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脱学校的人間(新編集版)〈11〉

 学校の、社会的に一元化された制度としての問題は、それに対する人々の「依存性の強さ」としてもあらわれてくる。
 内田樹は、学校が人々に必要とされている理由について「従来通りの努力と成果が見合う、適切なプロモーション・システムとして現に活用している人たちがまだいるということが、問題をいっそう複雑にして」(※1)いるのだと指摘している。
 「学校を現に活用している人たち」とは、端的に言うと「学校を現に必要としている人たち」であり、すなわち「学校がなくなったら現に困る人たち」のことである。そのような人たちが「社会の維持のために学校が必要となる」ことについて、自らの維持においてもまた必要なものであるとし、そういった自らの必要をもってそのシステムおよび社会を維持させてもいるわけだ。
 では、「そのような人々とは、一体誰なのか?」と言えば、結局のところそれは「ほとんど全ての人たち」ということになるわけなのである。

 そのような、学校を現に必要とし、それがなくなってしまっては困ると考えている「ほとんど全ての人たち」にとって、実のところそのシステムがたとえどれほど不具合やバグを発生させていようが、実際にそれを必要とし、そして実際に活用する上では、ほとんど何の問題にもならないだろう。そのシステムの「状態や仕様」のことなど、実は誰も気にとめてさえいないのだ。その状態や仕様がどうであれ、彼ら自身はこの現実に存在するシステムを、それが必要とされる期間さえ活用できればそれでよい。その期間さえ何とかくぐり抜けられればそれだけでいいのであり、後のことはどうとでもなるし、自分自身にはもはや過ぎ去ったこととしてケツをまくってもいいのである。
 彼らにとってそのシステムは、別に「適切なシステムだから活用している」というものでもない。それを活用したからといって、必ずしも彼らの「努力と成果が見合う」わけでもない。彼らはただ「必要だから活用しているだけ」なのであり、しかしただ「活用している以上は、努力と成果が見合うことを期待し、それを意図する」のにすぎないのである。ただとにかく、その期間を経由しなければならないことだけは、彼らにとってけっして避けられないことなのであり、それ以外に彼らはどこにも辿り着くことができないということだけは、彼らにおいてけっして疑いえないことなのである。
 そしてまた、その期間を努力してくぐり抜けることは、彼らには「実際にくぐり抜ける前からすでに決定されていること」でもある。すなわち、結果から逆算された過程として、彼らにおいてそれはすでに決定されていることなのだ。そのように予め決定された通りに、予め定められた期間内で、予め決定された場所に辿り着くこと。これは決定であり必須であり絶対である。それ以外の予定も過程も彼らは知らないし予想もできない。なぜなら「それ以外の生きるためのシステム」を彼らは全く知らないし、「教えられていない」のだから。

〈つづく〉
 
◎引用・参照
※1 内田樹「下流志向」


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