ペトロダラーとペトロユアン
ペトロダラーとは日本で言うところのオイルマネーという意味でしかない。ところが、ペトロダラー体制は基軸通貨であるドルについての構図を示す。このトピックは国際金融論の教科書に掲載されることはない。国際関係論あたりだとこういうふわっとした話が講義されることもあるかもしれない。
サウジアラビアとの密約
ネット上の情報をまとめるとペトロダラー体制の概要は次のようなものである。1974年に米国とサウジアラビアとの間で密約が交わされた。米国から国務長官キッシンジャーがサウジアラビアを訪問し、密約の相手方はファハド皇太子であった。
サウジアラビアは米国へ石油をドル建てで安定的に供給する。石油輸出によって得たドルを西側の銀行へ預ける。その見返りとして、米国は外国の脅威からサウジアラビアを守る。また、米国はサウジアラビアに兵器を売却するとともに軍隊を訓練する。
言ってみれば石油と安全保障との交換取引である。この取引の背景にはIMF固定相場制の崩壊がある。ドルの価値は金によって保証されていたが、米国は金・ドル交換の義務を一方的に放棄した。その後、ドル価値は大きく低下した。
石油による裏付け
ペトロダラー体制の説明において、ドル価値を石油によって裏付けようとしたというレトリックに出くわす。この説明はにわかに得心いくものではない。IMF固定相場制のように金とドルとで交換比率が固定されているわけでなく、石油価格は変動する。また、金は資産であるが石油は消費すればなくなる。それゆえレトリックとして無理筋と考える。
ただし、次のような話であれば納得できる米国が石油購入することによってドルが海外流出する。ドル供給が増えることによってドル価値に低下圧力がかかる。サウジアラビアが入手したドルをドル預金する、さらにドル建て金融資産へ投資すればドルは米国へと還流する。言い換えるとドル需要は増加する。
米国によるドル供給がサウジアラビアによるドル建て資産の需要によって帳消しになる。米国は石油を手に入れ、サウジはドル建て資産を保有し、ドル価値は維持されるわけである。
米国との貿易関係
密約から50年が経過した。米国とサウジアラビアとの関係はどうなっているのか。貿易関係から確かめたい。下図(左)はサウジアラビアの対米貿易が貿易全体に占める比率を1974年から追いかけている。
2000年以後、輸出と輸入ともに対米比率が低下している。米国が石油をサウジアラビアに依存する必要性が小さくなったためである。2000年代後半のシェール革命によって米国の産油量は大きく増加し、米国はサウジアラビアを抜いて世界一の産油国となった。2020年には米国はついに石油の純輸出国へと転じた。
ドルがいまだに基軸通貨である理由をペトロダラー体制から説明するのはもう無理である。上述したマネーフローの構図は石油だけでなく商品全般へ拡大した。例えば、米国が最大の貿易赤字を計上する中国で考えよう。米国への輸出によって中国が受け取ったドルがドル建ての金融商品へ投資されればドル価値は維持されるのだ。
それではドル価値を支えているものは何か。それはドル建て負債の発行者である米国企業と米国政府に対する信用である。こうした発行者の負債を保有したいと考えるため世界中から米国へマネーが流入し、ドル価値を支えることになる。石油に価値が裏付けされているわけではない。
次はペトロユアン体制か
ペトロユアンという話を耳にするようになった。産油国が石油輸出の代金を人民元で受け取る話である。中国とサウジアラビアの貿易関係はかつての対米並みになったことが上図(右)から分かる。
ペトロダラーと同じ構造になるには、産油国が受け取った人民元をオフショア人民元預金にし、そこから人民元建ての金融商品で保有すればよい。香港であればオフショア人民元預金に預金し、そこから中国本土の株式、債券にも投資可能である。オイルマネーがロンドン経由で米国へ還流するのと同様のマネーフローが再現できる。
ただし、人民元の国際化をペトロダラーからの類推によって石油取引から考察することは筋が良くない。肝要なのが中国における負債の発行者が信用できるかどうかである。人民元の資本取引はずいぶんと規制が取り除かれたものの、安心して保有できる資産かと聞かれると首を縦に振るわけにはいかない。
問題は金融版チャイナリスクである。中国の民族主義や対外膨張主義は人権問題や歴史問題から日本製品の不買運動や反日デモを引き起こした。また米国との対立を米中貿易摩擦にまでエスカレートさせたことは記憶に新しい。一党独裁に起因する政策決定に係る不透明性によって制度が突然変更される政治リスクもある。
海外投資家が保有する人民元建て資産が金融制裁によって凍結されるリスクは皆無なのだろうか。人民元の国際化を評価する上で資本取引の自由度を上げることも大事であるが、究極的には中国が抱える政治リスクが無くならなければ、人民元建て資産を喜んで保有するのは難しい。
終
参考文献
山口昌樹(2023)「本邦金融機関の金融ビジネスの行方-チャイナリスクの影響と展望」、『月刊金融ジャーナル』、2023年12月号