、とても刹那的に分かたれたメイドと魔女たちには無いはずの循環性をもつ“僕らが離れるなら 僕らが迷うなら その度に何回も繋がれるように”という歌詞にも納得できます。
また、これから自殺をするのに“これから何度思い出すのだろう”といった意味も理解できます。
それに、冷静に考えると緞帳が上がるからさよならはちょっとちぐはぐでよくわかりませんよね。
つまり、これは三回目の世界(イベント)であり、これから第四の物語(トルソー)が始まるのです。
・二人のこれから
長々と引き伸ばしてしまいすみませんでした。これで本当に最後です。ロウワーの世界とニーゴの物語が綺麗に交わったところで、ロウワーから読み解くメイドと魔女、もとい瑞希と絵名のこれからを私なりに考えていきたいと思います。
瑞希が覚悟を決めてCOをするのも、このまましないのも、どちらも瑞希が選んだことなら正解であり間違いではありません。しかし、これが物語であることを考えると、瑞希の成長が描かれなければ意味がないですよね。メイドと魔女が一緒に暮らすには、二人が生きていること、つまり自分の心を殺さずに居られる方法を見つけるしかないのです。最後に魔女が復活していることからも、絵名の「瑞稀の悩みを聞く」という願いが叶う、つまり瑞希はCOをするのではないでしょうか。
救いの方向性と逆転、対等
瑞希がCOをする為に乗り越えなくてはいけない壁はたくさんありますが、大きく分けると二つになります。
一つは配慮の息苦しさ、もう一つは変化の恐れです。
瑞希は配慮される優しさが苦しいと言いますが、しかし、瑞希は相手を慮ることのできる子です。ニーゴは瑞希の支えがなければとっくに崩壊していたと言っても過言ではありません。トランスジェンダーのフィルターを外してみれば、瑞希の方こそ、いつも人に優しくしてあげているではありませんか。実のところ、自分で境界線を作っているだけでお互い様なのです。では、一体どのようにそれを自覚させることができるでしょうか?
セカイverのMVでは奏の歌唱パートが上弦の月、まふゆが下弦の月に対応し、絵名と瑞希は十三夜月の月と有明の月("暁"月とも)に対応しています。
奏とまふゆは、奏が作った曲によってまふゆが救われることで自分も救われるという共依存的関係になっており、救いの矢印が双方向的です。
一方、よくセットで扱われることの多い絵名と瑞希はどうかというと、絵名は瑞希を精神的に救おうと奮闘していますが、瑞希はわくわくピクニックで絵名を物理的に救ったのみで、むしろ絵名がメインとして扱われた満たされないペイルカラーでは奏がメインとなって絵名の助けになっており、まふゆは厳しいようで現実と立ち向かうきっかけを与え、瑞希はほとんどなにもできませんでした。
また、ジャックポッドサッドガール セカイver.MVにてまふゆがマリオネットに喩えられましたが、その際マリオネットとは関係のない筈の他のメンバーもマリオネットの姿をしていることから、セカイver.MVではその曲のメインメンバーにみんなが姿を合わせていることが分かります。
その為、本来月を表しているのはメイドである瑞希だけであり、絵名は魔女であるイエスであり太陽を示していると考えられます。(初期キリスト教徒はイエスを太陽と結びつける傾向がありました。)
暁と聞けば明け方を想像する方も多いと思いますが、元来は夜明け前を指します。そして月と太陽に対応するかのように、東雲は夜明け後の空を指します。
この月の満ち欠け、月と太陽は四人の救いの方向性を表していると考えられ、お互いが救いとなる奏とまふゆに対し、絵名から瑞希への一方的な救済を表しているのではないでしょうか。
また、瑞希の衣装にみんなが合わせているのに一人だけ角が折れている点は瑞希の救いに対する拒絶のスタンスを表現しているとも考えられます。
また、ロウワーイベントのラストにて絵名は既に瑞希の優しさについて言及していますが、そこには発言者である故の見落とし、絵名自身が含まれていませんでした。現在ニーゴのイベント曲は六つ存在し、曲数が足りていないのは奏と絵名のため、近いうちに二人の内いずれかのイベントが来るであろうことが予想されます。
孤独な仲間
瑞希には変人故に孤立をしている中学からの知り合い、神代類という屋上の仲間が居ました。
彼はかつて、瑞希に「ゴドーを待ちながら(Wiki)」という戯曲の話をしました。
ウラディミールとエストラゴンという二人の男が何者かもわからないゴドーをひたすら待ち続けるという一風変わった戯曲です。
自分には“ゴドー”(待ち人=仲間)が来てくれたことを報告する類。
自分の様子を聞かれ、瑞希は待たれる側になったと言います。
「ボクのあしあと キミのゆくさき」というタイトルも、瑞希が立ち止まり絵名が先に行ってしまった。待たれる側になってしまったということを表している様に思えますね。
魔女(キリスト)になり、光背を手に入れた彼女は、今こそ魔女を救う番なのではないでしょうか。
ハーミット・リバースにて瑞希側に描かれていた鎖が、今度は魔女(絵名)側に配置されています。
絵名が瑞希によって精神的に救われることで二人は真に対等になり、瑞希への配慮は等価交換となります。
双方向的ではありますが能動的に救う側である奏と救われる側であるまふゆが、そのまま救う側である絵名と救われる側である瑞希に対応しているのではなく逆転しているのも示唆的です。(まふゆが導きの杖…というのはちょっとピンとこないですよね。むしろ導かれる方です。)
また、「ゴドーを待ちながら」では、ラスト、ウラディミールとエストラゴンは自殺を試みます。ですが綱がなかったため明日、また来た時に綱を持ってくると話す二人。しかし、二人は行こうと言ったまま動きません。動かぬまま終幕を迎えます。自殺は遂行されることのないまま物語は終わるのです。
(ゴドーの正体については、Godotという綴りをしていることから、神(God)を意味しているのではないかという説が多いため、イエスである魔女を重ねている部分もあるかもしれません。大雑把に救い主という意味では同じでしょう。
※当戯曲の劇作家であるベケットはこの神であるという説を否定していますが、彼が常に聖書を持ち歩いており、しばしば無意識的な衝動に駆られ執筆を行うといった発言や、キリスト教の神話が一番なじみ深く劇的意図にかなう限りに応用したとも発言しており、実際作中にはキリスト教的要素が満ちていることについて一応言及しておきます。多分というか25000%どうでもいいです。)
次の物語では、待たれる側から待つ側になった魔女が心を殺してしまう前にメイドが現れるのではないでしょうか。
となると、残された課題は一つ、変化の恐れです。
この二つを乗り越えるには少々時間が必要で、ワンクッション欲しいですよね。
おや?どうやら私がnoteの執筆に手こずっている内に次回ニーゴイベの曲が煮ル果実さんに決まってしまったようですね…時間をかけすぎてしまいました。少しコメントを読んでみましょう。
お や ? ? ? ? ?
「救い」というキーワードが強調されていることから、これは奏の楽曲ではないかと思います。
ニーゴのボカロ達はそれぞれが一人ずつに対応して出現しており、ある役割を与えられています。その中でもルカは奏に対応し、破壊を以て停滞を打ち壊すことが自分の役割だと感じています。スクラップアンドビルドです。
そして奏は現在、イベントストーリー中でまふゆと絵名に曲を書いたことはありますが、瑞希には未だありません。しかし、瑞希は昔から奏の曲に救われてきました。
次の奏のイベントでは、瑞希がもっと直接的に、再び奏の曲によって救われるのではないでしょうか。
瑞希は、絵名を救う前に、奏と共に変化を肯定していくのではないでしょうか。そうしてその瞬間瞬間を大事にすることで、点と点が繋がり長い線へとなっていくのだと思います。
聖書や駆け込み訴えで書かれるユダとは違い、我らがユダは魔法を手にしたのですから、きっと復活の奇跡も成せることでしょう。
・さいごに
ここまで大変長い文章を読んで頂き誠にありがとうございました。
感謝してもしきれません。
以上をもって、"私のロウワー"考察は終わりです。
念のため言っておきますが、これはあくまで私のロウワー観であり、一人ひとりの中にロウワーがあります。
わたしはわたしのロウワーを、あなたはあなたのロウワーを。
私の考察が少しでもロウワーへの理解を深める助けとなれましたら幸いです。
ではみなさま、よいロウワーライフを。
・P.S.
最後詐欺しすぎて草。アドベントカレンダー入りする際に加筆しようと思っていたのですが、結構長くなったので追記にて行おうと思います。
瑞希と絵名の救いの等価交換について話しましたが、おそらくそれは絵名の口から発せられるのではないかと思います。
しかし絵名はあまり思慮深い性格ではないので、MEIKO同様、絵名本人がそれに気づくのにもトリガーが必要だと感じます。今回はそのトリガーから絵名の今後について考えていこうかなと思います。
①東雲彰人
絵名にはビビバスに所属している一つ下の弟「東雲 彰人(しののめ あきと)」がおり、その弟には“相棒”青柳冬弥(あおやぎ とうや)が居ます。冬弥はかつて、彰人に助けられた経験から彰人と互いに支え合う、正しく相棒です。彰人はたった一つ離れているだけですがとても面倒みがよく、絵名は弟から相補的関係の気づきを得るのではないでしょうか。
②ニーゴリン、及びボカロたち
上述した通り、今現在ニーゴのVOCALOID達は一人ずつがそれぞれニーゴのメンバーに対応したような出現の仕方と、それに準じた役割を持っています。
ミクはまふゆに対応し、まふゆの本当の想いを見つける役割を持ちます。
ルカは奏に対応し、停滞に刺激を与える役割を持ちます。
MEIKOは瑞希に対応し、その行く末を見守る役割を持ちます。
そしてリンは絵名に対応していますが…未だ分かりやすい役割を与えられていません。
さらに現在、レンが存在していないのはニーゴなので、今後レンが登場することによってリンレンの関係性から学びを得られるのかもしれません。
また、リンは絵名のいわゆるツンデレの側面を表した様な性格をしており、“鏡”のようです。レンは絵名の他の側面(瑞稀のような人に優しい、助けたいという気持ちかもしれません。)を反映したようなキャラになるかもしれませんね。
リンは絵名が、あるいは絵名と瑞希が自分を客観視する為に必要な役割を持っているのではないかと思います。
あるいは、レンとKAITOは完全なる女性コミュニティであるニーゴにおいて瑞希がCOをするための精神的土壌をつくる役割があるかもしれません。
③朝比奈まふゆ
イベントストーリー上、ニーゴの中で絵名と一番絡みが薄いまふゆです。そろそろ補完が来るのではないでしょうか。
まふゆは周りの期待から自己喪失に陥り、感情すらも失ってしまった子ですが、奏の懸命な行動によって、最近では徐々に感情を取り戻してきており、奏のためになれることを嬉しく思っています。また、自己喪失モードに陥ったまふゆは奏や瑞稀と違い鋭く忌憚のない発言で、時に良い刺激を与えることができる存在です。絵名はまふゆから支え合うことの大事さを知るのかもしれません。
また、もちろんイベントストーリーはそれなりにボリュームがありますから、複合的なルートも有り得ます。瑞希とまふゆも少々絡みが少なかったりしますし、瑞希側でも上の面々との動きがあるかもですね。
以上、絵名から読み解く次イベでした〜〜〜!!②と③の説が推しですね。
次のニーゴイベは一月開催となっております。楽しみですね!!私の考察がどれだけ当たっているか、当たっていなくてもどんな展開が待っているか非常に楽しみです。煮ル果実さんの楽曲も非常に楽しみですね!!
それではみなさま、良いニーゴライフを!!!
※当記事は遅刻枠にすることで、後付けで無理矢理ボカロリスナーアドベントカレンダー2021企画に駆け込み参加させていただきました。車掌さんがされてめちゃくちゃ嫌な奴。ボカロリスナーは優しいので多分許してくれる。(優しさの押し付け)
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