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脱学校的人間(新編集版)〈48〉

 子どもだった者がいずれ大人となり、そして親となる。親となった者は、かつて自分が子どもだった時分に自分の親だった者からそうされたように、自らの子どもを学校に送り込み、そしてその送り込まれた子どもはさらにまた学校を経由して大人になり親となり、そしてまた……。
 そのようにして、それが「あたかも自然な循環運動であるかのようにして」、あらゆる人間は各家庭から学校を経由して社会へと次々に送り込まれてくる。そして送り出されたそれぞれの社会で、それぞれの人々はそれぞれの間に生じ築かれた社会的関係において、そのそれぞれの社会的諸関係をドライブさせている、それぞれの社会的諸活動の主体として、それぞれ主体的にその社会的な活動に携わることになる。この「社会的な活動」とは、端的に言えば「生産活動」ということを意味するわけであり、あらゆる人々は何らかの形でその「生産性」に関連づけられて社会的に体系化され、なおかつ社会的に統合され調整され統制されて、社会的かつ生産的な具体的諸活動に投入され個々にそれへ携わっていく、ということになる。
 社会的機能としての学校は、そのような生産活動の主体、すなわち産業労働力を生産して社会に送り込むことを第一の目的とする。ゆえにもしその目的が「社会的矛盾をも生産している」と見なされうるものとなるならば、そこでその矛盾の根源として、「要するに学校が問題なのである」(※1)というように告発されることにもなりうるわけである。
 しかしアルチュセールは同時に、学校のその社会的機能とは、けっして学校固有の、あるいは学校独自の機能であるというようには考えてはならない、とも付け加えて注意を促している(※2)。言い換えると、それを「学校の、その特定の機能様式が問題なのである」というように考えてはならない、ひいては「学校の、その特定の様式の問題を解決することによって、社会的な矛盾もまた同時に解消されるだろう」というように考えてはならない、ということである。要するにアルチュセールはここで、「そういった社会的な機能が、一般にどのように機能するのか?」について考え、そのことを語っているのである。それをけっして取り違えてはならない、ということなのだ。

 アルチュセールは、学校のみならずさまざまな社会的機能の「一見それぞれバラバラな集合体の、一般的な統一性を構成するものが一体何であるか?」と疑問を呈し、その「多様性を統一するものとは、すなわちこの機能自体である」(※3)というように、ひとまずここで結論づけている。
 この「機能自体」というのは、その一見バラバラに成り立ち、それぞれバラバラに動いているかのようないかなる社会的装置においても、しかしそれぞれどれも同じように機能しうるものであり、かつそのような「機能自体」を学校は、かつて支配的だった社会的装置から引き継いでいるのであり、そうしたかつての社会装置と同じように機能しうるからこそ学校は、その「支配的な立場」をもまた同じように引き継ぐことができたのだ、とアルチュセールは考えるわけである(※4)。
 では学校は、この自らの社会的装置としての「機能自体」を、一体どこからどのように引き継いだのか?
 アルチュセールは、何よりもまずそれは「教会」からであった、としている(※5)。言い換えると教会は、学校より以前においてすでに、いやその時点ではむしろ学校以上に「学校的だった」のだとさえ言えるわけだ。とするならば、ここから先の「学校以後」においてもまた、このような「機能自体」は何らかの社会的装置に引き継がれることになるはずであろう。ここでアルチュセールの言い方を借りて言うのなら、まさに「学校化は永遠」なのだ。ゆえに「われわれは、この問題を検討することにおいて、この機能自体を検討しなければならない」(※6)と、アルチュセールはわれわれに向かって呼びかけているわけである。要するに問題なのはこの「社会的な機能それ自体」なのだ。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」
※2 アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」
※3 アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」
※4 アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」
※5 アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」
※6 アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」


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