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天を降り、地より出ずる――『五塵来降』感想【ブルーアーカイブ】

天子より以て庶人に至るまで、壱是に皆身を修むるを以て本と為す。其の本乱れて末治まる者は否ず。其の厚くする所の者薄くして、其の薄くする所の者厚きは、未だ之れ有らざるなり。

『大学』

 天子(天命を受けた君主)と庶人。身分の違いはあれども、身を修めることで修養に努めることに根本的な違いはない。そんな教えを説いた言葉である。

 『大学』は四書五経に数えられる中国古典の一つ。現代では「人は何のために学ぶのか」を説く教養本として周知されている書だ。

 竜華キサキのスキル名「詔令:格物致知」「勅令:修身斉家」も同書が出典。前者の四字熟語は朱子学の解釈では「あらゆる物事に宿る道理を極め、自らの知を極める」と理解され、それによって後者の「修身に努め、国を治める」ことが説かれた。自己修身という小事を経て、国を治める大事に至る――この成語を標榜するキサキの姿には、門主という立場といえどず驕らず、遥かな高みを目指してひたむきに精進する姿勢を垣間見ることができる。

 たとえその人物が山海経を治める者であろうとも、極悪人として忌避されている者であろうとも、時に誤り、学び続けるごく普通の"生徒"であることに変わりはない。

 今回の山海経シナリオ『五塵来降』の文脈ではそう換言できるでしょうか。以下、備忘録も兼ねた感想です。

(※メインシナリオ、『学漫同人物語』、竜華キサキ絆ストーリーの内容にも言及します。未読の方はご注意ください)

<前回『月華夢騒』の感想記事はこちら>




天より追放されし者――申谷カイと竜華キサキ

「先生、お願い!お願い!」
「あたしだって先生におんぶされたい!!!」

ク ッ ッ ソ か わ い い ❗ ❗

 ロリコンと言われようが私は一向に構わんッッ。かわいいもんはかかわいいんだ! ……ということで早口で語らせてもらうとですね、キサキ様の園児服もさることながら、ルミ会長(幼女)があまりにも良すぎる。

 この小さな体格だから余計に強調される大きなケモミミ。そして何より特筆すべきはスカートの裾を摘まむ所作。上品な淑女を思わせるその所作は、中身が紛れもなくお姉さんであることを感じさせてくれる。しかし小さな女の子が強がって大人らしく振舞っているという強がりや、いじらしさをついつい見出してしまいます。"お姉さん"と"幼女"が見事に融合している立ち絵。重畳。控えめに採点して100点。

 ぐっへっへっ。みんなワガママだねえ。じゃあ、おじさんと遊びに行こうか。さあこのハイエースに乗って……親御さんにはきちんと経緯を伝えて、宿題を済ませてから、夕方5時までにはお家に帰ろうねえ😊

「今の玄龍門に――キサキは必要か?」
「山海経に――キサキは必要か?」

 いきなり話が脱線しました。中盤までの流れをざっくり振り返りつつ、申谷カイの思想を見てみます。前回『月華夢騒』での動揺が冷めやらぬ中、月影祭の準備が粛々と執り行われる山海経。そこに申谷カイが帰郷。仙丹の試薬で得た力によって玄龍門を圧倒した上で、構成員たちの不安を煽る。君たちも気づいているはずだ。門主は口では伝統を守るといいながら、心の奥底では別のことを考えているかもしれない。そのような門主は山海経に必要か。今こそ君たち自身で考える時ではないか、と。

 外部との接触が増えてさまざまな事件が起きる中、玄龍門では門主の意向に疑念を抱く者が後を絶たなかった。その不安はカイの巧みな話術に扇動されて最高潮に。かくして強硬派の構成員たちはキサキが不在の折に、一時的にでも新しい門主を擁立することを画策。山海経の伝統と文化を守り抜く集団である京劇部、その部長である漆原カグヤを指名した。

 しかし、その先で行われた議論は、"自分自身で考える"とは言い難いものであった――

(誰も責任を取ろうとしない……)

 カグヤは忠義により推戴を固辞。代わりに校則の範囲内で玄龍門をまとめることになった。しかし具体的な施策の話になり、「それは玄龍門としての意見ですか」と問えば、言葉を濁した答えが返ってくる。採決を下せば「カグヤ様もこの意見に賛同したということで」と言質を取ってくる。誰も責任を取ろうとしない。我々は責任を取ってくれるスケープゴートを欲しているだけだ、と言わんばかりの態度。

 目上の人間を敬う、伝統や礼儀作法を重んじる、徳を備える統治者の命令に従う。山海経におけるこうした儒教的倫理観や徳治主義は、いつしか統治者への依存度を極限まで高め、守るべき伝統が形骸化し、伝統や権威への傀儡に成り下がる状態を生み出すことになったのだろう。

「今までの山海経は――すべてを過去に縛りつけようとしておった。」
「過去の教訓から何かを見出すのではなく、過去の規則を遵守し――判断よりも服従を優先していた。」

 この点、上記のキサキの言葉や、「私の知る玄龍門は、自らの思考を放棄した集団だった」というカイの指摘は的を射ていると言える。玄龍門は仁義を説きながらも、実際は己の利のために動き、門主の言いなりになっているだけの愚鈍な集団であると、カイは露悪的に捉えている様子。

「そりゃそうさね。大半の人間は、無知な上に貪欲なものだから。」

 行間を読む形になるが、カイの目を通して見れば、キサキは門主として無知蒙昧な生徒たちを導く存在であり、大義名分を掲げて伝統を破る形でカイを処分した。片や、カイも生徒たちの欲望につけ込み、不老不死の仙丹を生み出すために社会的倫理に反する実験を続けた。私と君は、大義のために小事を切り捨てながら、無知蒙昧な"凡夫"たちを崇高なる理想へと導いている。そこに違いはない。にも関わらず私だけが追放されるのは不公平じゃないか。君も同じ苦しみを味わうべきだろう。と、自分とキサキを並列して語る理屈を備えている。キサキ自身も「妾は大事の前の小事として彼女を切り捨てた。じゃから、その報いを受けているのやもしれぬ。」と語る場面がある。

 この二人の同質性について、もう少し深堀りしてみると――不老不死の仙丹を求めて追放されたという来歴、五塵の獼猴びこう(猿)という異名、「猿の手」になぞらえた風評。申谷カイの元ネタは孫悟空だろう。

 『西遊記』では、孫悟空は不老不死の力を求めて旅立つ。やがて天界に至り、斉天大聖を名乗って乱暴狼藉を働き、お釈迦様によって天界から追放される。というのが三蔵法師に出会うまでの前日譚。

「花が散り洪水となっても――雷が落ちたとしても。
天変地異でさえ、君の責任となる。」
「それが――山海経の門主だろう?」

 竜華キサキにも"天"に関わる話が出てくる。上記のカイの発言は、前回の『月華夢騒』終盤でもキサキが同じことをつぶやいているので、元より山海経では一般的な思想なのだろう。これは中国史においては天命思想、天人相関説、災異説などが該当する。天命を受けた天子たる君主が国を統治し、徳を失えば別の者に命が下るとされていた。カグヤの京劇においても、黒き門主が徳を失ったことで天罰が下り、地が乱れる様が表現された。

 天界から追放された猿、天命を受けながらもその座を追われる君主。同じ道を辿る両者の対決が地上で幕を開ける――が、キサキはカイとは異なる選択をする。


未来のために

"キサキは門主としての選択をしただけだよ。"
"カイは責任転嫁をしているだけだよ。自分の責任は自分で負わなければ。"

 強引に追放処分を下したことでカイの恨みを買い、山海経は未曾有の事件に巻き込まれることになった。全ての責任は門主である自分にある。――そう語るにキサキに対して、先生は言葉を贈る。カイの追放処分ついては、カイ自身が責任を負わなければならない、と。儒教の経典とも言える『論語』の言葉を借りれば、「君子は諸を己に求め、小人は諸を人に求む(徳のある者は自分に責任を求め、そうでない者は他人に求める)」か。

 今この瞬間も過去になる。それでも私たちは現在に責任を負い、ただ最善を尽くして生きていくしかない。いつか訪れる現在未来に自信を持って恥ずかしくない答えを返すためだ。先生はそう語る。

タカネ:
過去も同じ。現在は過去の集大成と申しますが、過去をありのままに記憶しようとする人は少ないです。忘却し、美化し、思い出の向こうに押し込めていくだけ……

そういう意味で私たちが大切にしているのは現在だけかもしれませんが、現在という物は存在しません。なぜならそれは、無限に訪れる「未来」と絶えず押し流されていく「過去」の狭間にだけ存在する一瞬の概念だからです。

だからこそ現在を扱う話は……過去について、そして未来について話さなければなりません。
それが時間という忘却に弱く、そこから抗えない「何か」に対する礼儀であり敬意です。

『学漫同人物語~2人が求める最終回~』
レッドウィンターの平凡なる一日(2)

 『学漫同人物語』でもタカネが似たようなことを言っていたので、いずれメインシナリオでも掘り下げられそうなテーマですね。百花繚乱編がそうなるんじゃないかなと予想してます。

 タカネの言葉を借りれば、山海経の現在について語るなら、キサキとカイの来歴や伝統といった"過去"と同程度に、"未来"についても語ること。それこそが、過去と未来の交差点である"現在"を生きる私たちが、忘れられていく「何か」に尽くせる礼儀である。祈りである。「忘れられた神々のためのキリエ」である。そう言い換えられるだろうか。

「……昨日の私たちが間違った選択をしなかったと――
――どうか、君たちの手で証明してくれ。」
(カルバノグの兎編2章22話)

 故きを温ねて新しきを知る、以て師為る可し(温故知新)。これも『論語』の言葉だ。伝統を重んじること。それは己を縛るためにあるのではない。服従するためだけにあるのではない。"現在"を、"未来"を生きるためにある――

「じゃが、千里の外を見渡すためには――楼閣をもう一層登らねばならぬ。
足で直接大地を踏みしめ、その眼で直接空を見上げねばならぬ。」

 かくして玉座から転げ落ちた門主は、大地を踏みしめ、再び天を仰ぐ。


万物斉同――同じ空の下に生きる

「であれば――妾はその道を歩まぬ。」

 漆原カグヤは反逆者を演じ、見せしめになることで、門主の威厳を取り戻させることを画策。混乱に陥った山海経を門主として平定するには、「皆を導くべき立場にあるのは門主様ご自身である、と。天に轟くほどの声で宣言しなければならないのです」。彼女はそのために倒されるべき反逆者の汚名を着る。

 しかし、キサキはこれを拒否。門主としての威厳を確実なものとするためにカグヤを犠牲にする、という選択をしなかった。

 彼女が歩む「道」とは何か。それは覇道を征くのではなく、完璧な聖人君子として生きるでもなく、

「凡夫の一人として――あの時と同じく、山海経に其方の居場所はないということを、改めて告げよう。」

 "凡夫"の一人として生きることであった。「我らは皆――凡夫である部分を持っている」。自分と"凡夫"を区別するカイの思想とは、真っ向から対立する生き様だ。若返り現象を治して元の身体に戻っていいのかと問われた際も、構わないと即答する。それで皆が救われるなら、と。

 キサキがこう語る第10話のタイトルは「同じ空の下で」。これは『荘子』逍遥篇の一節を思い起こさせる。

野馬や、塵埃や、生物の息を以て相い吹くものなり。天の蒼蒼たるは、其の正色なるか。其れ遠くして至極する所無きがためか。其の下を視るや、亦た是の若きならんのみ。

『荘子』

 地上は塵埃が舞い、野馬などの生物たちの息吹が芽吹いている。そこから見上げる空は何とも蒼蒼しく見えるが、それは空の本当の色だろうか。ただ遥か遠くにあるからそう見えるだけなのだろうか。鵬(体長数千里の巨鳥)から見る地上も、それと同じように見えていることだろう。という寓言だ。

 玄龍門と玄武商会。門主と臣下。穏健派と強硬派の対立。現在の山海経はかくも、さまざまな立場や思想を持った生徒たちが、地上にひしめき合っている。しかし、天空の遥か上から見下ろせば、その景色は一つの色に過ぎない。他ならぬ門主もそうである。

 門主という立場ではあるが、"凡夫"とそうでない者とを区別し、自分の傀儡とするようなことはあってはならない。山海経に生きる有象無象の一人として、共に大地を踏みしめ、皆と同じ空を見上げる。その中であれこれ面倒事を引き受けながら、いつか訪れる未来のために責任を負う。聖人君子のような立派な行ないにはならないかもしれない。元より、伝統を破る形で生まれた門主という立場にいる。だからこそ、自分は"凡夫"として最善を尽くして精進するのみ。――それが、先生から責任の負い方を説かれた竜華キサキが至った境地ではないだろうか。

キサキ:
我らは……我らを訪ねてきた神仙が、どのような者なのか、最後まで分からぬこともあるじゃろう。

もしかしたら、それ故に――神仙を「悪仙」や「妖仙」かもしれぬと思い込み――

誰も受け入れようとしなかったのやもしれぬ。

『五塵来降』エピローグ

 後に、「月に旅立った神仙がこの地に舞い戻り、下界を周遊した後、また旅に出る」という月影祭の伝説について、キサキはこう語っている。相手が本心の知れぬ神仙であろうとも、安易に悪仙や妖仙と決めつけない。玄竜の門の下に等しく受け入れようとする。そんな姿勢を読み取ることができる。

「日が傾いて、あたりが暗くなる――この刹那せつなには、形容しがたい美しさが潜んでおる。」
(絆ストーリー4話)

 絆ストーリーでも"境界の曖昧さ"が描かれる。昼でも夜でもない、曖昧な境界である夕暮れ時が好きだとキサキは語る。それは門主という身分の区分すらも曖昧になり、自由を実感できるからこその憧憬か。あるいは門主として、多様な生徒たちが『竜武同舟』に生きるという理想を見出しているのかもしれない。偉大な門主と純粋無垢な子ども、夢と現実、嘘と本音。身分の差。絆ストーリーのキサキは実に色々な顔を見せる。

 絆ストーリー第2話のタイトルは「胡蝶の夢」。こちらも『荘子』が出典の成語。同書で説かれる「万物斉同」では、美醜も、善悪も、物事の良し悪しも、生も死も、夢も現実も、彼我の区別すらも、全ては人間の主観に過ぎない。世界の根源たる「道」において、万物は全て等しい。

「妾は今、弱っているのかもしれぬが……
弱ったふりをしているだけかもしれぬ。」
「あるいは……先生の出方を伺っているだけなのやも。
単に――其方を心から信じているだけかもしれぬしな?」
(絆ストーリー4話)

 確かな正解はない。自他共に心を見通すことはできない。しかしその世界を、ひとりの凡夫として、地に足をつけて生きる。それが竜華キサキの生き様なのだろう。

「我らレッドウィンターの厳冬の前では、みなが公平である……」
「そして、それは我らの心を熊のように強靭なものとするのだ!」

 そこには、先生の言葉だけではなく、レッドウィンター連邦学園の影響もあっただろう。

 すなわち、これは彼女に突然降ってきた天啓にあらず。格物致知。修身斉家。見聞を広め、常に修養に努めてきた彼女だからこそ、辿り着くことができた答えだ。


申谷カイという"ごく普通の生徒"

「結局、自分の価値を下げる方を選んだのか……見損なったよ、キサキ。」

 かくして、キサキとカイは道を違えた。しかし、万物斉同やキサキの言葉を押し広げれば、世間的には極悪人として扱われる申谷カイも「凡夫である部分を持っている」ことになる。悪仙と決めつけて必要以上に怖がっていたのかもしれない。どれだけ天界で暴れ回ろうとも、全てはお釈迦様の掌の上、か。

 もちろん、先生にとっても――

"だとしても私は最善を尽くすよ。"
"私たちにはそれ以外できることがないから。"

 銀行強盗をしようとも。死の神アヌビスであろうとも。「魔女」や「魔王」の烙印を押されようとも。先生にとっては、悩み苦しむ生徒であることに変わりなく、困っていれば手を差し伸べる。それは申谷カイとて例外ではない。カイ曰く「決して反省せず、救いようのない、世間では化け物同然に扱われている生徒」であっても。最善を尽くすと先生は約束する。そして、

"君が、君自身を諦めないでほしい。"

 ……これは思わず痺れましたねえ。救いようがないと、自分自身で思い込んでいる。でもそんなことはない。望むなら君は変われる。あるいは、何度失敗してもいい、不老不死の仙丹を生み出すという夢の実現を諦めないでほしい、という意図もあるか。たとえどんな生徒であろうとも、なりたい自分になることを、夢を応援することを。いつもと変わらない言葉を先生は贈る。

 不知火カヤ防衛室長! 聞いてるか! 私も信じてっからな! 手段は全ッッッ然褒められたもんじゃねえけど、おめぇさんはこんな所で終わるようなタマじゃねえっ。いつか返り咲くを日を私はずっと待ってる! だからおめえも諦めんな! カイだってここ山海経で、萬年参がトゥルルって頑張ってるんだから! お米食べろ!

「山海経は私を忘れた。だが、私は忘れてなどいない。
――忘れられないのさ。」
(『月華夢騒』5話)

 そして、先生の言葉はカイの"未来"を語ることでもある。"現在"を扱う話は、"過去"について、そして"未来"について話さなければならない――全ての記録を抹消され、山海経から忘れられていた"過去"の存在を、"未来"へ送り出す。『五塵来降』は、申谷カイという忘れられた生徒を救済する物語でもあったと言えるだろう。

 彼女もまた、同じ空の下に生きる一人の生徒。はたして彼女の未来はいかなるものか。『西遊記』では、孫悟空は天界を追放された後、三蔵法師、猪八戒、沙悟浄と共に天竺を目指す旅に出る。――カイも数々の苦難が待ち受け、時には厳しく戒められることもあるだろうが、きっと何かを成し遂げる。何とはなしにそんな思いを馳せることができる。


完走した感想

無知な者の前で京劇を演じることは「屈辱」と言い聞かされたカグヤだが、月影祭では再び披露している。
心境の変化があったのかもしれませんね。

 これがイベントシナリオってマジ❗❓ メインシナリオ級の怒涛の展開では❗❓

 いやあ~……すんげえ良かった。まさに山海経シナリオの集大成。『ネバーランドでつかまえて』の若返り現象と、子どもたちの未来を守るシェン教官の葛藤。『龍武同舟』では玄武商会と玄竜門の対立。『月華夢騒』では外部交流の本格化と、それに伴う政変、チェリノ会長が示した新たな思想。それらを土台にして、竜華キサキは山海経に生きる一人として大地を駆け上がり、生徒たちを未来へ導く。引いては、申谷カイすらも公平に受け入れて再び裁決を下し、「玄龍門は何度でも其方を相手しよう」と宣言する。その偉大に姿に平服するばかりでした。

 そして、多様な政治思想が絡み合うポリティカル・フィクション要素を含みながらも、未来に歩み出す山海経の生徒たちを「青春の物語」として描く。『ブルーアーカイブ』の本領発揮とも言える傑作回でした。

 ……ってかさあ! 山海経の生徒はどいつもこいつも顔が良すぎるし主従ブロマンスが似合いすぎるんだよ! ずっと「ひゃだ……///」「しゅきぃ……///」ってなりながら読んでたわ。ということで漆原カグヤと朱城ルミ(幼女)の実装と……凡夫である私の卑俗な願いではございますが、キサキ様のASMR、お待ちしております。次回は景気よく水着イベントなどいかがでしょうか。

「過去の責任を、過去のSRTと共に。
この深淵アビスに埋めてしまうために――」
「だから……お願いだ、ここから離れてくれ。」
(カルバノグの兎編2章22話)

 それと、本文中でも触れた通り、『学漫同人物語』『カルバノグの兎編』をふと思い出して読み返してみると、符合する台詞がちらほら目につきました。過去を"過去”のままで終わらせない。"未来"へ送り出す。百花繚乱編の灯篭流しにも重なりますかね。最終編以後のシナリオの目指す方向が何となく見えてきた気がします。今後の展開にますます期待が高まるばかり。

 ……"過去"といえば、プロジェクトKV騒動もありましたね。正直あの件については言いたいことがめちゃくちゃありますが、心の中に留めておきます。"過去"はしっかりと受け止めた上で、やはり"現在"や"未来"にも目を向けていきたい。今回のシナリオを読むとそう思わせてくれます。


 長くなりましたが最後に。『論語』の言葉を。朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり。真理の「道」を悟ることができたのなら、その晩に死んでも構わない。孔子はそう語ったのだという。徳のある人間とは何かを語り続けた人物ですら、絶対的な正解は分からない。むしろ安易な正解に満足せず、生きている限り常に探求し続けなければならない、というのがこの言葉の意味するところだろう。

 誰にも正解は分からない。万物の根源たる「道」は、人間に到底計れるものではない。どれほど大局を見ようとしても、自分の行動は本当に正しいのか、その行動が将来に何をもたらすのか。確かなことはわからず、私たちは彷徨い続けなければならない。




 ――しかし、それは今日最善を尽くさない理由にはならない。私たちは大地を踏みしめて歩み続ける。いつか訪れる未来のために。それではまたどこかで。

<ブルアカ関連記事>

参考文献:
『大学・中庸』矢羽野隆男, 角川ソフィア文庫
『西遊記 10歳までに読みたい世界名作』学研プラス
『論語 増補版』加地伸行, 講談社学術文庫
『荘子 上 全訳注』池田知久, 講談社学術文庫
『NHK「100分de名著」ブックス 荘子』玄侑宗久, NHK出版