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若き魔神のための教科書③
第三章 不死鳥の血
七.「それ信じていいわ、コウジくん」
コウジは自宅に帰って一人で布団の上にひっくり返った。今朝はあんなに狭苦しかった部屋が、なぜだか今は妙に広くさびしく見える。無理もない…ここ2ヶ月ばかりずっとあいつがいっしょにいたからである。飯も、寝る時も、勉強もいっしょ…乱暴で、単純で、どじで、陽気な炎の魔神。居たら居たで暑苦しいし、騒がしいし、大飯ぐらいだし、疲れてしまうのだが…
こんな宴会一つで、ちょっと口論したくらいでこんなにいらいらしてしまうのである。
(なんだか心配だ…あいつ、大丈夫かな)
「ガキじゃないんだから」…そう理性では判っているのに、どうしても心のどこかで不安感がある。いや、不安感というものではない。「いつも居るものが居ない」…まるで下着をはかずに街を歩くような、すわりの悪い感じなのである。
(あいつ、ちゃんとバンダナつけて帰ってくるかな。忘れたら大変だし…あ、ラーメンくらい作ってやったら方がいいかな…)
なんだか世話を焼きすぎである…そう思うのだが、天井を眺めているとそういうことばかり考えてしまう。あの魔神が世間知らず過ぎるのが悪いのである…いや、魔神だから人間界のことが良く判らないのは当たり前なのだ。コウジが面倒見なければとっくの昔に悪い魔道士にだまされるとか、大事件を起こして追い回される羽目になるとか、そうなっているに違いないのである。もしかすると今もそんな大ちょんぼを起こしそうになっているかもしれない…セルティ先生は大丈夫だと言ったが、しかし帰り道まで面倒を見てくれるだろうか…
コウジはふと時計を見た。帰ってきたのは午後八時ごろで、今は午後十時ごろだから、もうあの後二時間も宴会をしている事になる。多分二次会にでもいったのだろうが…もしバンダナなしで居酒屋やカラオケボックスに行ったら大騒ぎになってしまう。あれだけ酔っ払ってしまっていると、やはりバンダナなんて(あれだけ嫌がっているのだから)忘れてしまうかもしれない…
(やっぱり…迎えに行ったほうがいいか…)
「酔っ払って寝ちゃっても迎えに行かないぞ!」と…大見得切った以上、ほいほい迎えに行くのもしゃくではある。しかしこの二時間ほどのいらいらはコウジにとっては耐えきれないほどのストレスだった。やっぱり駄目なのである。
コウジは意を決して布団から起きると、慌てて服を着て夜の街に飛び出したのである。
* * *
大学についたコウジは、宴会場になっていた教室へ行ってみた。校舎の外から見ても既に照明は消えているのだから…おそらく誰もいないだろう。しかしひょっとするとぐうぐう机か床の上かで眠っているかもしれない…そう思ったのである。
教室に入ってみるとごみやらお菓子の残骸やらは、とりあえず清掃されている。ちょっと明日掃除して、ごみ袋さえ捨てれば(部屋に残っている酒のにおいは別にして)授業はできそうな状態だった。しかし当然のごとく誰も居ない。部屋を一周してみても人っ子一人いないのである。やはり予想通り二次会へと行ってしまったのだろう。コウジは二次会の会場を聞くために、教室を出て研究室へ(二次会に出席しない生徒がお茶でも飲んでいるかもしれない)向かおうとした。
ところが、ふと教室の後ろの出入り口でコウジは奇妙なものが落ちているのを見つけたのである。白い…布だった。そう、例の「精霊力抑制バンダナ」だったのである。
(や、やばいっ!あいつっ、バンダナ忘れていったんだ!!)
コウジは薄汚れたバンダナを拾い上げた。靴の足跡までついている。恐らく…誰かに踏まれたのだろう。もしあの「巨大な炎の翼有り」のままカラオケボックスやら居酒屋に行ったなら、それだけで大騒ぎになる。いや、実際そんな事ができるのだろうか?恐らく生徒だけではない…いくら酔っ払っているといっても先生だっているのである。炎の魔神を「そのままで」酒場につれて行くなんていくらなんでも止めるはずだった。
それなら…いったいどうなってしまったのだろう?急性アルコール中毒で倒れたとか(魔神が急性アルコール中毒になるのかどうかはわからないが)酔っぱらって人をなぐってしまったとか…想像できることはろくでもない事ばかりである。
コウジはバンダナを握り締めると、そのままセルティ研究室へ走った。
* * *
「あらっ?みぎてくんもう帰ったわよ。二次会って話は聞いてないわ。」
セルティ先生は酔いを覚ますために、雑誌を読みながら研究室でお茶を飲んでいた。めったに彼女は最後まで(こういう宴会に)付き合う事はないのだが、今日はさすがに右手大魔神のお守りということでこんな遅くまでいたのである。で、彼女は生徒たち何人かにかかえられて一緒に帰る右手大魔神を送り出してから、部屋でのんびりお茶を飲んでいたというわけだった。
「まだ戻ってないの?九時ごろだから…もう一時間ほど前ね。カラオケでも行ったのかしら…」
彼女はちょっと首をかしげて不思議そうに言った。まあカラオケや居酒屋で二次会をやるというならば別段問題はないとおもうが…という表情である。事態をまだ把握していないのだ。
コウジは懐から例のバンダナを取り出して、まるで叫ぶように言った。
「先生っ!みぎてのやつ、これ忘れていったんです!」
汚れたバンダナを見せられた彼女は一瞬何の事か判らないようだったが、次の瞬間さすがに血相を変える。
「これ?あっ!精霊力の…バンダナっ!まずいわね!確かに」
「まずいです。あのままでカラオケとか行ったんでしょうか?」
「街に探しに行くわ!いっしょに来てっ!」
彼女も酔いがいっぺんにさめたようで、お茶を机において立ちあがった。そして壁に掛けてあるコートをひったくると慌ててひっかける。コウジはびっくりして彼女に聞いた。
「でも先生?どうやって?」
「あれだけ派手な精霊力を持ってる魔神よ。街中に行けばすぐわかるわ。トラブルが起きてなければいいけど…」
先生はそう言うとそのままかばんを持って飛び出した。コウジはバンダナを手に慌てて後を追いかける。こうして二人は再び夜の街に駆け出していったのである。
ところが…意外なことに右手大魔神の行方はなかなかわからなかった。もう深夜十二時ごろになるというのに、まったく彼の強烈な炎の精霊力が感じられないのである。かけだしの魔法使いであるコウジが判らないというのではない。魔法大学の教授であるセルティ先生ですら、あれだけの炎の精霊力が検知できないのである。これはもう単にトラブルに巻きこまれたとかそういう次元の話ではない。
「まずいわ…相手は魔法使いよ、コウジ君」
「まさか…そんなことが?」
そう言いながらもコウジにも事の重大さが次第に判ってきた。「バンダナ抜きの」右手大魔神の精霊力がまったく感じられないということは、あれだけの精霊力を隠してしまうだけの強い結界が関係しているのである。ということは、相手はそれだけの強力な魔道士であるということを意味していた。つまり右手大魔神は迷子になったのではない…「さらわれた」のである。ねらいはまったく判らないがとにかく誘拐されたのである。
しかしそういう事になると、セルティ先生の魔力でもそう簡単に行く先を探し出すということはできない。相手はあらかじめ準備をして犯行に及んだのだろうし、コウジ達は所詮ぶっつけ本番である。警察に頼むか、それとも知り会いを動員して探すか、どっちにせよ更に数時間以上時間がかかることになる。その間に右手大魔神の身に何か取り返しのつかないことが起きてしまうのではないか…想像するだけでコウジの心臓は早鐘のようになりはじめた。セルティ先生も同じ思いなのかもしれない。端正なエルフの顔に冷や汗のようなものが浮かんでいる。
「コウジ君、このままじゃらちがあかないわ。大学から探知呪文を使いましょう。」
「警察に届けなくていいですか?先生!」
「だめよっ、魔神だってこと警察にまで説明することはできないわ!」
先生も相当あせっているらしい。半分金きり声である。通りをあるく酔いどれ学生達が驚いて振り向くほどだった。しかしそんなことなど今の二人はまったく気にする精神的余裕はない。とにかく打つ手がない…焦燥感だけである、
二人は大学へと戻るために夜道を走り始めた。ところが…
その行く手に、一匹の「目玉」がいたのである。
* * *
「『メルディスの目玉』?!」
「あっ、あいつっ!?」
コウジとセルティ先生はほぼ同時に叫び声をあげた。あきらかに『メルディスの目玉』…この間コウジ達の家に忍びこんでいた、あの変な精霊である。頭(というか目玉)のところにこの間のたんこぶ…右手大魔神がぶつけた「お玉」のあとまで残っている。明らかに同一人物(精霊を人物というかどうかは別にして)である。
「気をつけてっ!魔道士の使い魔よ!」
「判ってます、先生。こいつ、この間俺の家に忍びこんできたやつと同じ精霊です!」
「そんなことがあったの?!」
二人は身構えて『メルディスの目玉』とにらみあった。目玉は…彼らのことをじっと見つめている。おそらく何か呪文を使うとか、二人の動きを見張って魔道士に連絡するとか…そういうことをしているのであろう。とにかくこのまま放置しておくわけにはいかなかった。手荒なことはしたくないが、容赦をしている場合ではないし、その精神的余裕もない。セルティ先生の口からは流れるように攻撃呪文の詠唱が始まる。ところが…
攻撃呪文を唱え始めたことに気がついた(らしい)メルディスの目玉は…意外なことにころりと転がって「死んだふり」をはじめたのである。
「ちょっと待って、先生!」
「!?」
コウジは呪文を放とうとするセルティ先生を手で制した。そして恐る恐るではあるが…目玉のほうへと歩き始めたのである。驚くセルティ先生はいつでも呪文を放てるようにしたまま、コウジが何をやろうとしているのか様子を見ていた。
コウジが近づいてもメルディスの目玉はそのままじっとしている。「死んだふり」ではない。これは前に見た「降参」のサイン…右手大魔神に「お玉」をぶつけられて捕まった後、コウジ達に見せた態度とまったく同じだった。
コウジはそっと「目玉」を抱えあげると、そいつはわずかに触手を動かして…そのままおとなしくコウジの腕に捕まった。
「コウジ君、どういうこと?」
「こいつ、俺たちこの間…見逃してやったんです。ほら、ここにたんこぶがあるでしょ?」
コウジは先日の事件を手短にセルティ先生に説明した。おそらくこの間「見逃してやった」ことを覚えていて、彼らの手伝いをしたい…そういうつもりなのだろう。別に根拠があるわけではないが、コウジは直感的にそう信じていた。
セルティ先生は少しだけ首をかしげていたが、コウジの確信に満ちた目を見て…納得したようにうなずいた。
「それ信じていいわ、コウジくん。精霊を信じる事…それが精霊使いの基本なのよ。」
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八.「あなた、何をやっているのか判っているの?」
コウジとセルティ先生は『メルディスの目玉』を抱えて、再び夜の街を駆け始めた。明らかに…目玉はコウジ達をある場所に誘導しようとしている。曲がり角にくるごとにこの奇妙な精霊は…でかい目でコウジを見て、うねうねと触手を伸ばして一方向を指し示すのである。こいつが…右手大魔神をさらった敵の使い魔で、そしてコウジの信じた通り(敵を裏切って)彼らを助けてくれるつもりであるというのならば、間違いなくこの先に右手大魔神はいる。いや、手掛かりがないのだからそう信じるしかない。
二人と一匹は次第に街はずれの、ユーグリファ河岸にある港のほうへと近づいていった。遠くメンフォロスやマグダから海を通ってやってくるたくさんの貿易船が入港している。倉庫と、そして桟橋とが無数に連なっている場所だった。
真夜中の…まっくらな倉庫群の中にコウジ達は突入した。案内がなければ確実に迷ってしまう…同じような建物ばかりが連なっているのである。しかし「メルディスの目玉」はその中を迷うことなく彼らを導いていった。
「コウジ君、炎の精霊力が近いわ。」
結界の中といっても、右手大魔神ほどの強力な精霊力ともなると完全には遮蔽し切れないらしい。漏れ出してくる熱い風のような力が…今やコウジにも感じ取る事ができた。そして次第にそれは…だんだん強くなってくる。
(みぎてが呼んでる!俺を!)
精霊力を感じ取ったとき、コウジははっきりとそれを意識した。呼んでいるのだ、あいつが…そう感じたときコウジは、敵が強力な魔道士である事を、そして危険と恐怖を完全に忘れた。恐れを知らない子供のように、コウジは導かれるままに「そこへ」と走っていったのである。
そして…その場所はすぐだった。
古い…プレハブの倉庫、それが目的地だった。倉庫街の奥である。『メルディスの目玉』の案内なしではとても見つけられないような、目立たないところだった。半ば錆びた壁の隙間からはわずかに光が漏れ出し、中に人がいることをうかがわせる。
二人と一匹は倉庫の入り口に立った。古ぼけたドアは隙間だらけだったが、しかし鍵がかかっているようだった。あまりがたがたとドアをこじ開けようとすれば、間違いなく中の連中に気づかれてしまう。
「先生っ!体当たりして一気に飛び込みます!」
「判ったわっ!」
コウジは「目玉」を先生に預けると、そのまま助走をつけて全力でドアに突っ込んだ。体当たりなんかしたことがないコウジである。初めての激痛が全身を掛けぬける…しかし今のコウジにはそんなことはまったく気にならなかった。
腐りかけていたドアはコウジの体当たりで一気に破れ、そのまま内側へと曲がってねじ切れた。同時に罵声のようなものがいっせいに聞こえてきたのである。
* * *
「な、なんだっ!貴様っ!」
転がり込んだコウジとセルティ先生の目の前には初老の学者と、そして数名の研究者らしき男たちが驚愕した表情で立っていた。ごちゃごちゃと置かれた荷物やガラクタの数々…そのほとんどは埃が厚く積もっており、ほとんどこの倉庫が使われていないことを物語っている。
その学者は侵入者のコウジ達に怒り狂っているらしい。言葉にならない罵声がコウジの耳に届く。コウジはその男の顔に見覚えがあった。夕方…あの宴会で会ったばかりなのである。
「あんたはっ!」
「アイルシュタイン教授っ!」
コウジにしつこく「みぎて」のことを聞こうとしたあの教授…そいつが右手大魔神を誘拐した犯人だったのである。
「セルティ教授…それにコウジくん、まさかおぬし達にここを見つけられるとは思わなんだ!」
入念に準備された結界をこんなに簡単に破られるとは思ってもいなかったのだろう。プライドを傷つけられた魔道士の怒りを満身で現していた。無理もない…彼らだってこの『メルディスの目玉』の助けがなければ、とてもこの場所を見つけ出す事などできなかっただろう。
しかしそんなアイルシュタイン教授の言葉などまったく無視して…コウジは怒鳴った。
「『みぎて』はどこだっ!さっさと返せっ!」
するとアイルシュタイン教授は馬鹿にしたような目をしてコウジを見た。「若造が」という、露骨な侮辱の意思が浮かび上がる。
「フレイムベラリオスか?くっくっく…お主のような駆け出し魔道士にはもったいなさ過ぎるぞ。素晴らしいサンプルだ!」
そういって教授はすぐ傍を指さした。コンテなの影に隠れてそこには硬い、大きな寝台のようなものがある。周囲には金属製のスタンドや、ガラスの瓶や…医療機器のような置かれていた。まるで野戦病院のような光景である。
そして寝台の上には…明々と輝く炎の翼と髪の毛、良く日焼けした褐色の肌と太くたくましい肢体の青年が、頑丈な金属製のかせできつく縛りあげられていた。そう…右手大魔神フレイムベラリオス…コウジの魔神、そして同居人…親友…家族とも兄弟ともつかない不思議な仲間…その彼が、惨めにも縛られていたのである。
* * *
「『みぎて』っ!!!」
コウジは叫んだ。すると叫びに答えてたしかに…意識はあるのか…少なくともコウジの声は聞こえているのだろう…魔神はもがいたのである。
しかし同時に彼を縛るかせが青いスパークを放った。強力な呪縛の呪文である。苦痛のうめき声がコウジの耳に、心にまで飛びこんでくる。
セルティ先生は冷たい目をしてアイルシュタイン教授を睨み付けた。
「あなた、何をやっているのか判っているの?生徒を誘拐して、こんなことまでして…」
セルティ先生の瞳は怒り一色に染まっている。学者として、そしてなにより教育者としての怒りだった。そう、前途ある自らの生徒を誘拐してなにかをたくらむという事自体が許しがたい行為なのである。既にセルティ先生の周りには強力な魔法の霊気が集まり始めていた。
アイルシュタイン教授はそんなセルティ先生を嘲笑するように見返した。
「ほほぉ、気がつかなんだか?セルティ教授…」
「どういうこと?」
アイルシュタイン教授は鼻でわずかに笑う。その表情は侮蔑と、そしてわずかな妬みのような色が浮かんでいた。セルティ先生も、そしてコウジも胸が悪くなるような、そんないやらしい…狂喜に満ちた笑みだった。
教授は蒼白なコウジに見せびらかすように、ポケットから大きな注射器を取り出した。そしてそのまますばやく右手大魔神の太くたくましいうでに突き刺したのである。
「やめろっ!」
無駄だと知りつつもコウジは叫んだ。痛み…まるでコウジ自身が針をつき刺されたような痛みが、魂にまではっきりと伝わってくる。
見る見るうちに注射器の中には右手大魔神の真紅の鮮血が勢い良く吸いこまれて行った。魔神の強い力が宿るその血は、まるでそれ自身が生命力の塊であるかのように神秘的な輝きを帯びていた。
大きな注射器になみなみと溜まった血を宙にかざして、アイルシュタイン教授は喜びの声をあげた。
「おおっ!これが『不死鳥の血』か!」
「不死鳥の?!まさか…」
教授は興奮を隠さずに叫んだ。それはまるで…何も知らない新聞記者に重大な発見を公表する…そんな喜びと熱気に満ちた声だった。
「そうじゃ!こいつは、ただの炎の魔神ではないぞ。滅多にいないフェニックス…不死鳥の精霊じゃ!一目で判ったわ!!」
「!」
「こやつの身体をすみずみまで調べて、不老不死の秘密を探らねばならぬ!それが魔法科学者としての義務じゃ!たとえこやつをバラバラに切り刻んでも!」
「たとえこやつをバラバラに切り刻んでも」…狂気に満ちたその言葉を聞いた瞬間、コウジの頭は真っ白になった。絶対に許すことはできない…それがいかなる理由であれ、「みぎて」をこれ以上を傷つけることなどコウジには許すことなどできなかった。人間を信じて、コウジを信じて遠い精霊界から来た魔神、馬鹿で、おっちょこちょいで、乱暴で…そして誰よりも陽気で純粋なあいつ…それをサンプルだの、バラバラに切り刻むだの…その言葉だけでもう十分だった。
「うわぁぁぁっ!!」
コウジは無我夢中で突っ込んだ。あいつを、彼の大事な家族を取り返さなければならない…苦痛と恐怖にさらされているあいつを…コウジの手に取り返す…それだけだった。
しかしコウジのそんな動きはアイルシュタイン教授にとってはとっくに予想済みだったのである。教授は助手達に手早く指示を下した。
「やつを近づけるなよ!殺してもかまわん!わしはあの女エルフと決着をつけるわい。」
教授は手にした注射器を傍の机に置くと、振り向き…そのまま強力な攻撃呪文を唱え始めたのである。
* * *
アイルシュタイン教授の強力な呪文攻撃をセルティ先生はかろうじて持ちこたえた。彼女自身強力な魔道士であるし、それに魔術戦の体制に入っていたのは彼女のほうが先である。そういう意味ではセルティ先生は決して不利ではない。
しかし…彼女から大きな攻撃呪文を放つということはあまりに危険過ぎた。なにせアイルシュタイン教授のすぐ横には人質が…右手大魔神がいるのである。これではとても満足な攻撃呪文を使う事などできない。魔術戦闘が基本的に攻撃力過大であるということを考えると、セルティ先生は圧倒的不利な状況に追いこまれていると言っても過言ではなかった。
「コウジ君!みぎて君を頼むわっ!」
彼女にとってもこの場を切り替えす唯一の策は、右手大魔神を奪回することだけだった。それまでは全魔力を結集してアイルシュタイン教授の攻撃をしのぎつづける…それだけしか道はないのである。
言われなくてもコウジはそうするつもりだった。いや、もうそういう理性的な判断はまるでない。彼の手で相棒を取り返す…ただそれだけだった。コウジの目の前に助手達が立ちふさがっている…手に手に木の棒やなにやらを持って…しかしコウジは恐れもせず彼らの中に突っ込んでいった。
ところが残念な事に…コウジは特に喧嘩が強いとか、格闘技をやっているとか、決してそういうわけではなかった。いや、こんな修羅場に突入したのは生まれて始めてといっても良い。当然の事ながら、すぐに助手達に行く手をはばまれて、いきなり木の棒で思いっきり背中や腕を殴られる羽目になってしまったのである。
「ちくしょおっ!」
目の前にいる助手の一人に体当たりをかましたコウジだったが、そのあと後ろから強烈な一撃を食らう。背中が焼けるように痛い…おそらく攻撃呪文だろう。思わず前につんのめって倒れたコウジに、再び強烈な呪文の一撃が襲いかかる。そして激痛…
気がつけばコウジの両手は火ぶくれができている。とても殴ったり武器を持って戦ったりできる状態ではなくなっていた。
「多勢に無勢だなっ!」
「たかが学生の分際で、教職員に逆らおうというからこうなるんだ!」
助手達は侮蔑の表情もあらわにコウジを取り囲んだ。たしかに言う通りである。人数でも負け、喧嘩も強くない、そして魔法ではとてもかなわない…はじめから勝負は見えている。しかし…それでもコウジは戦わずにいられなかった。あいつを取り返すために…そしてあいつ、右手大魔神とのにぎやかで、不思議で、熱い生活を取り返すために…
だから…コウジの闘志はまだ衰えていなかった。焼けついた両手を握り絞めることはできないものの、今度はそこに…呪文の炎が輝いていた。
「ほぉ~、まだやる気かよ!今度はへぼ学生の呪文戦かい?」
手にした魔法の光を見て、助手達はげらげら笑う。ちっぽけな火炎呪文…修行をつんだ魔法使いから見れば、ものの役にもたたないような小さな赤い光…
しかしこの小さな呪文はコウジにとって最後の…すべてを賭けた切り札だったのである。
コウジはよろよろと手を振りかざした。それはあたかも…助けを求めるような動きだった。助手達はそんなコウジの動きをあざ笑うように、再び彼の背中を蹴り飛ばした。コウジはその衝撃に身をよじりころがった。
「さあ、さっさとそのちっぽけな魔法を使っちまいな!」
助手達のあざ笑う中、コウジはゆっくりと呪文をかまえた。そして…
呪文は驚いたことに、助手の誰もが予想だにしなかった方向へと、流星のように明るい光を放ちながら飛んでいったのである。
九.「ドジな魔神の血で、不死身になれるって」
そこには古ぼけたタローの箱が落ちていた。さっき…蹴り飛ばされたときにコウジのポケットから転がり落ちたものである。あのタロー…コウジの祖母から受け継いだ占い札…そして彼が雪山の中で右手大魔神を呼び出した、「二人をつなぐカード」だった。
(みぎてっ!もう一度俺が呼び出してやるっ!)
助手達が驚き見つめる中、流星はタローの箱に突き刺さりパッとまばゆい炎をあげた。金色の炎…それはあの時と同じ熱い、本当に熱い光だった。今だから判る…あの炎はフェニックスの羽ばたきそのものなのだ…右手大魔神フレイムベラリオスの力強い翼そのものだった。
そして…
その炎は見る見るうちに大きくなり、天井にまで届くほどになった。そして強烈な炎の精霊力が熱風となって部屋いっぱいに広がる。
「しまったっ!!」
助手達は慌てたが、もはやあまりに激しく燃えあがる炎をどうすることもできなかった。そして炎の中からゆっくりと…背の高い男の姿が立ちあがる。巨大な炎の翼…そして若々しくたくましい肉体の魔神…
「みぎてっ!」
コウジは目を涙で一杯にして叫んだ。涙を押さえることなどできやしない…あいつが立ちあがった…炎の中から…帰ってきたのである。
「みぎてっ!!!」
「こーじっ!」
右手大魔神は傷ついたコウジを見るなり、あたかも彼自身が傷ついたような表情を見せ、そのまま翼を広げて飛びこんできた。周囲にいる助手など眼中にもない。もっとも助手達は右手大魔神の焼けつくような炎の力でとても近づくことなどできはしなかった。
魔神はコウジを太い腕で抱えあげ、叫ぶようにいった。
「こーじっ!すまねぇっ!俺…」
「みぎてっ!良かったっ!」
不思議なことに右手大魔神の腕に抱えあげられた瞬間、今までの怪我の痛みがうそのように退いてゆく。怪我の痛みも、やけどの痛みも…この魔神が半分背負ってくれたような、そんな不思議な感覚だった。
コウジは安堵の表情を浮かべ、右手大魔神に言った。
「みぎてっ!心配かけやがって!やっぱり俺の言ったとおりだろ?飲みすぎだって…」
「ごめんっ!わぁってる!悪かったっ!」
情けなくもぺこぺこ謝る魔神の姿は、まるでこの修羅場がうそのような…間の抜けた光景である。いつもの「みぎて」…騒がしくて、バカで、陽気な同居人だった。
しかし次の瞬間炎の魔神は恐ろしい表情を見せ、すっくと立ちあがった。その姿はまさしく魔神の力…総てのものを焼き尽くす魔力と破壊衝動とに満ち満ちていた。
「ちょっと待ってろ、こーじ。今ケリつけるからさっ!」
「そ、そうだ。セルティ先生が危ない!」
魔神はうなずくと周囲で…うろたえ、立ち尽くしている助手達をにらみつける。
「てめぇらっ!こーじにこんな怪我させやがってっ!生かして帰さねぇっ!」
魔神の炎の翼が大きく広がった。同時に灼熱の風が狭い倉庫の中に吹き荒れる。それはフレイムベラリオス…この炎の魔神の怒りそのものの熱さだった。
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* * *
決着はあっという間だった。真の魔神の力を発揮した右手大魔神の前には助手達など束になっても傷一つ負わせることはできなかった。もっとも彼らは魔法も中途半端、格闘術などはまったく知らないという連中だったから、右手大魔神の喧嘩殺法があれば、魔神の力などなくても十分勝てたのかもしれない。
こうなると今まで受け身一方だったセルティ先生もいっきに反撃に出ることができる。右手大魔神の強力な精霊力と、セルティ先生の攻撃呪文の両方にさらされたアイルシュタイン教授は今までの余裕はどこへやら、あっという間に追いつめられてしまうことになったのである。防御呪文も結界ももはや限界である。
「ここまでのようね。アイルシュタイン教授…」
セルティ先生は冷たくそう言った。もはやこの狂人に打つ手はないはずである。あと一撃ですべての防御呪文は崩壊してしまう…右手大魔神とコウジと、そしてセルティ教授に包囲されて、この老人は震えながら立っていた。
もっともセルティ先生にしてみれば、もうこれ以上馬鹿なことにつきあっていたくはない。むしろかなりひどい怪我をしているコウジの手当をするほうが重要であるし、目立ちすぎて警察がやってきたらもっと面倒なことになる。そう思うと…となりで怒りに肩を震わせて立っている右手大魔神をどうやって止めるかのほうが重要な課題である。
「もういいわ。コウジ君、みぎて君…」
「そうですね…俺、もういいです。」
セルティ先生の意図を察してコウジは右手大魔神の肩に手を当てた。怒りで興奮している右手大魔神だったが、さすがにコウジに止められると…しぶしぶだが納得したようである。コウジのほうを向いてうなずいた。
「面倒はいやだわ。人がくる前に帰りましょう。」
「まあいいや、俺さま…こーじの怪我が心配だ。」
たしかにコウジは助手達に袋叩きにあったせいで、服はぼろぼろ、頭も腕も血だらけだし、それに足の怪我でまともに歩ける状態ではなかった。右手大魔神はにこりと無邪気に笑うと、突然乱暴にコウジを抱えあげる。魔神の超人的な怪力にコウジは抵抗すらできなかった。
「み、みぎてっ!俺、歩けるからっ!恥ずいっって!」
「結構怪我、ひどいぜ。おとなしくしろっ!」
問答無用というように右手大魔神はコウジを背負ったままおろさない。セルティ先生はそんな二人を見て笑い始める。どこに隠れていたのかコウジ達を案内した『メルディスの目玉』も姿をあらわしてコウジの肩に飛び乗った。こうして三人は…無事倉庫から出て行こうとしたのである… ところが…
* * *
「ひ~っ、ひっひっ!馬鹿めっ!まだわしは負けたわけではないわっ!」
突然彼らの背後から狂ったような高笑いが聞こえてきた。セルティ先生とコウジ達は驚き、声のほうを振り向いた。そこにはアイルシュタイン教授がさっきまでの恐怖に歪んだ形相はどこへやら、不敵な笑いを浮かべ立っていたのである。
「まだやる気なの?教授…」
「てめぇっ!これ以上やるなら殺すぞ!」
三人はしかたなく身構えた。気は進まないが相手は仮にも高位の魔道士である。手を抜ける相手ではない。
アイルシュタイン教授はそんな彼らを見てわずかに恐怖の色を浮かべたが、意を決したように傍にあった何かをすばやく手にした。ガラス製の…太い注射器である。中にはさっき目にしたばかりの赤い液体が入っている。そう…それは右手大魔神の血液、『不死鳥の血』だったのである。
「あっ!!てめぇっ!」
「アイルシュタイン教授!」
教授は驚く三人の目の前で注射器を口に突っ込み、いっきに中の血液を飲み乾した。『不死鳥の血』…噂ではそれを飲んだものは不死になるといわれている…もしそれが本当ならば、目の前のアイルシュタイン教授は不死身になってしまうことになる。
一滴残らず注射器の血液を飲み乾した教授は…もう完全に狂ったように笑い出した。
「ふはっ、ふははははっ!ひひひひひっ!これで貴様ら、わしを倒すことはできぬぞ!」
そう言い置いて教授は再び呪文の詠唱を始めた。狂気に満ちた魔法の霊気が周囲に広がってゆく。セルティ先生も右手大魔神も守りを固めながら固唾を飲んで教授の様子を見つめていた。
しかし…
「ぎゃあぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
なんと驚いた事に…いきなりアイルシュタイン教授は口から火を吐いてぶっ倒れてしまったのである。何が起きたのかは一目了然だった。そう、フェニックスの血は不死身の薬なんかではなく…やはり所詮は炎の精霊の血にすぎなかったのである。そんなものを生で飲んで、炎の力が暴走して…こういう情けない結果になってしまったというわけだった。
白目を向いて倒れている教授を横目でみながら、セルティ先生はあきれかえったように言った。
「だと思ったわ。こんなドジな魔神の血で、不死身になれるって…あたし絶対に信じられないもの。」
「あ~っ!せ、せんせ、それひでぇよ!」
口を尖らせて抗議する右手大魔神にコウジとセルティ先生は…いたむ傷を押さえながら笑い転げたのである。
十.「おまえみたいなバカ、俺以外にだれが」
アイルシュタイン教授とその馬鹿な助手たちを病院に放りこみ、三人は帰宅の途についた。いや、実際の話警察に詳しい話をしたわけではない。そんな事をすれば右手大魔神が「魔神」であることが街中にわかってしまうし、アイルシュタイン教授の馬鹿げた実験も、倉庫の中での大合戦もばれてしまって大変なことになる。当のアイルシュタイン教授達はもちろんのこと、コウジ達も事が表ざたになるのは非常に都合が悪い。
というわけで…今回のことは深夜の「実験失敗による事故」ということでごまかすことになってしまったのである。
病院で両手両足を包帯をぐるぐる巻きにされ、コウジは「みぎて」に背負われて帰宅することになった。幸い怪我のほうは見かけよりは軽傷で、すぐに直るということだったが…痛いことには変わりない。コウジとしてみれば右手大魔神やセルティ先生に格好悪いところを見られたくないので、意地でも歩いて帰るつもりだった。ところが…ごねるコウジを見た右手大魔神は、さっきと同じようにいきなり彼の身体を抱えあげるとあっさり背負ってしまったのである。
こうして…恥ずかしいという本人の意向をまったく無視して、コウジは魔神に運ばれて夜道を下宿へ帰ることになったのだった。
帰宅途中も右手大魔神はコウジに謝りっぱなしだった。いや、帰宅中だけではない…下宿に戻っても右手大魔神は布団を敷いたり、手際良く包帯を取りかえてやったり、もう必死になって機嫌を取ろうとしている。しかしコウジはぶすっとしたまま…まったく口を開かなかった。
「な、リンゴ食うか?こーじ?剥いてやるぜ。」
「…」
「風呂は…それじゃ無理だよな…じゃ、身体くらい拭くか?血だらけだし…」
「自分でやるからいい。」
という具合である。こうなってしまうと右手大魔神はとことん弱い。明らかに今回は彼の失敗…酒の飲みすぎだし、コウジが右手大魔神のためにここまでひどい怪我をしてしまったのも事実だし…迷惑をかけすぎである。あんまりコウジがぶすっとしているもので、最初は必死に機嫌をとろうとしていた右手大魔神も、だんだん無口になってくる。自分の情けなさが身にしみているのである。
「こ、こーじ、なんとか言ってくれよ。ごめんって謝ってるだろ…」
「…もういい。俺、寝るよ。」
「絶対許してないぞ」…コウジの顔にはそう書いてある。それを見ておろおろする魔神の姿は、さっき見せた怒りの形相とかけ離れすぎて同一人物とは思えない。
布団に転がったコウジに、右手大魔神はしゅんとしてついに部屋の隅で膝を抱えてしまった。巨体の魔神が膝を抱えて落ちこむ姿は情けないというか、笑えるというか…もうどうしようもない姿である。
「俺さま…やっぱ人間といっしょに暮らすって無理なのかな…こーじに大怪我させちまったし…」
「…」
「こーじ…やっぱ迷惑だったか?もしそうだったら、俺さま…精霊界に帰るよ。」
何も言わないコウジを見て、魔神は首を横に振って肩を落とした。そして…傍にあった荷物をまとめ始める。その背中には明らかに後悔と絶望のようなものが浮かんでいた。
すると…今まで横になっていたコウジが起きあがって一言いったのである。
「みぎて、ちょっとこっち来い。」
* * *
「こーじ?…」
突然の事に右手大魔神は首を傾げ、緊張した面持ちでコウジの前に正座した。コウジは…どういうわけだかニヤリと笑う。そして…まるで宣告するように言った。
「みぎて。前におまえが俺に言ったこと、覚えてるか?」
「えっ?…俺さまが…」
コウジは明らかに…見下したような表情をする。右手大魔神は何のことか判らず、ただただうろたえてコウジの目を見つめていた。まるでその目は仔犬のようなきれいな光をたたえている。
コウジは意地悪く、その目を無視して言葉を続けた。
「そうだよ、みぎて。おまえ、前に俺を助けてくれたとき、俺に…一つだけ言うことを聞けって言ったよな。」
「…」
「今度は俺がおまえのピンチを助けてやった。じゃ、おまえ、どうするんだ?」
「あ、ああ…」
右手大魔神はぎくりとした。さすがに忘れてはいないらしい。雪山で遭難しかかったコウジに、「命を助ける代わりに言うことを聞け」と言って…結局こうしてコウジの家に転がりこんできた彼である。今度は同じ事をコウジに要求されてもしかたがないことだった。
ここぞとばかりに…意地悪くコウジは突っ込む。
「へぇ~っ、じゃ、約束を果たさずに精霊界に帰るって言うのはどういう了見?」
「そ、それは、その、俺さま…」
コウジはにやにやしながら右手大魔神の反応を楽しんだ。こうなってしまえば右手大魔神に勝ち目はない。しどろもどろになってもじもじしている。コウジが何を言いたいのかよく判らないし、どうしたらいいのかなど…ますますもって判らないのである。
しばしの間必死に考えていた右手大魔神だが、ついにやけになったようにコウジにわめいた。
「わーった!俺さまも大魔神だ!約束、守るぜ!何したらいいのか言えよ。」
そしてどかっとあぐらをくむと、コウジの目をじっとにらみつけた。真剣な…この同居人の目をみると、どういうわけかとてもコウジはうれしかった。それほどまで素直な、純粋な瞳だった。それが…コウジの瞳とあった瞬間、コウジの願いは決まっていたのである。
* * *
「…俺といっしょに住め。」
「…?!…」
「俺といっしょに住めって言ってるんだよ!このバカっ!」
コウジは真っ赤になってそう叫んだ。右手大魔神は最初言葉の意味が判らずにきょとんとしていたが、次に驚きと喜びの表情に代わり、最後に不安気な顔になった。
「で、でもこーじ…」
「おまえみたいなバカ、俺以外にだれが面倒見れるって言うんだ!」
そう叫んだコウジはそのまま…魔神の大きな肩を抱きしめた。魔神はどうしたらいいのか判らずに…そのままコウジの肩を抱えて、不思議そうにこの若い魔道士を見つめていた。
「いいかっ!おまえ、バカすきるから普通の、あんな教科書じゃぜんぜんわかんないよ。勉強だけじゃない!人間の世界も、そして俺の気持ちも!」
「……」
コウジはそう言って部屋の隅のダンボール箱を指さした。そこには先日もらったばかりの…古本の教科書がいっぱいに入っている。しかしあんな紙の束が何になるだろう。本は…所詮本に過ぎないのだ。本当にコウジが教えたいことはそんなものじゃないのだ。
コウジはもう一度力いっぱい魔神の大きな身体をだきしめて叫んだ。
「今日から、俺がおまえの教科書だ!だからここに住んでしっかり勉強しろっ!俺がずっと面倒見てやるから!いいな!」
「…こーじ…いいの…か?…」
驚きと喜びが入り混じったような表情で魔神はコウジを見た。コウジは…どうしたことか表情を見られないように下を向いている。ただ、右手大魔神にはコウジの耳が真っ赤になっていることが判るだけである。
わずかな沈黙の後、コウジは問いつめた。
「みぎてっ…返事は!」
「…こーじ…」
「さっさと返事しろよ!」
コウジにせっつかれるまでもなく右手大魔神の答えは決まっていた。約束だからではない。はじめから…そういう運命だったからである。
「こーじ、俺…おまえといっしょに住む。出て行くなんて言わない。」
「よし、約束だぞ!ほらっ」
コウジがさしだした小指は契約の印だった。右手大魔神…この魔界から来た若き魔神はゆっくりうなずくと…同じように太く短い小指をさしだす。そして二本の小指が力強く結びあった瞬間、二人の間には新しい契約が生まれた。それは…友情…二つの魂の間に結ばれる友情という名の契約だった。