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かたさ・やわらかさ

今年も終わりということで色々な人が今年を振り返っているのを拝見し、私も考えてみた。

ある人は年初めに立てた目標の達成具合を言っていた。

思い返せば私も何か宣言していたような気がする。

「慎ましく生きる」

とか言った記憶はあるのだけど、今年なのか去年なのかわからないし、むしろ何年も続けてこう誓っているような気がする。

(つまり何年も続けて慎ましく生きられていない。猛省すべし)



さて、では目標はさておき私はこの1年間で何か成長しただろうか、と考えた。

何も思いつかない。

この一年間何もしなかった日はないわけで、たとえ家に引きこもりがちだったとしても何かを食べ、読み、自分も何かを文字なり写真なりに出力していた。

立派に成長したとは言えずとも少なくとも去年の私とはまったく違う私が今ここに存在しているはずである。(思想的にも元素組成的にも)

一年間を振り返り、来年こそは目標をきちんと立ててみようかなと思ったところでまずもう少し丁寧に_意味を持って日々を過ごしそれを客観的に振り返りつつ_生きたいと思った。

何が起こって何を考えたのか、もう少し具体的に記憶したいと思う。そのためにはまず常に起きたことをより深い次元で捉えて自分の頭を働かせるのが必要だ。



目標を据えずに生き、漠然と過去を振り返っても何が変化したのか、何が成長したのかを説明できないのは私の「適当に生きる」という傾向に基づくものであろう。

よくいえば多分、やわらかい

私はあまり自分の主張が強くない。

新しいことを受け入れるとか、そういう意味での柔軟性は大事にしたいと思っているが、ここでいうやわらかさはそれだけではない。

単に曖昧なのだ。

バイオ(もしかしてケミカル)的な考え方なのかもしれないが、つまりこういうこと。

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形がはっきりしていて「かたい」ものは特異的な結合しかできない。

だから少しでも違う形のものを受け入れられない。

対して曖昧さを残し「やわらかい」ものは色々な形に適合する。

色々な人・仕組みに自分を合わせていくことができる。実に従順。

しかしその実状ははっきりした自分のかたい芯がないだけ、と思う。


「なんでもいいよ」で済ませてしまったり、面倒なことはぼかして発信したりする。

衝突せずに関わることが出来る人は増えるだろう。

しかしただの無難な存在にしかなりえない。



偶然かはわからないが今年「誰かの力になりたい」と思いつつ力になりきれないことが一度ならずあった。

私の綴る言葉に意味があるのだろうか。

薄っぺらい文字だけに宿るものがあるのだろうか。

こう考えだすと、私は何かを語るに足る人間性を持っていないなぁと思う。

かたい芯を持っていない人が何か言ってその時何かを伝えることができたとしても持続性がない。

よくて一瞬の心の慰みにしかならないのではないか。


自分だけを背負っていく上で力を抜いて「適当に生きる」というのはとても便利だった。

しかしやわらかいだけでは自分が何かを支えることはできない。

ただ過ぎ去るものと適当に合わせて終わり、本当に大事にしたいものを留めおくことができない。


激動の一年を過ごす中、誰かの意志の強さに触れ心を震わせることが多かった。

そんな時、かたい自分があり、かたい意志がある人の持つ魅力を強く感じた。

こういう人たちには自分だけでなく他人を動かす力がある。

少なくとも私は心が動かされた。



頭の中のいくつかのねじがどうしようもなく抜けて壊れてしまっている(自覚がある)のはさておき、

それを補って有り余るくらいの人格者を目指したい。

これは一年間で成しえる目標ではなかろうが、来る一年にその第一歩を踏み出したい。

私の言葉にきちんと力が宿りいつか誰かの支えになれるように。


具体的には、

・曖昧模糊を是としない。

・自分の言葉をきちんと作り、それに責任を持つ。

・目指す人間像は「この人に応援されたら嬉しい」と思われる人。
(私がいうと何だか競技の応援だと思われそうだが別にそれに限らない。)

この目標だって自分の心の中にだけそっと置いておくこともできる。

しかしこうしてきちんと形にしておくことで少しずつ自分が変わることができたらいいな。

適当に生き続けてきた人間が「変わりたい」と考えるようになった要因はいくつかあるが、その一つ一つに感謝して一年の終わりを迎える。

皆様よいお年を。


※サムネイルは必勝祈願で買った花(染色)です。
机の上でキラキラしてくれています。

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