困った膏薬貼り場がねえ
「困った膏薬貼り場がねえ」──幼い時分、この「貼り場がねえ」を「ハリバガネ」という一単語と誤解し、針金の進化形みたいなものだと思っていた。文字を未だ知らぬ小さき者は、概してこのような勘違いを起こしやすい。テレビの「ご覧のスポンサーの提供でお送りします」というのも、「ゴランノス・ポンサー」という外国人の名前だと思っていた。おそらくマーク・パンサーとかピンク・パンサーとかの影響も大いにあったのだろう。
我が郷里の先輩、重松清さんの『きよしこ』という短編小説集がある。これは、クリスマスの『きよしこの夜』を『「きよしこ」の夜』と勘違いした子供のエピソードがタイトルになっている。「いい爺さんに連れられて」とか「うさぎ美味しいかの山」とか、童謡でありがちな現象である。『赤鼻のトナカイ』で、「デモッソの年」を「カノッサの屈辱」みたいなものだと思ったという、なかなかぶっ飛んだエピソードもある。
こういった勘違いは子供特有というわけでもない。言語学では「異分析」といって、ことばを変化させる大きな要因となっている。例えば、ハンバーガーという単語は本来「ハン+バーガー」と切れるものではなかった。にもかかわらず、バーガーだけが独り歩きして、チーズバーガーとかてりやきバーガーとか、いろんなバーガーと単語が作られている。
「逆成」という別の種類の勘違いもある。「黄昏」という名詞は、「黄昏れる」という動詞から出来た、と多くの人が思うだろう。「疲れ」という名詞が「疲れる」という動詞から派生したのと同じだ。ところが、事実は逆で、歴史的には「黄昏」という名詞が先にあったのだ。夕方は人の顔がよく見えないので「誰そ彼」といった。つまりフー・イズ・ザットが語源である。そこから動詞が「勘違い」によって作られたのだ。
「勘違い」というのは私の人生における一つのテーマである。コミュニケーションにおいて、発信者と受信者が存在する。前者の意図が完全に後者に伝わることが必ずしも理想ではないと思う。発信者のメッセージを勘違いすることで、その輪郭が広がったりずれたり、ぼやけたりする。そういうコミュニケーションの余剰や余白や幅こそ、人間の根本ではないか。発信内容に受信者が意味を与え直すといってもいい。近頃(かどうか、厳密には判らないが)、発信者が受信者に解釈を押し付けすぎていると感じる。
そんなわけで、テレビでもなんでも、「ここが面白いぞ」とか「ここで泣けよ」とやかましいものは気に食わない。気に食わないが、そういったものが溢れかえっている。困った膏薬ハリバガネ、である。
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