「シャークネード」を酒呑みながら観る&神話学的解釈
前略、ストロングゼロをキメながら「シャークネード」を観ました。読んで字の如く「大量のサメが竜巻で宙を舞いながら人間に襲いかかる」というB級モンスターパニック映画。2013年公開。制作会社はアサイラム(B級映画スタジオとして有名)。映像とタイトルのインパクトで注目を集め、シリーズ6作品が制作されるほどの人気を博しています。
最終作ではサメが時空を超えます。どういうこと????
ゴールデンウィーク中にBS12でシリーズ一挙放送があったらしい。以前から気になっていたタイトルだったので、近所のレンタルショップでDVDを借りて鑑賞しました(吹替版)
(※以下、「シャークネード」のネタバレを含みます。未視聴の方はご注意ください)
「シャークネード」感想
さて、「こんなぶっ飛んだ内容の映画を素面で見れるわけがねえ」と思ったのでストロングゼロをキメながら鑑賞したのですが、いやこれが真っ当に面白い。映像表現やCG技術はそりゃあ大作ハリウッド映画に比べたら見劣りしますが、そんなものは些細な問題に過ぎない。「画面外から突如飛来してきたサメに人が食われる」という映像の連続には新鮮な驚きがありました。
本当に一瞬で人の命が失われるので「自然の脅威の前では人ひとりの命はこんなにも弱く儚いものなのか……」という喪失感がある。だからこそ、サメの脅威に決然と立ち向かう主人公達の勇姿、一人でも多くの命を助けようとする自己犠牲の精神が美しく感じられる。「かませ役がフラグを立てた瞬間にサメに襲われる」というお約束もあるので、時にはシュールな笑いすら誘う。中盤に差し掛かる頃には良い感じに酔いが回ってくるのでもう楽しくてしょうがない。
中盤における車内での会話は若干中だるみ感がありますが、それ以外は全く見飽きることがありませんでした。とにかくテンポよく、バラエティに富んだサメを見ることができる。上映時間も約90分なので収まりがいい。疾走感・絵面のインパクト・程よい悪ノリ感が見事に調和しているからこそ、唐突な爆発、唐突なチェーンソー、「トルネードは寒暖差で生じるから爆弾を投げ込めば消滅する」というクッソ強引な理論がすんなり頭に入って来る。ここで首をひねらず、むしろ激熱展開としてテンションが爆上がりになるのはそれだけ没入感があることの証拠だ。
総じて「サメの竜巻が襲ってくる」という絵面が強烈に記憶に残るような映像表現に仕上がっていました。私はホラー映画を見た日なんかは、ベッドの下から足を掴まれるんじゃないかとか、シャワーで頭を流す時に目を閉じるのが怖いとか思うんですが、それと同じ感覚で、台風が来た日には「みんな気を付けろ! 空からサメが降ってくるぞ! 下水管からサメが出てくるぞ!」なんて空想をしてしまうであろう。それくらい本作の映像はとても印象に残りました。
そして、サメだけじゃなくて人間もいい。まず主人公フィン・シェパードの造形が素晴らしい。サーフィンを楽しむ色男であり、海沿いのバーを経営する真面目な男。周囲から信頼を集めているが、困っている人を見捨てられない性格が災いして離婚。家族とは別居中。勇敢さを持ち合わせながら孤独と哀愁を漂わせる様は、さながらマーベル・シネマティック・ユニバースに登場する等身大のヒーローだ。吹替版の声優には堀内賢雄(メタルギアシリーズの雷電など)を起用する豪華っぷり。
そんなフィンはトルネードとサメの脅威から家族を守るために、電話で拒まれながらも真っ先に家族の元に駆けつけて、我が身を盾にサメを退ける。家族を車に乗せた後は周囲のことなど我関せず逃げればいいものを、スクールバスに取り残された生徒達を助けるために救助活動を行う。ここは素直に感動しました。
元妻は救助活動に当初は反対したが、いざフィンが動き出すと献身的にサポートを行う。やがて家族の絆を取り戻していく過程が丁寧に描かれる。そんな愚直ですらあるフィンを、周囲の人間が当然のように手助けする様には行間に絆の強さを感じられた。親友に別れを告げるシーンとか、ベタだけどやっぱこういうの良いよね……
続いてヒロインのノヴァ・クラーク。ブロンド髪・ナイスバディ・ビキニという三拍子が揃った見た目で、カメラワークにもあからさまな意図が込められていたので「あーはいはいお約束ね。お色気担当ね。サメの餌食ね」程度に思っていました。しかし、歳の離れたフィンに恋心を抱いており、妻子がいることを知るとショックを受け、それでも思いは変わらずサメと戦うためにショットガンをぶっ放すという一連の流れで「これ歳の差すれ違い恋愛じゃん! 私の大好物じゃん! 暗い過去もある! ヒュー!」ってなって引き込まれました。
正直ナメてました。サメが主役の映画なんだから、人間は粗雑に描かれているのだろうと。しかし、どの人物も印象に残るし、ドラマパートがちゃんと描かれているからこそ、サメの恐怖が増すという相乗効果を生み出している。
どうせ「サメが竜巻になって襲いかかってくるんですよwwwどうです面白いでしょう?www」っていう制作陣の悪ノリだけで作られた一発ネタなんでしょ? という偏見があったのですが、それは見事に打ち砕かれました。いや悪ノリがあることは間違いないんですが、製作陣の物作りに真摯な姿勢が垣間見れるし、名作映画特有の観終わった時のカタルシスが確かにある。バカバカしさ、映像の迫力、ドラマパートで不意にほろりとさせられる感覚——あらゆる感情を爆発させながら短時間で過ぎ去り、過ぎ去った後も心に爪痕を残していく様はさながら竜巻そのもの。
そして、これは自分でも意外だったんですが、鑑賞後は「なんか物足りないなあ……」と思ってしまったんです。確かに強烈な映像体験だったけど、まだまだこんなもんじゃないだろ? もっとでっかいスケールで描けるんじゃないか? 続編で予算が増えればさらなる迫力を味わえるはず……ああ、観たい! 続編を観たい!
ということで、「シャークネード カテゴリー2」もレンタルしているので近いうちに観ます。近所のレンタルショップでは2作目までしか在庫がなかった。面白かったらシリーズ完走したいですね。
再生の物語——「シャークネード」と旧約・新約聖書
本章では「シャークネード」の神話学的解釈を試みます。
「シャークネード」の劇中において、サメの竜巻が黙示録のようだと形容される場面があります。黙示録といえば新約聖書の最後に位置する「ヨハネの黙示録」。「最後の審判」による世界の終末と、信徒の救済とが預言として書き綴られている。「シャークネード」を彷彿とさせる部分があるので一部引用する。
私は〔小羊が〕第六の封印を解くのを見たが、〔その時、〕大地震が起こった。太陽は毛でできた粗い布のように黒くなり、月は、全体がまるで血のように真っ赤になり、また天の星は、まるでいちじくが青い果実のまま強風に揺さぶられて振り落とされるように、地に落ちた。そして天は、まるで小巻物が巻き取られるように消え失せ、また山や島も、皆もとあった場所から動かされた。
ヨハネの黙示録 6:12-14 小河陽訳
そして第二の天使がラッパを吹いた。すると、火だるまになって燃える巨大な山のようなものが海に投げ落とされた。すると、海の三分の一は血に変わり、海中に住んでいた被造物で、いのちを持っていたものの三分の一が死に、また船という船の三分の一は壊された。
ヨハネの黙示録 8:8-9 小河陽訳
「ヨハネの黙示録」において、世界の終末は、自然災害や、凄惨で血生臭いイメージをもったものとして描かれる。これは「シャークネード」と重なる。直接の元ネタになったわけではなさそうだが、「黙示(アポカリプス)文学」の表出として読み解いてもよいかもしれない。
ラストシーンは旧約聖書の「ヨナ書」を彷彿とさせる。具体的に言うと「フィンは空から飛来してきたサメに対空チェーンソーで真正面から斬りかかり、丸ごと飲み込まれてしまう。しかし、彼はサメの体内からチェーンソーで腹を割って脱出し、同じく食われていたノヴァを救い出した」という怒涛の展開なんですが……いや字面がスゴいなこれ。
「ヨナ書」の主人公ヨナは、神から預言を授かり、これをニネべという都で伝えるよう命じられた。しかしヨナは使命から逃れるために別の船に乗った。すると、海は大荒れ。これは使命から逃げたことによる神罰だと悟ったヨナは、自分の手足を縛って海に放り投げるよう船員達に頼む。船員達がその通りにすると荒れ狂っていた海は静まった。
神は巨大な魚に命じてヨナを呑み込ませ、彼を救い出した。ヨナは三日三晩魚の腹の中に留まり、自分の過ちを悔い改め、自分を救ってくださった神へ感謝の言葉を口にした。神が命じると、魚はヨナを陸地に吐き出した。悔い改めたヨナは、神から命じられた通りにニネベを訪れ、預言を伝え広めた。
「英雄が巨大生物に呑み込まれる」という物語は古今東西の神話に類型がある。神話学者ジョーゼフ・キャンベルはこれを「クジラの腹の中」と名付け、「再生」の暗喩として読み解いている。
神秘の境界を越えることは再生の領域に入ることであるという概念は、クジラの腹の中という世界中で知られる子宮のイメージで表される。英雄は境界の力に打ち勝ったり折り合いをつけたりする代わりに未知のものに呑み込まれ、死んだように見えることもあるだろう。
[……]つまり寓話的に考えると、神殿に入ることと英雄がクジラの口に飛び込むことは同じ冒険ということになり、どちらも視覚言語では生が一点に集まる行為、生が新しくなる行為を表すことになる。
「千の顔をもつ英雄 上〔新訳版〕」p.136, 140-141 ジョーゼフ・キャンベル 斎藤静代訳
「シャークネード」の主人公フィンも、サメの竜巻という未知の恐怖に英雄的態度で挑み、その過程で家族との絆を取り戻す。まさに「再生」の物語だ。サメの腹の中から脱出するというラストシーンは、その象徴なのである。
「シャークネード」において、サメの竜巻はフィンにもたらされた試練・通過儀礼(イニシエーション)だと解釈できる。彼は否応なく冒険へ出立することになり、試練を乗り越えることで家族との絆を取り戻し、やがて平穏な日常に帰還する。古今東西の英雄譚に見られる出立→試練→帰還の類型が、「シャークネード」にぴったり当てはまるのだ。
また、「ヨナ書」のラストも「シャークネード」と重なるように感じた。
ニネベの民はヨナから預言を聞き、悔い改めた。すると神はこの都に災いをくだすのをやめた。ヨナはこれが大いに不満だった。……まあせっかく苦労してここまで来て預言を伝えたのに、神が前言撤回したんだから気持ちは分からんでもない。上司の朝令暮改に振り回される部下といったところか。
ヨナは都の近くに庵を結んだ。神はそこにとうごま(ひょうたん)の木を芽生えさせた。これがちょうどいい日避けになるのでヨナは喜んだが、翌日、神は虫に命じて木を枯らした。なぜこんなことをするのか——神はこう答えた。
すると、主はこう言われた。
「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」
「ヨナ書」4:10-11 日本聖書協会 新共同訳
神はニネベの民を慈しんだ。ゆえに災いをくださなかったのである。これを聞いたヨナは、神の慈悲の心を知ったであろう。これと同じように、サメの竜巻によって多くの命が失われたことで、フィンは家族の大切さを強く実感する。
以上、個人的解釈ではあるが、「ヨハネの黙示録」「ヨナ書」との関連性をまとめた。まあ別にこの二つが元ネタってわけではないだろう。しかし、神話との関連性を見出せるのは、「シャークネード」のストーリー展開がそれだけ「王道」を丁寧に踏襲しているの証拠だ。
「王道」は時代を越えて、物語を鑑賞する者に感動を与え、勇気を与える力がある。だから何千年も前に誕生した神話が現在まで語り継がれる。B級映画の金字塔としてカルト的人気を集める「シャークネード」は、その血脈を受け継いだ現代の神話と呼べる代物なのかもしない。
最後に——"アサイラムの映画はビール片手にくつろいで楽しむ映画"
鑑賞後にアサイラム社のCEOデヴィッド・マイケル・ラット氏とCOOのポール・ベールズ氏のインビュー記事を読んだ。彼らの気前の良さや遊び心を感じることができた。そして、「シャークネード」には観客を楽しませるための心意気が、映像表現や脚本などに散りばめられているなと改めて感じることができた。
ベールズ:少し付け加えると、アサイラムの映画はビール片手にくつろいで楽しむ映画だということ。疲れて仕事から帰り、ただただゆっくりしたい時にビールを飲みながら、大いに楽しんで、深く考えずに済む映画なんだ。
「「日本以外の国では嫌われてるんだ!」あの『シャークネード』を生んだアサイラム社のトップに突撃インタビュー!!」BANGER!!!
同記事でベールズ氏はこう発言している。肩肘を張らず、酒を呑んでワイワイ盛り上がりながら鑑賞する。あの感覚は確かに心地良かった。だから続編も酒を片手に楽しもうと思う。